第7話 -合宿2・夕食はB班で-
合宿初日の午後は、少々力を入れてのパート練習になった。
福崎先生も指導に回って来られ、先生はサックスが本職だから流石にその時は緊張した。
そのせいか午後の練習は意外にあっという間に過ぎていき、夕方5時半には放送部が準備していた「夕飯が届きました…」という案内放送が入った。
「上井君、B班行こうか」
前田先輩が声を掛けてくれた。
「はい、行きましょう」
俺と前田先輩は楽器をケースに仕舞って、夕飯準備に向かった。
「いいなー」
という伊東の声が聞こえたが、俺も前田先輩も馬耳東風だったのがオカシイ。
「冷房もないから暑いですね〜」
「まあね。特にウチの高校は西陽がよく入るから、夕方位が一番暑いかも。どうせなら、今シャワー浴びたいよ」
そう言う前田先輩の後を歩いていたら、汗をかいて体にTシャツが貼り付き、その下のブラジャーがくっきりと透けて見えてしまった。
(前田先輩、白か…意外に普通のブラなんだ…って、何見てんだよ、俺は)
「ん?どしたの、上井君。挙動不審じゃけど」
「あっ、いや、何でもないです…」
「本当?ならいいけど。暑くて体調が悪いとかだったら、早く教えてね」
嗚呼、こんな優しい美人の前田先輩のブラジャーが透けて見えるなんて、幸せと言うべきか、悪魔の囁きと言うべきか。
かくして業者さんが部活別に置いていった夕飯を、まず手分けして運ぶ。
B班の男手は俺と山中で、後は女性陣だが、その女性陣に前田先輩と、伊野さんがいる。
昼に見た忘れ去りたい光景を、B班の皆さんと夕飯の準備をすることで拭いたい…。
「よ、ウワイモ。夏バテしてないか?」
「イモは余計じゃっつーの」
俺と山中のお馴染みのやり取りだが、伊野さんは初めて見たようで、思わず噴き出していた。
「伊野さん、なんか可笑しかった?」
「だって、上井君にイモが付くなんてさ…」
伊野さんはツボにハマったようで、必死に笑いを堪えていた。
そんな伊野さんのTシャツ越しの背中にも、ブラジャーが透けて見える。
夏の1日を過ごした後だから、大抵は汗をかいているし、女子は普段の制服や体操服でも、ブラジャーが透けて見えることが多いが、こんなシチュエーションで片思いしている女の子のブラジャーが透けて見えることは、嬉しくもあり、罪悪感もあった。
「さて…」
3年1組の廊下に並べた机に、みんなで運んだ夕飯セットを置いたら、やっとメニューが分かった。
「わ、包丁がセットに入っとる。ということは…」
前田先輩がミニ包丁が5本セッティングされていることに気付いた。
メニューを見ると、前田先輩が昼に言っていた、封の空いてない絹ごし豆腐のパックがあり、冷奴と書いてあった。
「面倒くさいなぁ…」
他の2年女子の先輩方も、ええーっと声を上げている。
他のメニューは、嬉しいカレーライスなのだが、オマケ的な冷奴に、却って手間が掛かりそうな感じだ。
「先輩、俺やってみましょうか?」
包丁は殆ど使ったことがない俺だが、前田先輩や伊野さんの前でいい所を見せよう…という下心が大いに働き、冷奴の準備に率先して手を挙げてみた。
「ウワイモ、張り切っとるじゃん」
「イモは余計…。まあなんでも挑戦かなと思ってさ」
「そうか、俺はカレーのほうで頑張るよ」
山中はカレーのご飯を盛り付ける役に立候補していた。
「上井君、冷奴…というか、包丁大丈夫?」
前田先輩が心配してくれるが
「何事も挑戦ですよ!」
「じゃ、頼むね。あと冷奴といっても、切った後に盛り付ける人が必要じゃけぇ、もう1人…」
前田先輩は周囲を見回した。
「あの、アタシで良ければやります…」
と立候補してくれる女子がいた。なんと伊野さんだった。
(マジか!うわー、俺B班で良かった~!)
