第8話 イタズラふたたび
スペインに向けて出発する日の朝、ナオはわざわざ自分で車を運転して私を迎えに来た。
私とエマはすっかり準備を調え、コーヒーを飲みながら良い気分になっていた。もちろんエマはコーヒーを飲まないが、彼女の分も用意するのが私の日課になっていた。私がコーヒーを飲んでいる間、エマは、私が大学のときに購入してそのまま放り出したギターのペグの構造にくびったけだった。
インターホンのチャイムが鳴ったので、私は玄関まで出て行って鍵を開けた。ナオが溌剌とした様子で中に入ってきた。
「準備はいい?」と彼女は言った。
私は彼女の上機嫌さに面食らった。彼女はまるで、クリスマスの朝にプレゼントを引っ掻き回す子供のように元気一杯だった。
「ずいぶん機嫌が良いように見える」と私は言った。
「それはたぶん機嫌が良いからだわ」
「たぶんそうじゃないかと思ってたんだ」と私は言った。「すぐ出発するのか?」
「まだ時間はあるわ。コーヒー入れてるんでしょ? 一杯頂いてから行きましょう」
そう言うとナオは靴を脱ぎ、勝手に部屋に上がり込んで、私がエマのために入れておいたコーヒーを時間をかけて飲み干した。彼女はすでに良い気分だったので、私ほどコーヒーに感銘を受けることはなさそうだった。
エマはそれを不満そうに眺めていた。その時の彼女なら、もしかしたら「うらめしや」と言ったかもしれない。
よく考えると、それはエマが──幽霊たるエマが、私以外の人間と初めて関わった瞬間だったわけだ。しかし、ナオには彼女の姿が見えていないようだった。少なくとも、私が二人を紹介し合う必要はなかった。
私はちょっとばかりそれで落胆した。私は自分が二人を紹介し合っているシーンを想像した。「ナオ、こちらは藤野恵麻。エマ、こちらは木崎奈緒」──それで二人が握手する。あの瞬間は楽しいものだ。自分がいっぱしの何かになった気分になれる。たとえば敏腕プロデューサーとか、まあとにかくロマンチスト以外の何かだ。
私が失態をさらした顔合わせの時に、ナオは鮮やかにそれをやってのけた。私は彼女を憧れの眼差しで見たものだ。
*
失態ついでに書き添えると、顔合わせの際、私は名刺の一件以外にもう一つやらかしている。私はナオの顔を立てるために、また、自分自身がなにか真っ当な事が出来るのを証明するために、精一杯彼らの役に立とうとした。上手くいけば、そのまま私を雇ってくれないだろうかとさえ期待したものだ。
私は、彼らの企画の助けになればと、持てる知識を総動員して、スペインに関する資料を作成した。A4用紙十数枚に及ぶそれは、こんな風に始まる。
スペイン国。人口およそ四千七百万、面積はおよそ五十万平方キロメートル。首都はマドリード。ただし、これは正しくスペイン語風に発音すれば、「マドリー」ということになる。
現在の立憲君主制(制限君主制)は、一九七五年にフアン・カルロス一世が即位して以来の政治形態である。そもそもスペインの歴史を紐解けば……
云々。
この資料を手渡したのは名刺の一件の後であり、私はもうこれ以上事態が悪くなることなどあり得ないと思っていた。ところがどっこい、その行動のせいで、私はただの部外者から、居場所を間違えた哀れな闖入者に格下げされた。その後では、私に意見を求めたり、話しかけたりすることは誰もしなかった。
ナオはその顔合わせの最中、悲痛な努力でもって場の空気を和ませようとしていた。彼女の忍耐力に祝福あれ。
*
おそらく私はその資料にこう書くべきだったのかもしれない。
レイアール広場の「エスタス・デ・ピエ」がイチオシ! オススメはパン・コン・トマテとパタタス・ブラバス。開店と同時に満員になるほどの人気店だ。
料理が美味いか? それは知らないが、とにかくみんなは行く。
そう、これもロマンチスト兼とんま的イタズラの一つだ。この計画はエマにもナオにも知らせなかった。私だって成長はするのだ。
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