第5話 いろいろあるけどなんとかやっている
さて、いつものジョークを披露し合ったあとで、ナオは電話口で私にこう告げた。
「あなた、スペインに行く気はない?」
「どうだろう。スペインには行ったことがないんだ。パスポートすら持ってない」
私がそう言うと、彼女は驚いたようだった。
「大学でスペイン語を教えていたのに? それって、童貞の高校生がセックスのハウツー本を書くようなものじゃないかしら?」
「たぶん違うと思う。僕は言語システムの研究者であって、現地で意志疎通ができるかどうかは特に問題じゃない」
「ちょっと傷ついたのね?」と彼女は言った。
「そうだ」と私は簡単に認めた。「でもどうして僕がスペインに行くんだ?」
「実は、」と彼女は言った。「うちの雑誌で、スペイン特集の企画が持ち上がったのよ。で、私が現地に行って取材することになったんだけど、私はスペイン語が喋れないし。それで、あなたに同行してもらおうと思ったわけ。でもあなたはスペイン語が喋れないの?」
「いや、喋れる。言語システムどうこうは、単純に一般論として反論したくなっただけだ」
「じゃあオーケーなの? 旅費やなんかは会社持ちだし、たぶんいくらかお金も支払われると思う」
「オーケーだよ。今は特に仕事もない。だけど、僕は君が雑誌の編集みたいなことをしていることも知らなかったし、君の雑誌がスペインの何を特集しようとしているのかも知らない。そのことは問題にならない?」
「なんだ、そんなこと」とナオはあきれたように言った。「全然問題にならないわよ」
「まったく問題にならない?」と私は重ねて聞いた。
「ねえ」と彼女は言った。母親が出来の悪い息子に九九を教えるのと同じ口調だった。「この世の中で、自分が何をしているのか、分かってる人間なんてそうはいないわよ。私がこの仕事をどう思ってるか知ってるでしょう? スペイン特集なんてクソくらえよ。誰がこんな記事を読むのか、見当もつかない。グルメ、ファッション、観光、ぶらーぶらーぶらー。雑誌の意見なんて放っておいて、勝手に自分で見にいけばいいのよ。でも通訳なら、少なくとも自分がしていることに責任は持てるでしょ?」
「それもそうだ。それに、旅の連れには魅力的な男性の方がいい」
「あなたのこと?」
「シ。いや、気にしなくていい。最近ちょっとばかり女性と縁があるんだ」
私がそう言って後ろを振り返ると、エマはキッチンの水道の蛇口に心奪われている最中だった。電話の向こうで、ナオが少し考えてから言った。
「さっき『いろいろあるけど』と言ったのはそういうことなの?」
「それもある」
「だけどなんとかやっている」
「そう」
ナオはそこでふふん、と鼻で笑った。
「そうね。あなたみたいな生き方の方が正解なのかもしれないわね。自分にそれが実践できるかどうかは別として」
彼女はそう言うと、詳しいことはまた後日連絡すると言って電話を切った。最後の彼女の口調は憧れと軽蔑の絶妙なブレンドだったが、これは彼女に限らず、女性全般が生来に会得している技術である。
女性の言動の一つ一つの、なんと優美なことか! そして、ロマンチストの言動の一つ一つの、なんと調子っぱずれなことか!
*
ちなみに、エマは私たちがスペインに出発する数日前に、どこからか自前のスーツケースを持ち出してきた。自分も連れて行けということらしい。私は、幽霊が自前のスーツケースを持っていることに感心した。彼らは私たちが思っているよりも、ずっと豊かなライフ・スタイルを持っている。彼女がスーツケースに何を詰め込んだかは、私のあずかり知らぬところだ。そもそも、ごく普通の生身の女性がスーツケースに何を詰め込むのかも、私の知るところではない。
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