海のマモノ
空を往く生物にとって、最も遠く恐ろしい場所と言えば『海』でございます。
羽を広げられるか分からない。囚われれば引きずり込まれて、二度と戻って来られない。恐ろしい死と穢れに満ちた国……翼人たちの恐れと想像とは、やがて一体の精霊種を生むに至りました。
ですが、精霊種とは『現象』に『信仰』が結びつくことで生まれ出るもの。
ただただ恐れる心だけで生み出された精霊は、精霊未満としか呼びようのない怪物でございました。
名もなき怪物は、空を往く者を食らうことだけが存在意義でございます。
山の頂のように尖った、嵐の海の色をした背びれ。果ての見えない巨体。鼻でも音でも空気のブレでも存在を悟らせない、自在に色形を変える海にも空にもとけ込む体。頭の天辺から尾の先まで、くちばしも牙も通じない、鋼より強い鱗が幾千幾万。
空にある者へ情け容赦なく狂暴で、およそすべての
それが、海のマモノでした。
イヌダシオンは己らの
アアスフィアとイヌダシオンとは約束を結びました。
イヌダシオンは『むやみに生物種を襲わないこと』と『己を制御できるまで集落にいること』を求め、代わりに食事や住み家を提供しました。
アアスフィアは『いつでも戦える相手』と『自分が
フラクロウの勇士を讃えていた碑文……無論、当人たちの記録は欠けて久しいのですが。曰く
『怪物は、空から海を見下ろしても全体が見えないほど長く大きい。足の数、目の数、羽の有無、すべてが不明だった。しかし空の戦士団を丸ごと平らげてしまう食欲だから、きっと翼も持つのだろうと言われている』。
*
アアスフィアは大クジラ伝説の残る島に、とある淡水人魚とひっそり、暮らしておりました。人魚の名をリプルと言い、彼女もまた、イヌダシオンに保護されていたことのある人魚でした。
二人は、かつて島に暮らした賢人がそうだったように、島の入り江に弱く儚いものたち――とりわけ、翼人にひどい目にあわされた者たち――を保護しておりました。
彼らの身の回りの世話はリプルが行い、彼らを守るために恐れを振りまく役はアアスフィアが行っていました。彼らは仲間で、お互いがたった一人の友達でした。
だから、鏡のマモノが倒されたと聞いたとき、二人は覚悟しました。
次は自分たちの拠点が襲われるだろうと、覚悟しました。
アアスフィアは、自分が勇士を引き留める間に島のみんなを逃がしてほしいとリプルに頼みました。リプルは泣きながら頷いて、アアスフィアのために美しい歌声を披露しました。
アアスフィアは翼人から見れば底なしの食欲ですべてを
飲み込まれて恐怖する生き物たちはきまって、最初から口の中で待っていたリプルがなだめすかして落ち着かせていました。
二人はそうやって、たくさんの生き物を助けていたのです。
だから、リプルの歌を聞いたとき、保護されていたたくさんの生き物たちは、自分たちの生活が終わることを悟ったと言います。
「さよなら、アアスフィア。ここで一旦お別れね」
「うん、さようならリプル。まあ、どっかしらデ会エるデしょ」
*
『アアスフィア』
『君の力は強すぎる』
『たすけてくれて、ありがとう』
『ねえ、ここなら翼人は来られないって本当! 素敵!』
『くじらさん、ありがとう。まもってくれて、ありがとう』
*
マモノと勇士との闘いは7日5晩続きました。
勇士の剣がどれほど切り付けても、勇士の仲間が弓を射かけても、海のマモノはびくともしませんでした。
けれど、最初に言った通り海のマモノは『翼人の恐れ』が形になった精霊なのです。ですから「きっと倒されてくれ」と望む
7日過ぎるころには果ての見えない巨体は『クジラの3倍はあろうかという』巨体に変わっていましたし、すべての攻撃をはじく鱗も『硬い』鱗に変わっていました。
勇士はそれを好機と見て、必殺技を繰り出そうとしました。
海のマモノが防ごう避けようと思えばどうとでもなる技。反撃だって狙える技。
しかし、海のマモノは避けることができませんでした。水面の奥にはサンゴや魚やもっと小さな虫たちや――――翼人全部を合わせたよりもたくさんの命があるのです。アアスフィアは初めから本気など出していませんでした。本気を出してしまえば、自分の下にあるたくさんの命を殺してしまうから。
「あーあ、ハイシア。あんたのセいでこーんなに弱くなっちゃった」
言葉とは裏腹に、海のマモノの声はとても穏やかでございました。
勇士の作った雷槍が、今しもいくつも降り注ぐでしょう。当たれば最後です。海も、マモノも、等しく
海のマモノは、激しくざわめく海の上に、体を踊り上がらせました。
「おそレよ、我こそはアアスフィア。海のおそレなり」
言葉を一つ。
最後の攻撃は広く、薄く。かつて、ハイシアとアアスフィアの喧嘩で使われた技でした。その技とこの大きな体があれば海の
―――行っておいで、ヴィダの国に。
―――あそこからなら、間に合うから。
「任されたわよ、お友だち」
小さな人魚の魂が、彼の
その遥か後ろで『おそれ』は科学に殺されました。
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