第2話

 ナタリーの部屋に泊まった翌日、私は泣きはらした酷い顔をしていたようで、ナタリーが水を汲んで来てくれた。タオルを浸してぎゅっと絞り、私の目にタオルを乗せる。ひんやりとした冷たさが、腫れてしまった瞼に気持ち良い。

 それを数回繰り返して、腫れも大分引いて来た頃、部屋の扉をノックする音が聞こえた。ナタリーがちらりと私を見る。私はこくりとうなずいて、部屋の死角に隠れた。


「どちら様ですか?」

「ハーマンだ。奥様が居なくなってしまった!」


 慌てたような彼の声に、私は目を瞬かせる。家令のハーマン。私に良くしてくれた人だ。……というか、ここの屋敷の人たちは私に同情的だった。ポーラの元に行くマハロを窘めたり、私の仕事を軽減しようとしてくれたり……、美味しい料理やお茶で和ませてくれようとしたり……。本当に良い人たちだったのよね……。


「……旦那様は、どうしたのですか?」

「……早朝にポーラ様の具合が悪くなったと連絡を受け、あちらに……」


 ……そう、やっぱりマハロは、私よりもポーラを優先するのね……。離婚を決意した妻は扱いづらいと言うことかしら? ……私はすっとハーマンの前に姿を現した。


「お、奥様!」

「……今まで、私を支えてくれてありがとう。……私、マハロに離婚を切り出しました」


 ハーマンの目が丸くなる。そして、私の言葉が頭に入らなかったのか、眉間に皺を刻んで首を傾げた。なので、私はもう一度「マハロと離婚します」とハッキリとした口調で告げると、彼は暫く沈黙した後……私に向かい深々と頭を下げた。


「申し訳ございません、奥様。あなたはあれほどマハロ様を支えてくださったと言うのに……!」


 悲痛な声だった。……この屋敷に来てから、この家の実権は私が握っていた。妻は、屋敷管理をするものだから、とマハロが頼んできたのだ。ハーマンともうひとり、メイド長のルシアと言う女性が一緒になってこの屋敷を守って来たのだ。

 突然現れた私にとっても良くしてくれたのは感謝している。私がこの結婚生活を三年間も続けて来られたのは、支えてくれた彼らのおかげだ。


「……もう頑張るの、疲れちゃった」


 自分でも驚くくらい、か細い声が出た。昨日、三年分一気に涙を流したと思っていたのに……、目に涙が浮かんで、ハーマンの姿がぼやけてきた。ハーマンは顔を上げると悲痛そうに眉を下げて私を見る。


「――実家に帰られるのですか?」

「いいえ。旅に出ようと思います。ナタリーを連れて」


 ナタリーは私にハンカチを渡してくれた。私はそれを受け取って、涙を拭う。私のそんな姿に何を思ったのか、ハーマンは「もう少し、この屋敷に居てくださいませんか」とおずおずと聞いて来た。

 引き留められる理由がわからず、首を傾げると「他の使用人たちと話し合いたいことが……」とハーマンが答える。……急に私が居なくなったら、迷惑を掛けちゃうものね……。


「条件があります」

「条件、ですか?」

「ナタリーの部屋に寝泊まりすることを、マハロに伝えないでください」


 念のためそう言うと、ハーマンは真剣な表情でうなずいてくれた。

「ローラ様のドレスを持ってきますね」

「ええ、お願いするわね」


 ハーマンとナタリーは部屋から出て行った。私はナタリーのベッドに座り、ゆっくりと息を吐く。ルシアとも話さないといけないわね……。これからは、常に誰かと一緒に過ごすことにしましょう。マハロのことだから多分、手を出しては来ないと思うけれど……。

 ……いえ、油断は禁物。気をつけないとね。ここの使用人たちはみんな良い人たちだったのに、その当主であるマハロがなぜあんな人だったのか……、理解に苦しむわ……。

 あ、もしかしたらマハロがポーラの元に行くのが当たり前だったから、それをフォローするためにしていた行動が、いつの間にか『普通』になっていった……?

 ……考えられるわね。

 思考を巡らせていると、扉がノックされた。


「ローラ様、ローラ様のドレスをお持ちしました」

「ありがとう――……あら、ルシアも来てくれたの」


 メイド長のルシアも、私のドレスを運んでくれたようだ。私のことを心配してくれているのか、彼女は不安そうに私を見た。


「本当にご決断されたのですね。奥様の目に、迷いを感じられませんわ」


 ルシアは私よりも年上の女性で、いつもピシッとしていて格好の良いメイド長だ。そんな彼女がナタリーと一緒にドレスを運んでくれるとは……。とりあえず、今日のドレスを選んで着替えないと。ナタリーとルシアに手伝ってもらい、着替えた。

