第6話
洋介は驚きのあまり、一言も出ない。からだの震えがとまらない。
そのうえ、ひっくひっくとしゃっくりが始まる始末だ。
「なんでそんなにびっくりするのよ。これくらいで。これって、あたし道楽みたいなものよ。男のくせにこれくらいのことでおたおたしてさ。勇ましいわね。酔っ払ってたあの子、恋人か何かなの。あなた、あの子には言いたい放題いえるんだ」
「まあ、人によりけりです」
「あんたも男でしょ。いまいち頼りなくて意気地なしみたい。こんなあたしを怖がるんだし……」
「こっ、こわいもんか。でもさ、ヒールをごりごり噛んでは、のみこむなんて。ふつう、じゃできないんじゃないかな」
「どうかしら。広い世間を探せば、わたしみたいな人って、けっこういるわよ。あんたが知らないだけ」
「そうかな。なんだか信じられないけど」
ほらほらといいながら、彼女が洋介に近づくと、洋介はあとずさった。
「ごっ、ごめん。きみ、ちょっとね」
「そうでしょうよ。くさいんでしょ?あんなごみ溜めみたいなところに長くいたんだもの。そんなに嫌われるんなら……。わかったから」
彼女はあとずさった。そのまま踵を返した。どこへ行くのだろう。後ろも見ずに、歩いて行く。
「帰っちゃうんだ、もう……。なんなら送ってくけど」
洋介が声をかけた。
「ほんと?いいわよ。むりしないで。さっきのひと、追って行ったほうがいいんじゃなくって?あたしのことは放っておいていいわよ」
洋介が彼女のもとに近づいて行く。
「へえ、あたしを選ぶの。あとでどうなったって知らないわよ」
「いいんだ。ほっとけない」
ふたりは歩きながら話しだした。
「あんた、あたしのこと、お化けかなんかと思ってるでしょ?」
「まあね。あんなもの、よく食べるよ。そのうちからだがどうにかしちゃうぞ」
「よけいなお世話。あんたなんてさっさと行っちゃえば。わたしといるとトラブルつづきよ」
「そうもいかない。もとはといえば、ヒスを起こしたかおりが、自分が穿いてた物を投げ込んだから始まったわけだし。かおりは投げ込んでおいて、ヒールを探せ探せって。もう酔っ払っていて話にもならない」
「かおりさんて言うんだ、あの子。実をいうと、あたし、まじ、びっくりしたの。飛んで来たヒールね。もう少しであたしのきれいな顔を直撃するところだった。でもね、あたし、そのヒール、ひょいとつかんで、これっておいしそうってがりがりかじったけど」
「それがこわいんだよ」
「あれっくらいのもの。胃の中で消化されちゃうわよ、簡単よ」
「すごい、おなかだ。へえ。ひょっとしてあんたって……」
「なによ、あんた。早く続きを言ってみなさいよ」
くだんの女の右手が、すうっと洋介の首筋にのびてきて、洋介の後頭部から首にかけて、ほっそりして長い五本の指がぞろりぞろりとなでだした。
(今度はおれの身体が食われてしまう)
洋介は心底、恐怖した。
「それじゃこの辺でサヨナラするよ。用を思いだしたものだから、ごめん」
洋介が立ち去ろうとすると、
「わかった。かおりさんのところへ行くのね」
彼女がずばりと言った。
「ああ、まあね」
「実をいうとね、あたし、ちょっとは世間に名が知れてるの。なんども大食い番組に出てるし」
「へえ、やっぱり。どの番組?ラーメンだのハンバーグだの、思いっきり、うつわに盛ってね。あれってさ、おいしいのは初めだけだと思うな。あとは地獄だよきっと……」
「いいえ。ずっとずっとおいしく感じてるわ」
「そんなものかな。とにかく早く帰った方がいいよ。きれいな人がこんな真夜中にうろついてるなんて考えられないし」
「きれい?あたしが……?」
「ああ、じゅうぶんに美人のカテゴリーに入るよ」
彼女が黙った。
眼の色がキラキラしだしたのがうす暗い中でもわかる。
よく観ると異国の民だろうか。
ひとみが青っぽい。
「じっと見ないでよ。あんまりあたしのこと詮索しないで。そうしてくれたら、あたし、あなたの大ファンよ」
「ファンって、なんで?話がよくみえないな」
「あなたの追っかけになるってこと」
ふいに、彼女は自分の頭を、洋介の肩にあずけてきた。
「えっえっ、うそだろ?それって恋人同士がやることだろ。おれのことなんにも知らないくせに。それにさ。いるんだよ、おれにだって」
「さっきの人かな。かおりさん?あの人ね、あなたにふさわしくなさそう。なんならあたし、あの子、片づけてあげてもいいわよ」
彼女は、まるで子どもが前にならえをするように、じぶんの両腕をのばした。それから長く伸びた髪の毛を、右手で下から大げさにすくいあげた。興奮気味なのか、紅くなった顔を、洋介の顔に近づけていく。
上下の薄い唇がわずかにひらいた。
まっしろな犬歯が汚れている。
「ちょっとちょっと、何考えてんだよ、やめろよ。食べるなって、まずいから」
「ばかね、食べやしない。ちょっこっとね。あれするだけ」
「あれって?ひょっとしてキスってこと。ああ、こわい」
洋介は逃げ出したい。
しかし、どうしたことか身体がいうことをきかない。
女の体臭が強くなっている。
芳しい香りがするから不思議だ。
(うそだろ?こいつ、ゴミ食べてたんだぜ)
洋介は頭が痛くなった。
目が回りだし、倒れそうになった。
どん欲 菜美史郎 @kmxyzco
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