第12話 あいつは木星人だ

 そういうわけで、その夜のバルセロナには二人の完全なる酔っぱらいたちが出現した。

 完全なる酔っぱらいたちが何をするべきであったのかは、私にはいまだもってよく分からない。しかしここに、完全なる酔っぱらいたちが何をしたのかは記しておこうと思う。

 幕が開く前に、このことを付け加えておく方がいいだろう。エマは、私たちがホテルに帰り着く途中で一つの街灯に心を奪われ、そのまま朝まで帰ってこなかった。少なくとも、私には朝まで彼女の姿は見えなかった。だから、私たちが完全なる酔っぱらいになっている間、彼女はずっとその一部始終を見続けていた可能性もある。



 さて、いよいよ開幕! 携帯電話の電源はお切り下さいますよう。



 私たちは部屋に戻ると、交代でシャワーを浴びた。日本を出発してから二十時間以上も動き回っていたせいで、私は汗の匂いでぷんぷんだった。たぶんナオも同じようなものだったのだろうが、私は女性の汗の匂いを特に嫌だと思ったことがない。おそらく、彼女たちも自分と同じ生き物だということを感じて安心するのだろう。ロマンチスト同志には女性を神聖視する傾向がある。

 まあとにかくそれで私たちはシャワーを浴び、さっぱりしてから今日四本目──ナオが飛行機で飲んだのも合わせれば五本目──のワインで乾杯した。六ユーロの安ワインに、窓から見える景色は隣の建物の壁だけだったが、私たちは安らかだった。腹は満ち足り、アルコールも十分。おまけに理想の旅の連れがそこにいれば、他に何がいるだろう?

「奇妙なもんだ」と私は言った。「君とはもう十年以上の付き合いなのに、君についてよく考えたことが今まで一度もなかったんだ」

「ふうん」とナオは言った。「よく考える、というのは具体的にどういうことなのかしら。もちろん好奇心で訊くんだけど」

 私は少し考えた。

「そうだな。少なくとも、君を想って夜も眠れない、ということは無かったと思う」

「今まで、それは単なる表現だと思っていたわ」とナオは笑って言った。

「ところがどっこい、我々ロマンチストは、本当に誰かを想って夜も眠れなくなることがあるんだよ」

「ふうん、あなたは今まで、誰かを想って夜も眠れなかったことがあるの?」

「ある」

「それは中学生とか高校生の頃の話じゃなくて、たとえば……恵麻ちゃんの時もそうだったのかしら」

 私は穏やかな気持ちでうなずいた。

「そうだ。君の言わんとするところは分かる。たぶん僕はどこかがおかしいんだろう。なんなら、三十を過ぎた今でも、誰かを想って一人涙する自信はあるよ」

 ナオは、ふうむ、と言ってワインを一口飲んだ。

「私はあなたのことをよく考えたことがあるわ。どんなことを考えたか、聞きたい?」

「ぜひ聞かせてほしい」

「私はこの十年以上、ことあるごとにあなたは何者なのかを考えてきた。で、その度に出てくる答えはいつも同じなの」ナオは言った。「あなたのことを考える度に、頭の中に響くのはこういう声よ──『あいつは木星人だ、あいつは木星人だ』」



 今になって彼女の言葉を思い出すに、おそらくエマも、私と別れようと決心した時にはそのような気持ちだったに違いない。その瞬間の彼女には、私がタップダンスを踊ろうとしている木星人に見えたのだ。



 私はふむ、とうなずくと、ナオは熱っぽい眼差しで続けた。

「あなたは自分の好きなようにやって、いざとなれば木星に帰るさ、という顔をしている。それで私はやりきれない気分になる。だって、あなたと一緒にいようと思ったら、私はあなたと一緒にいつか木星へ行かなければならないのよ? でもそれと同時に、私はそういうあなたをとても大切に思う。あなたは、何か世界を俯瞰で見るような快感を私に与えてくれる。私はその二つを天秤にかけなければならなくなる」

「君は実際に天秤にかけてみた?」と私は聞いてみた。

「かけてみたわよ」と彼女は言った。「たぶん、あなたと付き合う女の子はみんなそうだと思う。その針が片方に振れているときにはあなたを愛する。もう片方に振れたときには、あなたを愛することを諦める」

「我が事ながら、なかなか報われない人生のように聞こえるな」と私は笑った。

「そう」とナオは真剣な表情で言った。「そして、あなたはその報われなさを特に気にしていないように見える。その報われなさを抱えていく気なんだろうというように見えるのよ。でも、私は最近思うのだけれど、それはとても孤独なことなんじゃないかしら。この地球上で木星人でいることは──木星人であろうとすることは、つまりどんな組織の庇護も受けずに生きていくということだわ。同じ志を持つ仲間を見つけようとしても、その同志に出会う確率は、たぶんサハラ砂漠の砂の中から一本の針を見つけるのと同じようなものね」

 私はその確率について考えてみたが、なんにせよ上手く実感はできなかった。たぶんそれは、私がサハラ砂漠に行ったことも、そこで一本の針を探し求めたこともないからだろう。

 しかし、その時の私の脳は、間違いなくナオを愛おしいと感じ、ナオを求めていた。ここで一つ、星に願いをかけるとしよう──願わくば、その時の私の脳が茹でたキャベツよりもマシなものであったことを。


「だから私は天秤を放り出すことにしたの」と彼女は言った。「天秤にかけるのを止めて、シンプルに、あなたに親切にすることにしたの。あなたが私に何か良いことをしてくれたら、そのお返しに私もあなたに良いことをしてあげる。あなたが私を良い気分にさせてくれたら、私もあなたを良い気分にしてあげる。飛行機の中でも言ったけど、ねえ、誰かをいっぱしのものだという気分にさせることができるのは、それだけでちょっとしたことなんだから」

 私は震える声でなんとか、ありがとう、と言った。どういたしまして、と彼女は笑って言った。

「さあ、今私はあなたを良い気分にさせたのだから、今度はあなたが私を良い気分にする番よ」

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