もし伊野さんがパートナーに来てくれたら嬉しいなとは思っていたが、なんと伊野さんから立候補してくれるなんて!
これは少しずつ距離が縮まっているって思ってもいいのか?
「あっ、伊野さん、上井君と一緒に冷奴やってくれる?助かるよ。じゃ、上井君が滅茶苦茶に切った豆腐を、綺麗に盛り付けてね」
「先輩、滅茶苦茶って…」
「ごめーん。物は言いようだよ。でもいいじゃん、男女2人で冷奴。記念に写真撮ろうっか」
「えっ、カメラなんてあるんですか?」
「うふふっ、『写ルンです』を持って来たのよ~」
「わっ、最近出たばっかりの…すげー。見せて下さい、先輩」
使い捨てカメラとして発売されたのが「写ルンです」だが、まだ発売されたばかりで、俺は初めてその正体を見た。
「これで写るんですか?」
「ダジャレみたいだけどね。アタシも合宿用に初めて買ってみたから、果たしてどうなるものやらね。せっかくだから上井君と伊野さんで、記念すべき初めての『写ルンです』のモデルになってくれない?」
「えっ…上井君と2人ですか?て、照れますね…」
伊野さんが顔を赤くしている。
「はーい、じゃコッチ向いて。撮るよ~。1+1は?」
「2!」
俺と伊野さんで並んでVサインをして前田先輩のほうを見た。お互いに少し照れてしまった。
「アタシが横にいてごめんね、上井君」
「何を仰るウサギさん!俺こそ迷惑じゃなかった?」
「…ううん、そんなこと、ないよ」
こんなやり取りが嬉しくてたまらない。自然と俺の顔がニヤニヤしてしまう。心の中はクワタバンドのスキップ・ビート状態だった。
さて「写ルンです」は、カシャッという音こそしたが、本当に撮れてるんだろうか?本物のカメラに比べてなんとも頼りなさげな感じがするが、とりあえず先輩に現像してもらわないと分からない。
前田先輩はその後も、カレー班の様子を撮影していたが、写ってるのかな?
ちゃんと写ってたら、伊野さんとの初めての2人切りの写真になる。何とかして手に入れたいが、前田先輩はきっと配慮して下さるはず!
去年、神戸と付き合っていた時も、担任の竹吉先生が2学期のクラスマッチの打ち上げで俺と神戸の2人の写真、しかも腕を組んだ状態の写真を撮ってくれたが、手紙類と一緒に3月末に燃やしてしまったしな…。
さて俺は昔話に浸る暇はない。冷奴の準備をせねばならない。
一応食事の準備用に持ってくるよう指示されていた、三角巾とエプロンを身に着け、包丁を手に握った。
「緊張する~」
「上井君、大丈夫?代わろうか?」
伊野さんが心配そうに見てくれるが、ここで引き下がっちゃ立候補した意味がない。
「大丈夫だよ!任せてて!」
俺は絹ごし豆腐のパックを並べると、1つ目を手に取り、外蓋を剥がした。
そしてゆっくり、ちゃんと洗った左の掌へと置く。
「ふぅ…」
「頑張ってね」
これを4等分すればいいのだ。たったそれだけだ。豆腐の味噌汁を作るわけじゃない。
縦と横に上から包丁を押し当てて…。
「いっ、伊野さん、まず4人分…」
「うん、分かったよ」
伊野さんの右手に、俺の左手から4等分された豆腐が渡される。
ちょっとだけ手と手が触れる。
(伊野さんの手に触っちゃった!)
