第3話 安心してください、はいてませんけど
「……っくしゅん!」
突然野外へ放り出された菖蒲は、身体を震わせた。たった今追い出された建物の影になっているため、一段と空気が冷たい。
この辺りでは巨大建築が流行っているのか、目の前に聳えるその建物も菖蒲の家とは比べ物にならないほど大きく、外観はまるで西洋の城のようだった。そんなものが近所にあるはずもなく、周囲を見渡してみても、まったく見覚えのない景色が広がっている。
せめて入ったところから出してくれれば良いものを、別の出入り口から追い出されたようで、最初にいた教会のような建物の場所すらよくわからなかった。かといって扉の向こうへ消えていった銀髪の男はどう考えても頼れそうになく、元の場所へ戻るにしても自力でどうにかするしかない。
(まあ、このお城みたいな建物の周りを回ってみれば見つかるかな……?)
肩に担がれて運ばれている間、ずっとその姿は見えていた。それくらい大きかったのだから、見つけること自体は簡単だろう。
問題は、そこまで辿りつけるかということだった。
「あーもう、なんでこんな時に限って裸足なの!? そりゃあ寝てたんだから普通裸足だけど!」
菖蒲は嘆きながら足元を見下ろした。靴も靴下もはいていない素足が、すでに土で少し汚れている。担がれている時は散々下ろせと騒いでいたが、下ろされなくて良かったのかもしれない。
「――いた! いらっしゃいました!!」
「えっ、今度はなに!?」
第三勢力が現れたかと身構えると、声の主は見覚えのある白装束を纏っていた。
彼らの素性もまだわからないが、先ほどの態度からして、すぐに危害を加えてくることもないだろう。ほっとして駆け寄ろうとした瞬間、第一発見者の向こうから、凄まじい勢いで赤い点が迫ってくるのが見えた。
「イーリス様!!」
緋色のケープを靡かせて一目散に駆け寄ってきたのは、先ほど唯一銀髪男から助けようとしてくれた、ヴェルナーとかいう映画俳優風の彼だった。明るいところで見ると、日の光を浴びて金髪がきらきらと輝き、華やかな容姿がいっそう際立つ。
「イーリス様、ご無事ですか!?」
「えーっと、一応……?」
人違いだと訂正するべきか迷っていると、どこからか花の香りが漂ってきたのと同時に、首から下をふわりと布でくるまれた。
「失礼します。私の身につけていたもので恐縮ですが、お身体を冷やさないために、少しの間お召しになっていてください」
彼の肩から胸の下辺りを覆っていた、ケープのような赤い布が無くなっている。その下に着ていた服も同じ色をしているが、そちらは身体のラインに沿った作りのために均整の取れた体つきが強調され、一枚脱いだだけでもだいぶ印象が変わった。
「あ、ありがとうございます……」
上着まで借りてしまい、ますます人違いだと言い出しづらくなるが、背に腹は代えられない。誤解を解くのは、どこか落ち着いて話せるところへ移動してからでも遅くないだろう。
「急なことで何も用意がなく、申し訳ございません……。すぐに暖かい部屋へお連れいたします」
「いえ、こちらこそ、なんだかすみませ……えぇっ!?」
突然の浮遊感に、素頓狂な声が出る。裸足のせいかもしれないが、今日はよく人に持ち上げられる日だ。それでも今度はずっと扱いが丁寧で、菖蒲はお姫様抱っこのような体勢で抱え上げられていた。
「念のため、落ちないように掴まっていてください」
「は、はい……」
金色の長い睫毛が数えられそうなほど顔が近づけられ、ついドギマギしてしまう。同時に、その美貌に相応しい優雅な芳香が鼻腔を突き、上着を掛けてくれた時の香りは彼の香水だったのだと理解した。
「いい匂いですね」
特に他意はなく思ったことを口にしただけだったが、ヴェルナーは何故か頬を赤らめた。
「あ、ありがとうございます……! お気付きかもしれませんが、この香りは、その……」
なんのことだかわからずに、菖蒲は首を傾げた。けれど、謎の地下室で目が覚めてからというもの、わけのわからないことの連続で、いまさら多少会話が噛み合わないくらいで気にすることもないかと思い直す。
ひとまず忠告どおりに、彼の首に腕を回してしがみついた。体温が伝わってきて温かい。思わず、冷たい空気に晒されて冷え切っていた頬や鼻の頭をくっつけると、歩き始めたばかりのヴェルナーの足が止まった。
「あ、ごめんなさい。寒くてつい……」
