第5話

「ちょっとぼろいけど我慢してくれよ」


 その台詞が謙遜などではないことはすぐに分かった。座席のシートはぼろぼろで所々中の綿が出てしまっているし、扉を開けると染みついた煙草の匂いが鼻につく。けれど乗せてもらう身で贅沢は言えない。


「いえ、ありがとうございます」


 僕が後部座席に乗り込むと、それに続いてかぐやも乗り込む。


「シートベルトしてくれよ」


 おじさんはそれだけ言うと運転席に乗り込んだ。車が走り出す。


 かぐやは金の瞳をきらめかせて、窓に張り付いたようにして外の景色を眺めていた。その表情は初めて見るものたちに目を輝かせる幼子のようで、バックミラー越しにそんなかぐやを目に入れたおじさんは豪快に笑う。


「なんだ嬢ちゃん、車乗るの初めてか?」


 その口調は明らかに冗談交じりで、けれどかぐやはその瞳をくるりとこちらに向けて「ええ!」と頷くものだから、おじさんは驚いたように目を見開いた。


 そういえば電車の中でもずっと窓の外の景色を見ていたな、とふと思い出す。特にやることがないからそうしていたのだろうと思っていたけれど、地球の景色が珍しかったのだろうか。


「変な嬢ちゃんだな」


 深くは追求しない性質なのだろう、おじさんはそれだけ言ってまた豪快に笑った。


「ねえねえ、海まであとどれくらいかしら?」


「んー・・・・・・あと三時間くらいじゃねえかな」


 そんな二人の会話を聞きながら、僕も窓の外に目をやる。外の景色はめまぐるしく変わっているというのに、車の中の景色はまるで変化しなかった。まるでこの冷たくておんぼろな繭に包まれて外の世界から守られているみたいだ。ずっとこうだったらいいのにな、と思う。止まってはくれない時間、止まることを許されない環境、どこかに行けとせかされるのにどこにも行きたいところなどない。


「・・・・・・あの」


 僕がぼんやりとしているうちにかぐやが寝てしまったようで、気がつけば車内は静まりかえっていた。たまにノイズの入るカーラジオが渋滞情報を伝えている。僕の小さな声はその音にかき消されてしまったようで、おじさんは「ん? なんか言ったか」とバックミラー越しに僕を見た。目が、合う。かぐやとは違う、黒々とした瞳だった。


「・・・・・・おじさんは、将来の夢ってありましたか?」


「そりゃああったよ」


「どんな?」


「幼稚園のときは飛行機のパイロット、小学生の時はサッカー選手、中学生の時はラーメン屋の大将、高校生の時はプログラマーだったかな」


 夢多き少年だったとおじさんは笑った。


「なんでなるのやめたんですか?」


「やめたわけじゃねえよ。実際にやってみて、違うなと思ったから将来の夢を変えた。今だってそうだ。ふと自分の店がやりたいなと思って、来月オープンすることにしたんだ。夢多き少年は夢多き中年になったってわけだ」


 ふうん、と僕は相づちを打って、行儀悪く座席の上で三角座りをした。自分の体を包み込むように膝を抱きかかえて丸くなると、少し安心する。僕の癖だ。


「なんだ坊主、将来に迷ってるのか?」


「はい。・・・・・・僕の夢ってなんでしょう」


「焦らなくてもいいんじゃねえの。夢なんて無理矢理作るもんでもないだろ」


「でも、僕、もう大学受験なんです。ずっと迷ってはいられない」


 指針も道しるべもなにもなくて、手探りでそれを探すしかない。時間はない。選択しなくてはならない。見つけなくてはいけない。僕がこれから進む道を。僕がこれから進みたい道を。


 ただ一つ、譲れないもの。揺らがないもの。心の奥底に根を張る、ただ一つの大切なもの。


 僕にはそれがなかった。


 進むべき道は見つからない。


 進路希望書は白紙のままだ。


「みんな、夢を持ってる。将来に希望を抱いて、そのために今努力してる。けれど、僕に夢はなくて、それなのに僕はどうして今頑張ってるんだろうって、ふと思っちゃうんです」


 先の見えない努力ほど苦しいものはない。目の前は真っ暗で、それでも前に進まなくちゃいけない。進んだ先に何があるのだろうか。僕はそれが怖くて仕方がなかった。


「いったん難しいこと考えるのやめたらどうだ?」


「え?」


「お前、なんか好きなもんとかねえの」


 好きな物。咄嗟には思い浮かばなかった。言葉に詰まる僕に、おじさんは「昔好きだったものでもいいけど」と付け加える。


「昔、どんな子供だったんだ?」


「……図鑑をずっと読むような子供でした。宇宙とか、自然とか、虫とか、そういうものが好きだった」


 けれどそれだって、あの年頃の子供によくある可愛らしいものだ。テレビで紹介されているような、大人顔負けの知識を持つ子供たちには遠く及ばない。将来も仕事としてずっとやり続けられる自信はない。


「そういう、上の方ばっか見てるからじゃねえの? そりゃテレビとかにピックアップされるような奴らはすげえけど、あんなの世の中の一割にも満たねえよ。これしかない、これに人生を賭けられる、そんなものはなかなか見つからない。お前の周りの将来の夢を持ってる子だって、興味があるとかそんな軽い気持ちの奴だって絶対いるよ」


 おじさんの口調は本当に思ったことをそのまま言っているといった感じで、だからこそ僕の悩みは口からするすると飛び出してきた。学校や塾の先生、両親に相談したくて、けれどできなくて、ずっと胸のうちでくすぶっていたもの。漠然とした将来への不安感。それが、喉を通って体の外に出て行くような錯覚に陥る。


「将来の夢なんてなくてもいいと思うけど、どうしても作りたいって言うなら良い方法があるぜ」


「どんな方法ですか!?」


 思わず運転席まで身を乗り出す。ミラー越しじゃない、直接おじさんと目が合った。にやりと、おじさんが笑う。そこにいたのは確かに大人だった。


「受験勉強も大変だろうけどさ、色んなものに触れてみろよ。たくさんのことを経験しろ。それで少しでも興味を持ったものをとりあえず将来の夢にすれば良い。いいか、必ずしもこれしかないなんて強い気持ちが必要なわけじゃねえんだ」


「でも、それが自分に向いてなかったら? それに興味がなくなってしまったら?」


「また探せば良いさ。まだ見つかってないだけで、そういうものは絶対に他にもあるから」


 月の光に満ちた、冷たくておんぼろな繭の中。おじさんはゆっくりと、僕に道の探し方を教えてくれる。


「可能性ってのは、自分がまだ知らない自分のことだ。坊主、お前まだ若いんだから知らないことだらけだろ。諦めて自分に絶望するにはまだ早いよ。たくさんのことを経験して、たくさんのことを知れ。人生全部使っても、自分の可能性全部を知ることなんてできないからさ」


「……おじさんも?」


「ああ、俺だってまだまだ、自分の可能性を知らねえよ。無限大だ。だから生きるのって楽しいんだぜ」


 黄ばんだ歯を見せて笑うおじさんに、僕も笑い返した。胸の中で凍り付いていた涙が溶けて、瞳からゆっくりとこぼれ出していった。

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