伊野さんは流石女の子、手際よく4等分に切った豆腐を4つの小皿に分け、刻み葱を少々振りかけて、お盆に置いた。
「1つ目、上手くいったね!」
「うふっ、上井君の緊張が伝わってくるんだもん、なんだかアタシまで緊張しちゃった」
「ごめーん。でも1つ目が上手くいったから、この調子で…。いくつ切ればいいんだっけ?」
「絹ごし豆腐のパックは、一応10個あるの。でも全部は切らなくていいと思うんだけど」
「じゃ、9個ということにして、残り8個だね!頑張るよ~」
「上井君、ガンバレー」
と、俺は個数を重ねるごとに少しずつ切る手際も上手くなってきたつもりだった。
伊野さんとの息も合ってきた。
しかし、最後の9個目で惨劇が起きた。
調子に乗って左掌で豆腐を切りつつ、俺はつい力を入れすぎて、横に切るとき、明らかに自分の指も包丁の刃で切られた感触に包まれた。
しばらく左掌の豆腐を眺めていたら、当然伊野さんが
「上井君、どうしたの?」
と聞いてくる。
「もしかしたら…スプラッターな場面を…伊野さんに見せちゃうかも…」
「えっ?もしかして、指切っちゃった?」
伊野さんがそう言ってくれたのが号令になったのか、豆腐の切れ目から俺の血が滲んできた。
「キャッ、とりあえずこの豆腐は元のカップに戻して、傷見せて?」
伊野さんの言う通りにすると、左手の人差し指第一関節辺りを切ったようで、そこから血が出ていた。
「上井君、ごめんね、とりあえずの応急措置を…」
というと、なんと伊野さんは俺の左手人差し指を口に咥えてくれ、傷口付近にしばらく舌を当ててくれた。
俺は傷の痛さなどより、目の前で起きているシチュエーションが信じられず、頭がポーッとなってしまった。
伊野さんが俺の指を咥えてくれたのはほんの数秒だが、その官能的な状況は、傷がどうこうより、この左手の人差し指は一生洗わないでおこうと決めるのに必要十分すぎた。
ちょっと出血が弱まったかな?という所で、伊野さんはスカートのポケットから絆創膏を取り出し、俺の傷口にちょっとキツめに巻き付けてくれた。
まだ血は滲んでいたが、それほど深い傷でもなさそうで、助かった。
すぐにスカートから絆創膏が出てくるのは、これも流石女の子と言うべきか。ただ何かのキャラが描かれているので、ちょっと恥ずかしい面はあるが、そんなことを言ったら罰が当たる。
「伊野さん、ありがとう。なんてお礼を言ったらいいか…」
俺のその言葉には、一連の行為への感謝と、カレー班の部員には何も知らせずにササッと処置をしてくれたことへの感謝が込められている。
「な、なんか照れちゃうね。思い返したら、アタシ結構大胆なこと、しちゃって…」
しばらくお互いに照れていたが、伊野さんが思い出したように言った。
「あ、もう一つ豆腐を切らなきゃね。予備の1パックがあって良かったわ。後はアタシがやるからね。上井君はもしよければ、先に出来てるお豆腐を机に並べていってほしいな」
「うん、それなら指切らなくて済むもんね。やるよ~」
「ははっ、上井君ってば」
カレーライスの方も量が多くて、後の方で足りないとか、逆に余り過ぎたとか起きないように、意外にご飯とカレーの調節が難しいようだった。
「山中、大丈夫か?凄い汗かいとるけど」
「いや、ご飯ジャーからの熱気が凄いんよ。俺の汗が入っちゃいけんけぇ、ご飯をよそうにも気を使わなきゃいけんし。意外に大変じゃ」
「そうなんじゃね。B班で残り2回あるけど、カレーが出なきゃええね」
そうこう言いつつ、配膳をしていると、少しずつ他の部員が集まってくる。
「おっ、カレーじゃ!嬉しいのぉ。お代わり自由?」
誰彼となく聞いてくる。やっぱり何歳になってもカレーライスは嬉しいんだな~。
「残りの量次第~。だから分かんないわ」
山中がよそったご飯にカレーをかけていた、フルートの藤田先輩が答えていた。
同時に合宿している他の部もカレーだからか、高校全体にカレーの匂いが充満していくような気がする。
ほぼ全員揃ったところで、須藤部長の合掌でみんなカレーを食べ始めた。その中で須藤部長が今後の予定を説明しているが、聞こえているのだろうか?