「い、いえ……失礼しました。急ぎます」
人を抱えて早歩きしているせいか、彼の胸から聞こえてくる鼓動はとても早い。本当は彼らの尋ね人ではないのにこんな重労働をさせてしまい、申し訳ない気持ちになる。
木枯らしに菖蒲が身震いすると、驚いたのかくすぐったかったのか、ヴェルナーも身体をぴくりと震わせた。
体感としては十一月の終わりくらいだ。まだ真冬ではないが、こんな薄着で外出するような気候ではない。そう思って、菖蒲ははたと気付いた。
寝間着にしていたてろてろのティーシャツと中学のジャージが、いつの間にか古代ローマ風のゆったり一枚布チュニックになっている。
「ん?私、いつの間に着替えて――」
「失礼します。フェルディナント司祭、イーリス様をお連れしました」
長い脚のおかげか早くも目的地に辿り着き、ヴェルナーは菖蒲を抱えたまま石造りの建物の扉をくぐった。先ほどの棺桶があった場所とはまた別のところで、こちらは比較的普通の住居のように見える。
「お待ちしていました。こちらへどうぞ」
地下室で目覚めたときに言葉を交わした、赤茶の髪のフェルディナントという司祭の男性が奥の部屋へと案内してくれる。暖炉の中では火が赤々と燃え、部屋に入るだけで体が温まる。けれど、菖蒲の頭は先ほど気付いてしまった衝撃の事実でいっぱいだった。
(待ってこれ下着はどうなって……ええー……嘘でしょ…………)
胸元から覗いてみると、古代ローマ風チュニックの下にはなにも身につけていなかった。腹部は紐で結んであり、そこから先は見えないが、感覚的におそらくそちらもはいていない。
「イーリス様?」
今はいていないということももちろん大問題だが、年頃の少女としてはもっと重要なことがある。
寝る前と服が違うのなら、就寝中に着替えさせた誰かがいるはずだ。例の地下室に居たのは見渡す限り男性ばかりで、着替え担当のおばちゃんを見かけた記憶はない。
「あのー、なんで私は、その……こんな格好なんでしょうか?」
菖蒲を布張りの長椅子に下ろしたばかりのヴェルナーに耳打ちするも、真意は伝わらずに不思議そうな顔をされる。
「イーリス様は、遥か昔に眠りにつかれてからずっとそのお召し物ですが……?」
「ずっと!? 下着も履かずに!?」
ヴェルナーは咽せた。代わりにフェルディナントが返事をする。
「ああ、二千年前じゃあ下着なんてなかったかもしれませんね」
耳まで赤く染まるヴェルナーとは対照的に、フェルディナントは淡々と説明を続けた。
「これまでずっと神職の者ですら貴方の姿を見ることは禁じられていましたし、警備が厳重で、祭儀のとき以外は一部の者を除いて近寄ることすらできません。誰にも下着の有無なんてわかりませんし、ご尊顔すら拝んだ者はいないはずです。というわけで、ご安心ください」
はいてないのに安心できるわけがない。それでも、どういう仕組みなのかわからないが、知らないうちに誰かに着替えさせられたということではないらしい。
「薄着で寒ければ、上にこれでも着てください。モゼッタはお預かりします」
耳慣れない名前で呼ばれた赤いケープと引き換えに、コートらしきものが手渡された。こちらの方が厚手で防寒着という感じがする。
「ヴェルナー様、こちらお返ししま――」
フェルディナントが菖蒲から受け取った上着を差し出しながら振り向くと、ヴェルナーはなぜか部屋の隅の方でもじもじと俯いていた。
「……し、知らなかったとはいえ……わたしは……そ、そんな状態のイーリス様を…………っ!」
なにやら呟いているが、暖炉の薪が爆ぜる音よりも小さく、菖蒲たちには内容まで聞き取れない。
「あの人はなんであんなに遠くへ行ってしまったんでしょう……?」
「……さあ? イーリス様のおそばにいるのは畏れ多いとでも思ってるんじゃないですかね」
さっきは運んでくれたのに? と不思議に思ったところでピンときた。あの人は若いながらに様づけで呼ばれるほど偉い人らしい。きっと仕事で仕方なく、神様と間違われている自分の世話をしていただけで、個人的にはあれくらい離れていたいほどに嫌っているのだろう。
「でも、そんなに嫌われるようなことしたっけ……?」
「いえ、おそらく別に嫌っているわけでは――」
「あっ」
思い出した。まだ誰が誰だかもわからないときだったのですっかり忘れていたが、棺桶で目覚めた直後に、彼の手を思いっきりはたき落としている。
