第6話 イタズラ名刺
スペインに出発するまでの間に、ナオがどうしても必要だというので、私は何度か彼女の会社の人間と顔合わせをした。彼女の会社は雑居ビルの二フロア分を借りており、私はそのうちの上の階の会議室で、ほんのつかの間、会社員の仲間入りを果たした。ほんのつかの間、というのは誇張表現ではない。私が会社員面でいられたのは、彼らと出会ってほんの二、三分のことだった。彼らがそれぞれ名刺を差し出したとき、私はその小さな紙の束を受け取ったまま硬直したのだ。
それで、本職の会社員たちは私を部外者と見なしたらしい。もちろん、私のような人間は名刺を持ち歩く必要も、作る必要もない。もし私がこの小さな自己紹介カードを作るとすれば、そこにはもちろんこう記されているはずだ。
地球世界人
ロマンチスト兼とんま
その後に私の名前が続く。誰がそんな名刺を欲しがる? しかも名刺の裏には、手書きでこんなメッセージが書かれているのだ。
森の中で二股に別れた道
そこで私が選んだのは、足跡が少ない道
そこから全てのことが始まった
私はロバート・フロストを不必要に貶めているかもしれない。付け加えれば、私は一度この名刺を実際に発注しようとして、計画をエマとナオに話して聞かせたことがある。
エマはその計画を聞いて笑い転げたが、ナオは私の話を途中でさえぎって怒り狂った。多くの人間が無様ながらも懸命になってやっていることを、あなたは一体どういう権利があって侮辱するのだ、と。
私はナオの剣幕に震え上がって、結局その名刺は作られずじまいになった。彼女は正しい。後になってエマも、この計画で笑い転げたことは、自分の人生の汚点だと認めた。
しかし聞いて欲しい。私はこの計画に対するエマやナオの意見が正しいとは認めながらも、いまだに印刷屋の電話番号を控えたままでいる。電話一本でいつでも印刷!
ロマンチスト兼とんまの肩書きを持つ人間は、こういうイタズラを考えずにはいられない。それは、この世から置いてけぼりにされたことに対するささやかな反抗心を捨てられないからか、そうでなければ自分を置いていったこの世を笑い飛ばすことが、誰かにとって幾許かのたしになるということを信じているからだ。
そのような人々を、二十世紀前半ではこう呼んだ──チャーリー・チャップリン。
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