「食事のあと、7時半まで休憩です。7時半からは音楽室で9時まで合奏です。休憩時間中に、シャワーに入れる人は入ってください。ただ今日は他に女子バレー部と、男女合同でバスケ部が合宿してますので、特に女子はシャワーについては待ち時間が出来たりするかもしれませんので、7時半までに無理だと思ったら、9時に今日の練習が終わった後に、シャワーを浴びてください」
…殆ど返事がない。みんなカレーに夢中だ。まあシャワーについては、きっと2年の先輩方がパート練習で1年生に説明してるだろう。サックスだってそうだったし。
そして夕飯の時間は、本当にあっという間に過ぎた。
やはりカレーライスというメニューは、食欲が増すもんだな…。
食べている時に周りの男子に、シャワーいつ入る?と聞いてみたら、食べた後は動きたくない~とか、美味いもの食べていい汗かいたのに、直後に冷水浴びるなんて嫌じゃ、という意見が殆どだった。
(じゃあ俺も9時以降にしようかな…)
B班以外がシャワーが休憩へと向かい、B班は食事の後片付けに取り掛かった。
(後片付けなんかしとったら、7時半までにシャワーなんか浴びれる訳ないじゃん)
と俺は、カレー用の使い捨て紙皿を集めながら思った。
「山中もシャワーは9時より後じゃろ?」
「ほうじゃね。本音は汗だくになったけぇ、早く冷水浴びたいけど、時間がなさすぎる」
前田先輩も言った。
「7時半とか9時とかなんとか言わずにさ、部長同士で話し合って、シャワーの時間を決めればいいと思わん?特に女子は今回一緒の部活が多いんじゃけぇ。着替えを持ってさ、冷水浴びる覚悟を決めてシャワー室に行ったら満員で待たされたりしたら、萎えちゃうもんね」
「部長同士でシャワーの時間を話し合うってのはいいですね。山中、来年は頼んだぞ」
「なんで俺なん?ウワイモこそ、前田先輩の魂の言葉を直接聞いたんじゃけぇ、来年、同時期に合宿する部があったら、頼んだぞ」
「俺、部長はもうええよ~。中学で懲りとるし」
「まあまあ。その辺りはまた俺らで話し合おうぜ」
雑談しながら夕食を片付けたら、すっかり外は暗くなっていた。あー、そろそろ全日本プロレス中継が始まるのになー。
「ね、上井君…」
「え?あっ、伊野さん」
「指の怪我、どう?」
「うん、もう血は止まったみたいだよ。気にかけてくれてありがとう」
「念のために、絆創膏、もう2枚上げるね」
「そんなの、いいよ。勿体無いよ。伊野さんのせいでケガした訳じゃないんだし」
「でも、持ってて」
伊野さんは半ば押し付けるように2枚の絆創膏をくれた。可愛いキャラ付きだが。
「いいの?本当に…」
「うん。この後、合奏して1枚、シャワーで1枚剥がれちゃうかもしれないから」
「ごめんね、気を使わせて…」
「ううん。一緒に冷奴準備してて、楽しかったよ。夜の合奏も頑張ろうね!」
伊野さんはそう言うと、女子の寝室へと先輩たちの後を追って走っていった。
「上井、伊野さんといい感じじゃんか…」
ちょっと離れた所にいた山中が、イモ抜きで話し掛けてきた。
「あっ、うん…」
「もしかしたら神戸さんと大村のことを吹っ切れるんじゃないか?もしそうなら、応援しちゃるけぇ、頑張れよ」
珍しく山中が真面目モードで話し掛けてくれた。山中は俺の中3の時の体験談を打ち明けた時、涙を流して頑張れと言ってくれた男だ。本当は優しくて人情味溢れるいい奴なのは、知っている。
俺は食事の準備で怪我をして、逆に伊野さんと更に距離を縮めるキッカケになったのかもしれない。
「怪我の功名ってやつかも」
「ケガ?ああ、お前の髪の毛が危ないって話か?」
最後はいつもの山中に戻っていた。
<次回へ続く>
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