第10話

「頭で理屈は分かっていても、こうやって見るとやっぱり不思議だわ。あんなに青いのに、実際に中に入って見ると透明なんだもの」


 堤防の上を歩きながら、かぐやは海を見つめてぽつりと呟いた。


「落ちないでよ……」


 堤防横の道を歩いている僕は、見上げないとかぐやを見ることができない。かぐやがたまに突拍子もないことをし出す宇宙人だっていうのはよく経験済みなので、首が痛くても目を離すことはできなかった。


「これからどうする?」


 そう言ってみたものの、これから、がいつを指すのか、僕には分からなかった。明日? 来週? 遠い遠い、未来の話? けれどかぐやには分かったようで、彼女は視線を迷わせたあと、寂しげに笑う。


「私は、」


 その言葉が最後まで紡がれることはなかった。かぐやの金の瞳が限界まで見開かれ、海の向こうを見つめていた。僕もその視線につられるようにしてかぐやが見つめる方へ視線を向ける。そして、言葉を失った。


 そこにあったのは、月だった。


 ――いいや、正確には『月によく似たナニカ』だ。『それ』は凹凸の一つもない綺麗な球体をしていて、海上で月のように光を弾いて輝いていた。風など吹いていないというのに海は突如として荒れ始め、暗雲がたちこめていく。太陽の光が遮られたことで空間に陰が落ち、余計に『それ』の輝きを助長させていた。


「なんだ、あれ・・・・・・」


 確実に地球上のものではない。かぐやの方を見ると、彼女は唇をわななかせ、身体を守るようにして両腕でかき抱きながら、一歩、二歩と後ずさった。


「あ、あ・・・・・・」


「かぐや、あれが何か、知ってるの?」


「・・・・・・ええ。あれは、私のお兄ちゃんの、宇宙船よ」


 一言一言噛みしめるように言うその姿は、まるで説明しているかぐや自身がそれを認めたくないと、信じたくないと、そう言っているように聞こえた。理由なんて聞かなくても分かる。


〈家族から逃げてきたのよ、私〉


 がたごとと揺れる異世界のような空間で、その金の瞳に見つめられながら言われた言葉を、僕はよく覚えていた。


恐る恐る『それ』に視線を戻す。球体にゆっくりと切れ目が入っていき、扉のような形ができたと思った瞬間、その場所にだけぽっかりとした長方形の穴が開いた。そこから現れたのは、かぐやと同じ金の瞳を持つ男。


ばちりと、目が合ったような気がした。けれどそれは気のせいだとすぐに分かる。だってその双眸は、僕の隣にいるかぐやを睨みつけていたから。


「――いた」


 次の瞬間、球体と僕らのいる堤防との間に光の道がつなげられた。微動だにできない僕らに対して、球体の中から次々と布で顔を隠した月人たちが現れ、道の上を駆けてこちらに向かってくる。


「かぐや!」


 かぐやの手を握ると、そのまま踵を返して走り出す。どこに行けばいいのかは分からない。けれど、『それ』から少しでも遠くに逃げないといけない。まだ状況が飲み込み切れてはいなかったけれど、このままでは二人っきりの逃避行が終わってしまう、そんな予感がした。そしてその予感は、きっと当たっている。


 真っ直ぐに走って、次の角を右。その坂を上って、左。信号が点滅していた横断歩道を横切ると、車のクラクションが鳴った。


「ごめんなさいっ!」


 きっと運転手には届いていないだろうけど、声を張り上げてそう言う。


 僕らは懸命に走った。


 かぐやの手を握る力を強める。


「かぐやあああぁぁぁっ!」


 僕は大声で叫ぶ。


 確かに繋がってるはずなのに、傍にいることを確認したくて。


「真青おおおぉぉぉっ!」


 かぐやも大声で叫ぶ。


 僕らの声が風に乗って飛ばされていく。どこまでも飛んでいけ。どこまでも。あのざわめくパーキングエリアまで。あの良い匂いのするラーメン屋台まで。あの夜に化け物を飼った街まで。――あの、美しい、月まで?


 何個目か分からない曲がり角を曲がったところで、僕はその足を止めた。突然の急ブレーキに反応しきれなかったかぐやが僕の背中に衝突する。


 いつの間にか回り込まれていたようで、見覚えのある顔を布で隠した集団がそこに立っていた。先ほど宇宙船から出てきた月人たちだ。


「まっ、真青・・・・・・」


 僕の背中にしがみついたかぐやが、震える声で僕の名を呼んだ。


「かぐや」


 僕はそっと、その肩を抱いた。集団から一人、すっと前に歩み出てくる。


「何をしてるのですか、姫様」


 姫、様。それがかぐやのことを指していることに気づくのに時間はかからなかった。


「・・・・・・貴女には、関係ないわ」


「関係あります。私たちは姫様を連れ戻しに来たのですから」


「帰ってちょうだい」


「そういうわけにもいかないのは、姫様が一番理解しているでしょう?」


「理解してるわ。その上で、帰ってと、そう言っているのよ」


 押し問答がしばらく続いたあと、突然ぎゅんっと視線がこちらに向いた。とは言っても相手の顔は布で隠れているから、顔の向きで推測しているだけなのだけれど。


「貴方はどちら様ですか?」


「ぼ、僕は・・・・・・」


 なんと言えばいいのだろう。僕が言葉に詰まっていると、かぐやの口が開いた。


「真青は関係ないわ。偶然会って、ここまで一緒に来た、地球人よ」


 僕のことを庇うように、かぐやが一歩前に出る。けれど月人はそれを意に介せず、かつかつかつと距離を詰めてきて、僕の顔をのぞき込んだ。白い布が、ひらりと翻る。


「・・・・・・地球人?」


「は、はい」


「なら、無知な貴方に教えてあげましょう。この方は月の都を治める王家の第一王女。本来なら貴方など話しかけることもできない、高貴なお方なのですよ」


「・・・・・・王、女」


 かぐや、と初めて呼んだとき。


 月から来たお姫様の名なのだと言った僕に、私にぴったりねと笑ったその笑顔を思い出す。そのときは気にもとめなかったけれど、その言葉の真意を、僕はようやく理解した。

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