フラクロウ王国成立前
保護ナンバー
Z 樹上鳥人は未だ波に揺られ
美しい里だった。
美しい民だった。
美しい、故郷だった。
……もう何一つとして、思い出せないのだけれど。
*昼*
イヌダシオンの防衛担当者。仏頂面。不愛想。腕は確か。気配が薄い。機械野郎。『オンダー』を外側はそう評した。
当の『オンダー』が、自分について知っていることはとても少ない。
気がつけば治療を受けていた。体のほとんどが機器で補われていた。気がつけばリハビリの世話を受けており、いつの間にか仲間に迎え入れられていた。記憶はブツ切りで、感情と思考は連続しない。
『まるで魂を失くしたようだ』
誰かが言った。
すぐに忘れた。
仲間として扱われることに抵抗感一つ持たない『オンダー』の前に、紫色の鈴はしゃがんだ。オンダーの真新しい目に、凪いだ海の目が合わされる。
『受け入れられないならば否と言って良いのです。戦いたいのなら、場を用意しましょう。どうか、あなたのおもいを忘れてしまわないで』
真新しいレモン色の手を撫ぜて、紫色の鈴は『オンダー』を見上げた。『オンダー』は何も思わなかった。同意を求められているのだろうかと頷くと、鈴は悲しそうな顔をした。
『目の色、髪の色形、肌、体の形も、思い出したのならば、変えたいと願うなら教えてください。予想して治しましたが、違和感があるかもしれません』
不便は感じなかったから、『オンダー』は首を振った。
鈴は服の好みも聞きたがったが『オンダー』はどうでもよかった。渡されたのは簡単なつくりの貫頭衣だった。抵抗なく感慨なく『オンダー』は受け入れた。
生活は単調に過ぎていく。
『オンダー』は、おおよそ同じ時間に目を覚ます。枕辺に用意した布と水で寝汗を拭い、顔を拭き、いつもの貫頭衣を着る。視線を動かして、数週間前から使っているベルトを締める。動きやすくなるかもしれないと使い始めたが、上々だと思った。
桶の水を、決まった道を通って捨てる。布を汲み水で洗い、決めた道を歩きながら集落の違和感を探す。
鐘の音を合図に朝食へ向かい、他の
「オンダー、どうかな」
「問題ありません。班員たちの連携も問題ありません」
「そう。……貴方の隣人になれたら嬉しいと思っているよ」
「ハイシアは変わり者だ」
「あっははは、そうだね。自覚はしているさ」
夕刻前には族長『イヌダシオン』も交えた話し合いを行い、1日の問題、改善点、特に気に掛けるべき者について共有する。話し合い後は、ハイシアに起き抜けの飲み水と、水桶半分の水を受け取る。今日、もしくは明日の洗濯担当者から清潔な布を受け取り、
……そうして眠るたびに『オンダー』になった『□□□□』は思い出す。
鈴の音が聞こえる。
潮騒たちの歌う声が、泡が柔らかく包むような感覚が―――。
*□夢*
怒号が聞こえる。
「里を守れ」「戦えないものを逃がせ」「時間を稼ぐんだ」と叫んでいる。そうだ。守らなければならない。水からを奮い立たせて『□ヤ□□』が戦斧の柄を強く握る。
ジャングルは厚く暗い雲の下に閉じ込められている。冷たい雨が鍛えた体に打ち付ける。褐色の土を踏み、四肢を、尾を、躍動させる。木々の合間を跳び、移り、先を目指す。景色が激しく後ろに流れる。
「来るぞ!」
敵は
あれは終末。「
「里を、守れぇー!」
生まれついて丈夫な体で『□ヤ□□』は何度だって囮になった。仲間を庇った。足が震えようともまだ腕が動く。尾が動く。だからまだ戦える。
「恐れるな! 家族を守れ!」
一人、また一人。動けなくなる前にと怪物の口へ飛び込んでいく。
『内臓なら少しは、傷を与えられるのではないか』そんな希望も絶えているとしても、少しでも怯ませられるなら本望だと。
「逃げる時間だけでも作るんだ!」
毛が、血が、体が吹き飛ばされる。大地が紅い。数秒が遠い。
不意にヘビが空を見る。パカリと口が開き、
「ここしかない」と思った。
大きな攻撃の予兆だとしても今しか、と。
―――焦っていたのだろう。我々、みんな。
