第2話 ティホンという、生きている幽霊。
「また厄介な物を作りましたね」と茶碗に三杯目の熱い白飯を山盛りにしながら、妻の仲江が愚痴を漏らした。
この期に及んで陽気ささえある夫と違って、妻は肩身の狭さというものを味わっているらしい。
何故、直接観測出来ない実時間宇宙の住人である永井乙郎が、ティホンにここまでの理解を出来るのか。
それはティホンの生みの親は、乙郎だからだ。
ティホンは元元『幻想生物学』研究者の乙郎のチームが、当時計算速度世界第一位のコンピュータ・シミュレータで作り上げた『極大重力圏内の宇宙生物』という架空の演算情報だった。
ただ、その生物の設定があまりにも精密で説得力がありすぎた。仮想空間にのみ存在する思考実験の産物は情報体の影である虚時間宇宙にも影響を及ぼし、結果、ティホンは情報宇宙の中で生命体として存在を確立する事に至った。それ以前の過去にもその活動影響があるのは、極大重力の中で破たんした時間順序を無視して生きているからだ。重力は時間に影響を及ぼす。ティホンは過去形であり、現在進行形であり、未来形である宇宙怪獣として顕現していた。
最新コンピュータによって生まれたティホンは、時間順序を無視して「太古から存在する」という怪獣になっていた。
ティホンの本能は一つ。自己拡大欲、つまり食欲だ。
時間、情報を食う怪獣の存在に気づいた時に人類は大騒ぎになったが、乙郎は額を自分の手で叩く程度の反省しか見せなかった。
ティホンのシミュレーションは公開情報だったので、乙郎をリーダーとする仮想生物学のチームはすぐに特定された。
周囲の予想に反して、乙郎の幻想生物学チームは戦犯扱いされず、速やかに『対ティホン国際科学者チーム』に組み込まれた。
この天の川銀河と重なる宇宙からの情報略奪に対抗する為に、虚時間宇宙への考察、推測が進められ、乙郎も見解を求められた。
乙郎は、極大重力圏はこの世とあの世が重なる穴だと思っていた。この世とは実時間宇宙での事で、あの世とは虚時間宇宙の事だ。死んだ人間の情報の痕跡が集合無意識として虚時間宇宙で保存され、記録として永久に情報を維持しているのだと考えていた。
死んだ人間の魂もしくは意識と呼べる情報は、死んで保持実体を失った瞬間に実時間宇宙では速やかに拡散する。しかし虚時間宇宙ではそうではなかった。時間の流れのない虚時間宇宙というのは、人間というデータが時間から切り離されて永久に凍結しているアーカイブでもあるはずなのだ。
集合無意識。死後の世界だ。そこにはあらゆる人間の情報があった。これまで死んだ全ての人間、今生きている人間、そしてまだ生まれていない人間のものも。
乙郎は特定宗教を信じていないが、自分のインスピレーションは信じた。
虚時間宇宙で意識あるの時間の流れとしてふるまえるものは、俗に言えば『幽霊』と呼ばれているものだろう。
そして虚時間に対応した生物、ティホンはいわば生まれついての幽霊でもあった。
ティホンという幽霊は実体的束縛を超えて、時間順序のないブロック宇宙たる虚時間宇宙の生誕座標から終末座標までにまたがっている可能性もある。
これではもう「神にも等しき」ではないか。
多分、人間は幽霊と戦争が出来ない。
核ミサイルも何も実時間宇宙内の電磁気、質量に属する物理兵器の効果はティホンには届かない。
地球を食べようとしているティホンに抗う術を、現在の地球人の科学は持っていなかった。実時間宇宙と虚時間宇宙にコミュケーションを断絶させている、突破不可能な壁を突破する実在の戦法を地球人の科学は持っていないのだ。少なくとも今までは。
乙郎は幼い双子の娘達に「行ってきます」を告げ、久しぶりにすごした自宅を出た。一日のつもりだったが自宅滞在は一ヶ月に及んでしまった。
愛車に乗り、チームの本部があるかながわサイエンスパークに戻った。
そして今日、既にまとめていた一つの意見を対ティホン国際科学者チームに提出した。
普段なら黙殺されるだろう様な乙郎の意見を、科学者達は真剣に吟味した。
もし世界中の霊能力者、超能力者、占術士、霊が見える人に本物がいれば、物理的境界を越えて虚時間宇宙を観測出来るのではないか。
虚時間宇宙も実時間宇宙の様に量子場であれば、観測出来るならば、干渉も出来るのではないか。
一〇〇%的中する予測は、量子の場において未来操作という干渉だ。完璧な思考実験とは、空想を現実化する干渉だ。コンピュータの力を借りて、ティホンが現実化した様に。
それが乙郎の提出した意見だ。
ティホンへのアプローチ。科学者はそれを熱心に考察、議論した。もはや、すがるものはそれしかないという風に。
それをただのオカルトだ、と突っぱねる科学者も確かにいた。
だがティホンは実在する幽霊なのだ。
会議室で乙郎はエナジードリンクを飲んだ。オカルトが科学的に肯定されても科学が負けた事にはならない。ただ科学という山の裾野が広がるだけだ。
乙郎の意見が通り、『スサノオ計画』というプロジェクトがその日の内に立ち上がった。
カロリーを猛劣に消費する、時間を忘れた熱心な議論が続き、その最後に腕時計の日付を乙郎が確認した時、世界終末まであと三日と時間が進んでいた。またティホンに時間を食われた。恐らくはこの会議に最後まで参加した科学者は皆、そうだろう。
会議は解散し、科学者達はスサノオ計画の決められていたスケジュールに従い、実務に移った。
対ティホン国際科学者チームは有名無名を問わず、霊や未来が見えるという触れ込みの人間に片っ端から連絡を取り、世界中の各支部に集合させ、計画を説明した。
乙郎のチームは、スサノオ計画とは別の一ヶ月前から進行させていたある計画の最終段階に移り、徹夜でコンピュータ・シミュレーションの作業をする。
疲れきった乙郎は、本部娯楽施設である食堂の椅子に座ったまま、食べ終えたかつ丼のどんぶり二つを前にうたたねをした。
気がつくとカフェ内にある大画面TVでなじみの女性キャスターが「おはようございます。今日は世界の終わりです」と、プロ意識にあふれた冷静な笑顔で視聴者に最期を告げていた。
かつ丼のどんぶりは乾いて内側ががびがびになっていた。世界最後の日だ。また時間を食われた。もう崖っぷちだ。
幸い、乙郎にこの二日の間に成果があった。過密スケジュールに追われていた者達は有意義な二日をすごせただろう。ぎりぎり間に合った。
急遽呼ばれた懐疑的なプロのマジシャングループによる能力者の真贋のふるい分けは終わり、『能力』が実際にあると思われる者達が、それぞれの方法でティホンとのアプローチを試みていた。問題は情報の精度だ。
実時間宇宙の科学者達は、初めて『霊視』という形で示された虚時間宇宙内の存在を確認した。
タロットや水晶球、念写、CGでの投影という形で描写されたティホンの姿は、乙郎がコンピュータでデザインした姿そのままの数多の触手をのばした不定形生物だった。それは天の川銀河系の実像と重なっていた。
情報精度は納得出来るものだった。
地球はティホンの腹の中にいて、地球は情報を消化され続けている。その再確認。地球の時間は残り少なかった。
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