第9話 スカンジナビア航空に祝福あれ
そして私と、好奇心の恋人たるエマと、忍耐力の女神たるナオの三人は旅の上の人間になった。
私たちは非常に気分が良かったが、私の場合、それはコーヒーのカフェインによるところが大きかった。エマにとっては、これが幽霊になってから初めての外出である。ナオは先にも書いたように始終上機嫌で、そこには何かコーヒーのカフェイン以上のものが関係しているように見えた。
その証拠と言ってはなんだが、一つエピソードを紹介しよう。ナオは成田空港までの道中で、ハンドルを握りながら、「サンタ・ルチア」のパヴァロッティ・バージョンを、なにしろ三回も繰り返し歌った。私ですら二回で止めたのに。
私が「サンタ・ルチア」を二回で止めたのは、ナオがサンタ・ルチアとスペインのアンダルシアを混同しているのに途中で気づいたからでもあり、そして、一人エマが歌えないことに良心の呵責を覚えたからでもある。
以前のエマは素晴らしい歌い手だった。彼女が歌うと、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニューズの脳天気な歌でさえ、そこに世界の秘密が詰まっているように聞こえたものだ。
今の彼女がそのことを気にしているかどうかは分からない。私とナオがサンタ・ルチアを歌いあげている間、エマは後部座席に行儀よく座ったまま、カー・ナビゲーションの画面を興味深そうに見つめていた。そこにサンタ・ルチアへの行き方が表示されると思ったのかもしれない。それとも単に、その他に興味を持てるものが無かったのかもしれない。まあいい。どうせ、私は彼女にちょっとした親切心を提供しただけだ。親切心を受け取る側にも選択権はある。
*
親切と言えば、スカンジナビア航空のキャビン・アテンダントはとても親切だ。彼女たちの――または彼らの親切さに祝福あれ。
私たちはコペンハーゲン経由でバルセロナ入りするルートを選んだので、その親切さを十分に堪能することができた。機内で、私とナオは二つ並んだ座席に座り、エマは通路に行儀良く正座していた。
飛行機が離陸してからは、エマはずっと眠っていた。幽霊が本当に眠るのかどうか確信は持てないが――そうであれば、レスト・イン・ピースがこれほどふさわしい状況もないわけだ――とにかく、ずっと目を閉じていた。
ナオはといえば、相変わらず絶好調。彼女は間断無く私に話しかけ、キャビン・アテンダントへ話しかけ、後ろの席に座ったアメリカ人の老夫婦にまで話しかけた。その老夫婦はクリーブランドから来た旅行者で、日本をしばらく見物した後、これからヨーロッパをぐるぐる見て回るのだと言った。彼らは、私たちがスペインに行くということが分かると、私とナオを夫婦だと勘違いしたらしかった。
「あなたたちは新婚旅行かしら?」と老婦人が言った。
私がそれを否定しようとすると、ナオはそれを遮って会話を続けた。
「私は新婚旅行ならセイシェルが良いって言ったんですけど、この人がスペインの大ファンなもので」
「セイシェルは素晴らしいところだわ。私たちも何度か行ったことがあるの。でも、スペインも良いところよ。主人と私は、スペインには毎年必ず行くことにしてるの。何度行っても刺激的で、新しい発見があるわ。ねえ?」
「うむ」と、急に話題を振られた老紳士がもごもごと言った。「わしゃセイシェルとやらは好かん。それでよくこいつとは口げんかをしたもんだ。一度なんか、離婚寸前の大騒ぎになった」
「あらまあ」とナオが言った。
「でも、こうして今でも仲良くやってますのよ」と老婦人は言って、私の方に顔を向けた。
「あなたも奥さんを大切にしなきゃだめよ。なんだかんだでつまらないことで喧嘩もするけれど、主人はいつでも私を大切にしてくれるの。なんたって、愛が一番よ。人を愛することができなければ、この世は地獄だわ」
私が曖昧にうなづいて老紳士の方を見ると、彼は「男同士の秘密」という感じで私にニヤリと笑って見せた。
大切なのは愛ではなくて、ちょっとした親切心さ。なあ、同志?
彼の言葉につけ加えれば、本当に大切なのは、ちょっとした親切心を、自分が選んだたった一人の人間に向けることである。そしてそれが許されないときに、この世は地獄になるのだ。
私はかつて、エマ一人に自分の親切心を注いだ。彼女はしばらくの間、そのお返しに私一人に親切心を注ぎ返してくれた。それはちょうど、子供がバケツの中の水をこちらのバケツからあちらのバケツへと移し替えて遊んでいるようなものだった。私たちは、その遊びを大いに楽しんだ。
エマが私のロマンチスト病を責め出したとき、私はこう考えた。
大変だ! どこかの悪徳開発業者が、この可愛い女性にこう吹き込んだに違いない──お嬢さん、ここにダムをつくれば、もっと大量の水が簡単に手にはいるようになりますよ。そうすれば、もうそんな水遊びなんてしなくてもいいんです。
そして彼女は水遊びを止めようとするようになり、私はもっとその遊びを続けたいと駄々をこねた。彼女はそれでうんざりした。
そのときに誰かが私に教えてくれるべきだったのだ。
「ねえ、ぼうや。バケツの中の水は、自然に蒸発して、いつか全部空気中に消えてしまうんだよ」
*
また同時に、私はこうも思う。我々が欲しがっているのは、安定した水の供給ではなくて、小さなバケツとお水で誰かと一緒にちゃぷちゃぷ遊ぶことなのだ。水が干上がったら、二人で一緒に水を汲みに行く。一人で水道水をごくごく飲んで、一体何が面白い?
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