第7話

 トンネルをいくつか抜けて、山もいくつか越えて、朝日が昇ってきたころ、突然海は現れた。それと共に現れた水平線まで広がる朝焼けに、僕は目を奪われた。いくつもの淡い色の絵の具が混ざり合って空に滲んでいるようだ。それと同じように、郷愁が僕の胸に滲むようにして広がっていく。朝焼けを見たのなんていつぶりだろう。空を見て美しいと思ったのも。


「綺麗・・・・・・」


 あの街を出てから、空を眺めることが増えた気がする。最近はいつでも疲れていて、教科書やノートが入ったリュックサックがとても重たく感じて、猫背になって地面ばかりを見て歩いていたから。


光を弾いてきらきらと光る海面は、かぐやの瞳を連想させた。美しい、金の瞳。僕に魔法をかける、眩しい光。


「かぐや、海だよ」


 隣でずっと眠っていたかぐやの身体を揺さぶると、彼女はもにゃもにゃと口の中で言葉になりきらない声を紡いで、ゆっくりとその瞼を押し上げた。


 きらりきらり、光が舞う。海面じゃない。空でもない。僕の、横から。


「・・・・・・うみ?」


「そう、海」


 そう聞いた瞬間、かぐやはさっきまでの態度が嘘だったかのように俊敏に飛び起きた。勢いよく車窓に張り付いたものだから、がんっ、とおでこを打った音が車内に響く。きっと痛かっただろうに、かぐやは海に夢中でおでこを打ったことに気づいていないようだった。窓ガラスを割りそうな勢いで窓に顔をひっつけ、目を限界まで見開いて、外に広がる海を見つめている。その様子が遙か彼方まで広がる海をすべて瞳の中に映そうとしているように見えて、僕は思わず笑ってしまった。


 けれど次の瞬間、その笑いは引っ込むことになる。


 かぐやが突然車の扉を開けて、そこから飛び降りたのだ。


「ちょっ」


「はあ!?」


 その衝撃で車体は傾き、僕はバランスを崩して座席のシートに倒れ込んだ。おじさんが急ブレーキをかけ、車は動物の鳴き声のような鋭い音を出して道ばたに急停車する。


「かぐや!」


 僕は開きっぱなしになっていた扉から飛び出した。おじさんもそれに続く。


 かぐやは車から飛び出した勢いを抑えきれなかったのか、歩道の上で倒れ込んでいた。どこかを怪我したりはしてないだろうか。駆け寄ろうとした瞬間、かぐやの手足がぴくりと動く。次の瞬間、かぐやはがばりと飛び起きた。


「海だー!!!」


 そう叫びながら、かぐやの肩あたりまである石でできた堤防をよじ登る。そして、勢いよく、跳んだ。水飛沫が上がる。


「あっ、馬鹿!」


 いきなり突拍子のないことをしたかぐやに、僕は慌てて海面をのぞき込んだ。


 水面に広がる大きな波紋と白い泡に、思わずため息を吐く。さすがは宇宙人、思考回路がさっぱり読めない。水面から彼女が顔を出したら説教してやろうと揺れる水面を見つめていた僕は、しかしかぐやが飛び込んだことによって広がった波紋が消えても、海が先ほどの穏やかさを取り戻しても、いつまでたっても姿を見せないかぐやに焦りを抱いた。


「かぐやあー?」


 名前を呼んでも返事は返ってこない。ふと、僕はあることに気づいた。


 月には水がないらしい。


 ――そんな場所から来た宇宙人って、泳げるのか?


「かぐやっ!」


 慌てて海に飛び込む。季節外れの海はとても冷たくて、海水に触れた場所から体温が奪われていくのが分かった。鼻がつーんとして、涙が出てくる。それでも無理矢理目をこじ開けて、海の中を見回した。


 そう遠くないところに、かぐやはいた。地球の重力に引っ張られるように沈んでいくその姿に、僕は手足をむちゃくちゃに動かして彼女との距離を詰め、その肢体を抱いて海面へと浮上する。溺れて意識を失ってしまったのかと思ったが、どうやら意識はあるようだった。ではなぜ動かないのかと疑問に思ったが、溺れる、という概念そのものがないから抵抗の仕方も分からないのだろう。


「ぶはあっ」


 海面に顔を出した僕は大きく息を吸った。泳ぐなんて久しぶりだ。


 抗議の念を込めてかぐやを睨みつけると、かぐやは僕の腕の中でぐったりとしたまま、光を弾いて輝く海面を見つめていた。


 そっと、大切なものを包むかのように手をお椀にして海水を掬い上げたかぐやは、しかし次の瞬間首を傾げた。手のお椀を崩すと海水はまた海へと戻っていく。それをまた掬っては戻し、掬っては戻しと不思議なことを繰り返すかぐやに、僕はたまらず声をかけた。


「なにしてるの、かぐや」


「海って、青くないのね」


 残念そうに呟いたかぐやに、僕はようやく先ほどの彼女の謎行動に得心がいった。手のお椀に掬った海水に色がないことに驚いていたのだろう。


「月から見たときはあんなに綺麗な青だったのに。不思議だわ」


「そういえばそうだね。僕も忘れてたよ」


 海は青くない。


 遠く、それこそ宇宙から見れば鮮やかな青色であるというのに、実際に手をお椀にして掬ってみると他の水と変わらない透明だ。


 それに納得がいかないのだろう、揺らぐ海面を睨みつけていたかぐやは、唐突に僕を見た。今僕はかぐやを抱きかかえているから、そうすると自然とかぐやが僕を見上げる形になる。金の瞳が僕を射貫く。きらりきらり、光が舞う。


「ねえ、真青。どうして海の水は青くないの?」


 かぐやのそんな純粋な疑問に、僕はうっと言葉に詰まった。なんだったっけ。思い返そうとして、しかし答えが出てこないことに愕然とする。


 僕はそれを知っているはずだった。子供の頃、僕は図書室でずっと図鑑を読んでいるような子供で、テストには出ないような、けれど世界の秘密を一つ解き明かしてしまえるような、そんな知識をたくさん持っていた。それらは確かに僕の宝物だったはずなのに、今思い出そうとしても何一つ思い出すことはできなかった。僕の心の真ん中にいた図鑑を抱えた少年は、気がつけば遠い向こうに立っていた。


「・・・・・・どうして、だろう。僕も忘れちゃった」


 きらりきらり、光が舞う。初めて、僕はその光から目をそらした。

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