耳が弾け飛ぶのではと思うほどの、高く低い怪音波。
『□ヤ□サ』を含める、まどわしの術に抵抗できる者は、ふらついたものの平気であった。だけど、抵抗できない者の方が圧倒的に多い。
「おい前に出るな!」
傷だらけの
「操られてる!」
声と、血。
「おい待て前に出ないでくれ!」
懇願と、血。
「陣形を変えるぞ、どうにか」
『ハヤ□サ』は妻の名を呼んだ。
危うげに立つヒトビトの手には、必死に落とした怪物のまつげがある。
年若い補給係の攻撃を避けながら『ハヤ□サ』は、味方が総崩れになることを悟った。認めたくないと思った。誰が正気か分からない。誰が操られているか分からない。誰に指示が届いて、誰の指揮が正しいのか分からない。
―――認めたくない。
あの音波はどこまで届いただろう。もしも、もしも集落まで届いていたら? 避難するヒトビトにまで聞こえてしまっていたら―――。
認めたくないと『
認めようと『オンダー』は呟く。正気でなかったのだ。焦りすぎたのだ。
『ハヤブサ』は走る。
無謀だと分かっているのに、
バクリ、と体の一部が潰される。武器を持つ手は無事だった。
ぬるぬるした喉に
狂ったように叫びながら数十秒。ヤツに切りつけて落ちていく。
そうして、先にたくさん呑まれていた、仲間や土くれの上に落ちた。強酸のそばでは全部が痛くて、分からなくて、叫ぶのも辛い。思い出す。過去の絶叫を聞きながら、聞きたくないから思い出す。
例えば、怪物について自分が集落に来てから知ったこと。例えば天秤の話。例えば、精霊種の在り方について。それから、この後何があったのか。
―――火山の噴火が、怪物を殺した。
腹の中の『ハヤブサ』が身じろぐ。突然、怪物が恐れたからだ。逃げようとして、大暴れしているのだと波の荒れ具合に察したからだ。目も鼻も肌も使い物にはならなかったが、何度か波を被ったことは分かった。意識も怪しくなった頃、怪物の体はピクリとも動かなくなった。
―――集落は跡形もなくなっていた。
瓦礫と土くれと
―――耐えられない。
雨が降っていた。
―――耐えがたい。
『ハヤブサ』だったものの側に精霊が座り込んで泣いている。
さざなみ色の髪をした、晴れた日の海の目をした精霊だ。精霊は泣きじゃくりながら『ハヤブサ』の体に触れている。治そうとしているのだろう。
―――知っている。
黒い雲を山が吐き出す。黒く染まりかけた雨は、精霊の周囲だけ清められて優しい慈雨へと変化する。
体の3分の2を失くしても、『ハヤブサ』は丈夫だったから生きていた。生きているだけだった。中身はとっくに壊れていた。
夢の中でも、まだ思い出せない。覚えていない。
美しい里だったのだ。美しい民と、美しい生活のある故郷だったはずなのだ。知っている。『オンダー』は知っている。
何もなくなっていた里を知っている。民がどこへ行ったのか分からないことを知っている。『ハヤブサ』の生活が二度と戻らないことを知っている。『ハヤブサ』の愛した故郷が、もうどこにもないことを知っている。
『ハヤブサ』は夜目覚めて、朝眠る。嘆いて、抗って、叫んで、戦って、自分一人救われてしまったと
精霊の手がそれを防ぐ。宥めて前を向かせようと努める。それが仕事なのだ。彼らの、仕事。
『ハヤブサ』は救いを拒んで深く眠る。今日も眠る。そうして『オンダー』になる。
*朝*
また今日も目を覚ます。
枕辺に用意した布で寝汗を拭い、水を飲む。顔を拭き、いつもの貫頭衣を着る。視線を動かして、数週間前から使っているベルトを締める。
決めた
例えば、恨みを諦めること。例えば、どうしようもない性の封印。例えば、助力。果てなく何かを積んだとき、一つだけ諦めきれないものを叶えられる。
―――もったいない。
『オンダー』に望みはない。
色彩といたずら霞と樹の里を、助けられるのは彼しかいないのだから。
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