 その後すぐに、屋敷の使用人たちがナタリーの部屋に押しかけて来た。


「奥様、旦那様と別れるというのは本当ですか!」

「そんなっ、やっとこの家に女神が来たと言うのに……!」

「奥様が居なくなるのなら、私たちどうやって暮らしていけば……!」


 そんなことを言われて驚いた。この屋敷の使用人たちとは、割と良い関係を築けていったとは思っていたけど、ここまでとは……。

 慌てたようにハーマンが来て、「奥様の邪魔をするな!」と使用人たちを叱った。思わず、クスクスと笑ってしまった。


「奥様……」

「ご、ごめんなさい……ふふっ。……ありがとう、みんな。私を支えてくれて。この三年間、あなたたちが居なければ、私はこの生活に耐えられなかったと思うわ。本当に、ありがとう……」


 笑い声をどうにか抑えて、それから私のことを見つめる使用人たち全員に顔を向けて、私はゆっくりとカーテシーをした。

 顔を上げてみんなを見ると、みんななぜかしんと静まり返っていて――それから、一人がこう口にした。


「奥様がこの屋敷から出ていくのであれば、私、ここ辞めます!」

「え?」

「俺も!」

「わたしも!」


 全員が辞めると言い出して、私はちょっと混乱した。ナタリーが小さく微笑み、「奥様は慕われていますね」と柔らかい口調で言った。


「……離婚するには、まず奥様が『白い結婚』だったと言うことを証明しなくてはいけませんね。何か証拠になるものはございますか?」


 ルシアにそう尋ねられて、私は「そうね……」と考えた。


「日記はダメかしら? ……ほぼ毎日『ポーラに会いに行った。夜は一人で寝た』って内容なのだけど……」

「私たちも証人になれると思います。旦那様はいつも、使用人たちに『ポーラの具合が悪くなったから』と伝えてこの屋敷から出ていきますもの」


 ……そして、全員がハッとしたような顔をした。私が首を傾げると、ハーマンがゆっくりと息を吐いて、使用人たちを見渡した。


「……念のため聞いておくが、『ポーラ様』を見たことのある者は居るか……?」


 しん、と部屋の中が静まり返った。……どういうこと? これだけの人が居て、ポーラを知らない……?

 すっとルシアが手を上げた。でも、その表情は険しかった。


「五年前に一度だけ。ですが、その時はお元気そうでした」

「……? ポーラは生まれつき病弱ではなかったの?」


 マハロは結婚した後すぐに、生まれつき病弱な妹のような幼馴染がいると私に話した。初夜を迎えなかったのはそんな彼女の具合が悪くなり、マハロを呼んだから……。


「旦那様がそうおっしゃったのですか?」

「え、ええ……。結婚式に来なかったのは、大事を取るためだって……」


 重々しい空気が、私たちを包み込んだ。


「……私、マハロに聞いてみるわ。そして、ポーラに会ってみる」

「奥様……?」

「だって一度も会ったことがないのよ。三年間、この屋敷で暮らしてきて一度も。一度くらい会ってみても良いと思わない?」


 ポーラがどれくらい病弱なのか、そして、本当にマハロと『そういう関係』ではなかったのか、気になるところだわ。もしもこれで関係があったとしたら、マハロにとっては痛い打撃になるでしょうし。


「……とりあえず、全員仕事に戻りましょう。私も仕事をするから、執務室に向かうわ。そして、マハロが帰って来たら教えてちょうだい」

「かしこまりました、奥様」


 それぞれの使用人が持ち場に戻っていくのを見送って、私はナタリーに顔を向けた。ナタリーはにこりと微笑みを浮かべる。


「……ずっと傍に居てくれる?」

「もちろんです、ローラ様。万が一、マハロ様が襲い掛かって来たら、私が退治致します」

「ふふ、心強いわ」


 私の不安を払拭するように、どんと自分の胸を叩いてみせるナタリーに、思わず笑みがこぼれた。

 それにしても、こんなに退職希望者が居たなんて……。みんな良く働いてくれていたから、辞めたいと思っていたことに気付かなかった。上に立つ者としては失格よね……。と、考えていたら、ルシアが戻って来た。

 そして、そっと私に向かい、「退職希望者のことですが……」と言葉を紡ぐ。


「奥様がいらっしゃらなかったら、私たちは既にこの屋敷から出て行っていたと思います。私たちの仕事を見て、良いことは良いと、悪いところはなおすようにと奥様が声を掛けて下さらなかったら、きっとこの屋敷はボロボロになっていたでしょう。最後まで、お仕えできる方に出会えたこと、それを我ら使用人一同、幸福に思っておりますわ」

「ルシア……、ありがとう。あなたからそう言われると、なんだかくすぐったいわね」


 三年間、私を支えてくれた屋敷の人たち。マハロがポーラの元へばかり行く時も、みんな気に掛けていてくれた。……そんな優しい人たち。

 マハロはもっと、近くの人たちを見るべきだわ。自分を支えてくれる人たちの存在を、その目でしかと見るべきよ。

 そんなことを思いながら、私はナタリーと共に執務室へと向かった。最後まで、責務は果たさないとね。


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