「あのー、ヴェルナーさん……?」
「は、はい!」
名前を呼ばれ、ヴェルナーは弾かれたように顔を上げた。
「さっきは叩いてしまってごめんなさい。ちょっと寝起きで混乱してて……」
淡い青色の目を見開いて、ヴェルナーはきょとんと菖蒲を見つめ返した。そういう表情をすると、普段よりいくぶん幼く見える。
「だから、そんなに距離を取らなくても大丈夫ですよ?」
敵意がないことが伝わるようにと、菖蒲はできるだけ優しく微笑みかけた。
「それは……もっと近くに、おそばにいてもいいということでしょうか?」
長身を縮こめていたヴェルナーが、壁際からおずおずと問いかける。
「うん、そう……だけど、近い近い! そんなに寄らなくていいんですけど!?」
菖蒲の返答を聞くやいなや、ぱっと顔を輝かせ、今度は鼻と鼻が触れあいそうなほど至近距離まで近づいてきた。
「こうして貴方と直接言葉を交わせるなど、夢のようです」
本当に夢でも見ているかのような陶然とした目つきを向けられ、菖蒲はなんだかいたたまれない気持ちになる。助けを求めてもう一人の方を見ると、ちょうど扉を叩く音に反応して立ち上がったところだった。
「さあ、湯の準備ができましたよ」
フェルディナントが、部屋の外から運ばれてきた白い湯気の立つ木桶を受け取り、菖蒲の足元に置いた。
「はい、じゃあここに足入れてください。……って、貴方はなにしてるんですか?」
言われたとおりに菖蒲が湯の中に足を浸すと、そこに手を伸ばしかけたヴェルナーをフェルディナントが制止した。
「え? 少しですが外を裸足で歩かれたようなので、温めるだけでなく洗わないと……」
「いや、そのつもりで用意させたものですけど、なんで貴方がやるんですか」
フェルディナントの呆れ声に、菖蒲も同調する。
「そうですよ! 自分で洗いますから……!」
二人の目が同時に菖蒲に向けられる。その驚いたような視線に、そもそもこの厚遇ぶりは神様だと勘違いされているせいだと思い出し、誤解を解くなら今しかない、と菖蒲は拳を握りしめた。
「あ、あと、ずっと言いそびれちゃってましたけど、私は神様じゃありません! ごめんなさい!! 私のことを拝んでもなんのご利益もないんです……っ!」
ここまで丁重な扱いを受けた後で心苦しいが、騙し続けられるものでもない。もとより彼らが勝手に勘違いしただけで、菖蒲の方には騙すつもりなど微塵もないのだが。
「……ですが、イーリス様は――」
「まずそのイーリスって人でもないです」
これだけはっきり言えば伝わるだろうと二人の顔を見ても、急に言葉が通じなくなったのかと思うほどにどちらも反応が薄い。
「……詳しい話は、洗いながらでもよろしいですか? 湯が冷めるので」
「えっ、あっ、でも――」
神様でもないのに、足なんて洗わせるのはさすがに申し訳なさすぎる。しかし、菖蒲の制止も聞かずにフェルディナントが手を伸ばす。
「フェルディナント司祭」
と、その手をヴェルナーがやんわりと押しとどめた。
よかった、どうにかわかってくれた。菖蒲がそう安心したのも束の間、ヴェルナーの白い手が湯の中に差し入れられた。
「いや、なんで!?」
溜め息をつくフェルディナントには構いもせず、ヴェルナーは上機嫌で菖蒲の足を洗い始めた。どうやら彼は、自分がその役目を務めたいだけだったようだ。
「ああ……なんて小さな
恍惚とした呟きを聞き流して、フェルディナントが口を開いた。
「……では、イーリス様。一度情報を整理しましょう。今の状況について、こちらで把握している範囲で説明させていただきます。まず、我々は――」
「あっ! く、くすぐったいです……っ!」
羽で撫でるかのような優しすぎる手つきで足に触れられ、菖蒲が声をあげると、ヴェルナーはまたもや顔を赤くして狼狽えた。
「えっ!? あっ、も、申し訳ありませんっ……! こ、これで、いかがでしょうか……?」
「あ、はい……それくらいなら……」
下を向いて力加減を調節するヴェルナーの耳が真っ赤なのを、菖蒲は不思議に思いながら答えた。
「……続けても?」
話の腰を折られたフェルディナントが、抑揚のない声で尋ねる。
「あっ、すみません! どうぞ!」
「……えーっと、まずおれ――じゃね、私たち? 我々? ……はですね――」
脱力しきって素の話し方に戻りかけたフェルディナント司祭は、なんとか元の仕事用の口調に切り替えて続けた。
