第3話 彼女の名はエマ
さて、ここで私の元恋人であるところの幽霊──あるいは幽霊であるところの私の元恋人にも呼び名を与えようと思う。
エマ。
私は以前彼女をそう呼んでいた。といっても、これは彼女の本名だ。藤野恵麻。この名を再び呼ぶことができる栄誉を、私は謹んで頂戴する。
エマ、なぜ君はまた私の所に現れたのだ? 私好みのロマンスを演出するためか? 君はもう私を愛してはいないだろう。それとも、木星でタップを踊るためか?
*
そして、失業中のロマンチスト兼芸術家見習いであるところの私──もしくは私であるところの失業中のロマンチスト兼芸術家見習いは、エマが我が家にやってきて以来、ずっと彼女との思い出にひたっている。生活費稼ぎに始めたスペイン語翻訳のアルバイトもそっちのけだ。
実のところ、エマと知り合うことになったのは、私のスペイン語能力のおかげだった。輸入食料品店で、缶詰のスペイン語表示について首をひねっていた彼女が、たまたま居合わせた私に助けを求めたのだ。
後になって私は、なぜ私がスペイン語を扱えると思ったのか、彼女に聞いてみた。その答えによると、どうやらエマはしばらく私のことをスペイン人だと思っていたらしい。
「どこからどう見てもスペイン人よ」と彼女は言った。「耳の形なんか、特にそう」
「でも純粋な日本人だ」と私は言った。
「そうなの?」と彼女は首を傾げた。「でもあなたはきっとスペイン人よ。ジョージ・ワシントンがアメリカ人であるのと同じように」
エマのこの強情さは興味深い。恋人同士だった四年ほどの間、別れを切り出したときを除けば、彼女がこれほど何かを言い張ったのはこれ一度きりだった。
よろしい。君が望むなら、私はスペイン人になろう。木星人のタップの代わりに君と情熱的にフラメンコを踊ろうではないか。ロマンチストとは、大体そういうことを考えるために生きているものだ。
*
たった今、エマが私の背後にきてこの文章を読んでいった。彼女は全く反応を示さずに、そのままベランダへ向かって、今度は風にはためく洗濯物を興味深げに見守っている。
彼女が何を思っているかは神のみぞ知る、だ。
*
私が悲鳴を上げた瞬間、彼女は特になんの反応も見せなかったが、その代わり、何かを察知したかのように、私の携帯電話が鳴り始めた。おかげで私は二度目の悲鳴を上げることになった。茹でたキャベツも大忙し、だ。
私が電話に出ると、スピーカーの向こうから「ハロー」という声が聞こえた。聞き覚えのある特徴的な喋り方で、「ハロー」の一語だけでも、何か早口な印象を与える。どうすればそのようなことが可能なのか分からないが、とにかくその人物はいつでもそれをやってのけた。
「元気にしてる?」と声の主は言った。「私、ナオだけど」
「うん、まあ」と私は言った。「いろいろあるけど、なんとかやってる」
「それは『ジャン・クリストフ』の要約かしら?」
「いや、『デイヴィッド・コパフィールド』だよ」
「どちらでも」と彼女は言った。「あるいは人生の要約かもしれないわね。私には元気かと聞かないの?」
「元気か?」
「何事もないけど、なんとかやってるわ」
「元気そうで何よりだ」と私は言った。
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