第9話

「かぐやはさ、虹って見たことある?」


 ないわ、と首を振るかぐやになるほどと一人納得する。僕は虹を見たことがあるから、先ほどこの本を読んで太陽の光がたくさんの色を含んでいると知ったとき、なるほどなとすぐに納得できた。かぐやとの違いはそこだろう。


 本棚にぎっちりと詰められた本の背表紙を順になぞっていくと、虹の写真集が見つかった。それを引き抜いて、かぐやに適当なページを開いて見せる。


「これが虹」


 その写真を見た瞬間、かぐやはきらりきらりとその金の瞳を輝かせた。


「すごい、綺麗ね!」


 すごい、すごい、と言葉を覚えたばかりの赤子のように何度も同じ言葉を繰り返す。その表情は宝物を見つけたかのように熱に浮かされていて、かぐやは月から見上げた海と同様に虹を気に入ったのだとすぐに分かった。


 食い入るように僕が広げたページを見つめていたかぐやは、「他のページも見せてちょうだい!」と催促しながら僕の肩を揺らす。はい、とその写真集ごとかぐやに渡すと、彼女は奪い取るようにしてそれを手に取った。そしてその勢いからは考えられないような繊細さで、大切なものを扱うようにゆっくりと、次のページをめくる。きらりきらりと、光が舞う。


 かぐやがその本を読み終わるまで手持ち無沙汰だったので、僕は適当に館内を歩きながら本棚に並ぶ本を物色していた。と、見覚えのある図鑑のシリーズを見つける。昔僕の家にあったものと同じ、大手の出版社から出ている子供向けの図鑑だ。六歳の誕生日に両親が買ってくれた、僕の宝物。……宝物、だった。もう長い間思い出すこともなかったのに、心の端っこにいる図鑑を抱えた少年と目が合った気がして、気がつけば僕はその図鑑を手に取っていた。腕にかかるずっしりとした重みに懐かしさがこみ上げる。昔は両手で抱えていたのに、片手で持ち上げられるほどの年月が経ってしまった。


 大きなページをめくると目に飛び込んでくる、世界のすべてを映した色とりどりの写真。世界の秘密を綴った文章。心が高鳴るのが分かって、まだそんな自分が気持ちを持っていたことに驚いた。


〈少しでも興味を持ったものをとりあえず将来の夢にすれば良い。いいか、必ずしもこれしかないなんて強い気持ちが必要なわけじゃねえんだ〉


 おんぼろな繭の中、おじさんが言っていたことを思い出す。


 いつもなら気にもとめない、昔の名残だなんて言葉で片付けてしまうようなこの高鳴り。これしかない、わけじゃない。人生を賭けられるかなんて分からない。――でも。


 真っ暗だった道が、少しだけ、ほんの少しだけ、見えた気がした。


 しばらくしてそろそろ読み終わったかな、とかぐやがいる場所に戻る。するとちょうど本を読み終わったのかかぐやが本から顔を上げた。


「真青」


「読み終わった?」


「うん」


「どうだった?」


「すごかった。夢が、また一つ増えたわ」


 かぐやは目を輝かせながら、宝物のように本を抱える。


「夢?」


「ええ。虹を見るの」


 嬉しそうに笑うかぐやに、僕もつられて微笑んだ。彼女に海をあげることはできなかったから、新しい夢ができるのは良いことだ。そして、すぐに夢を見つけられる彼女のことをすごいとも思うし、羨ましいとも思う。


「かぐやはさっき何の本を見てたの?」


 本棚の前でしゃがみこんで何かを熱心に読んでいた姿を思い出してそう問うと、かぐやは本棚から一冊の本を抜き出した。ぱらぱらとページをめくっていき、あるページでその手を止める。


「見て」


 そこに載っていたのは、大きな月の写真だった。その月は満月で、美しいその姿をすべてさらけ出してそこにいた。


「月の海、っていうんだって」


「海?」


「この、月の、黒いところ」


 かぐやが指さしたそこには、確かに海という月からは連想されないような文字が記されていた。小さいころは餅をついているウサギだとか表現していたその場所にそんな神秘的な名前がついているとは知らなくて、僕はへえ、と感嘆の息を漏らす。


「月の、海」


「そう。たくさんあるみたい。ここは静かの海、ここは晴の海、ここは雲の海。中央の入り江、なんてのもある」


 記されている文字を一つ一つ読み上げていたかぐやは、こらえきれなくなったのかぶはっと噴き出した。


「変なの! あんなのただの地面なのに、地球人は海なんて呼ぶのね」


「僕も初めて知ったよ。僕が小さい頃はね、この場所を見て餅をついているウサギみたいだって言ってたんだ」


 そう言うと、かぐやは興味深そうにへえ、と一つ頷いた。本に視線を落とすと、ちょうど月の海のことが記された次の段落にそのことが載っている。


「あ、ほら、ここに書いてある。・・・・・・へえ、外国ではカニだとか、木の下で休む男性だとか、本を読むおばあさんだとか、色々言われてるみたい」


「私が月から地球を見上げていたみたいに、地球の人たちも月を見上げて色々想像していたのね」


 理解できないわなんてかぐやは首を傾げるけれど、僕にはその昔の人の気持ちが少し分かるような気がした。だってあんなに美しいのだ。


「月って本当になんにもないの?」


「ないわよ。本当に月って殺風景で、暇さえあればずっと地球を見上げてたの。真青は宇宙から地球を見たことある?」


「いや、残念ながら宇宙には行ったことがなくて」


「そう、機会があれば一度見てみるといいわよ。あのね、月から見る地球ってすんごく綺麗なの。綺麗な青色が一面に広がっていて、所々にある緑色や白色がその美しさをさらに引き立たせてる。小さい頃から毎日見てたらそのうちあの青がほしいなあって思うようになって。あの青を月に持って帰れたら、きっと退屈しないだろうなあって思ったの」


 まあ無理だったけどね、とかぐやは笑った。そしてつい、と顔を窓の方向に向ける。図書館の窓は天井から床まで壁一面に広がっていて、そこからは波打つ海がよく見えた。


「・・・・・・もう一度、海に行きたいわ」


 呟くようなかぐやの声はきちんと僕の耳に届いていて、だから僕は「いいよ、行こう」と笑顔で頷いた。

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