「この国、ドラセナの神官です。そして貴方は二千年前、おそらくこの国ができるより前に生きていた神で、詳細は省きますが、人々の争いを治め地上に平和を取り戻した後に、『必要な時が来たら起こして』と言い残して聖櫃の中で長い眠りについた。聖櫃っていうのは、先ほど貴方が出てきた棺のことです。ここまではいいですか?」
「は、はい!」
「それで、この国は四年前に始めた戦争がなかなか終わらない、しかも敗色濃厚ということで、これは国の一大事、今こそ神の力を借りる時だ、と我々神官はもちろん国王陛下もお考えになったので、神を目覚めさせるための祭儀をあの聖櫃のあった場所、
「違うはずがありません! 貴方は間違いなくイーリス様です!」
菖蒲の足を握りしめながら、なぜか本人以上に自信に満ちたヴェルナーが言い切った。そこまで言われると菖蒲も、自分の方が間違っているような気がしてくる。
「私は以前、貴方に一度お会いしているのです」
まさかの衝撃発言に、菖蒲もフェルディナントも耳を疑った。
「あまり大きな声で言えることではないのですが、実は幼い頃に地下祭室に忍び込んだことがありまして……。そのときに、畏れ多くも聖櫃の蓋をずらして、眠っているイーリス様のご尊顔を盗み見たことがあったのです」
それは一方的に見たとか覗いたとかであって、会ったとは言わない気がする。菖蒲が言葉の些細なニュアンスに引っかかっているそばで、ここまでずっと動じず騒がず、ちょっと気だるげな雰囲気さえ漂わせていたフェルディナントが顔色を変えた。
「待ってください! 聖櫃の蓋は何人がかりで持ち上げようとしてもびくともしなかったはずです。それを子供の力で中が見えるほどずらすなんて、到底できるとは思えません」
菖蒲は首を捻った。あの棺桶の蓋ならさっき菖蒲一人の力で動かしたのに、彼はなにを言っているのだろう。しかし、ヴェルナーは頷いた。
「ええ、私も中を覗くことができたのはその一度きりで、のちにそうと知ってからは白昼夢でも見たのかもしれないと思っていました。けれど今日、十数年前に見たお姿そのままのイーリス様が現れて、あの時のことは現実だったのだと確信しました」
十数年前といえば、菖蒲はまだ赤ん坊だ。やはりヴェルナーは人違いをしている。
「たしかに、十何年も少女の姿のままでいられる人間なんているはずはないし、あの開かずの聖櫃の中から出てきたことと合わせて考えると、少なくともただの人間ではないですね」
「そんなこと言われても、本当にごく普通の人間ですし……!」
「イーリス様、ご安心ください。長い眠りから覚めたばかりで戸惑われておいでかと思いますが、私どもが常におそばに控えてお支えいたします」
ヴェルナーは、もはや誰になにを言われようとこの少女こそが神だと信じ込み、きらきらした瞳で菖蒲を見上げている。
「そっちの理屈だとそうなのかもしれないけど、私の言い分も聞いてください! 私は天弓菖蒲っていう名前の十七年前に生まれたばかりのただの人間で、神様って崇められるような不思議な力はなんっっにも持ってないですし、二千年前なんて生きてるわけないです! 昨夜は自分の部屋で眠ったはずなのに起きたらあんなところにいてびっくりしてただけの、一般人なんです!!」
今度はヴェルナーが戸惑う番だった。しかし、この場で最も年嵩のフェルディナントは、いたって冷静に問い返す。
「それで、その自分の部屋に帰る方法ってわかってるんでしたっけ?」
「いえ、まったく……」
うなだれる菖蒲に、フェルディナントは事も無げな口調でとんでもない案を提示した。
「いきなり見知らぬ土地に放り出されて、どうすれば帰れるのかもわからない、つまり行く当てもない。だったらもう、とりあえず神様ってことにしとけばいいんじゃないですか? 我々も神が目覚めてくれた方が、いろいろと都合がいいですし」
「そんなのアリなんですか!?」
「ナシって言ったら、着の身着のまま出てってもらうことになりますけど……」
ヴェルナーが、ぎょっとした顔でフェルディナントを見る。
菖蒲は意を決して口を開いた。
「わ……」
「わ?」
「…………私が神です」
ここまで白々しい嘘をついたのは、生まれて初めてかもしれない。
Drakaina 閑谷 @nyomugen
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