第5話

 コンビニに立ちよって何か冷たい飲み物を買い、口の中をきれいにしたいと思うが、わが身から立ちのぼる泥の臭いが気になる。


 (まあしょうがねえやな、みんなに迷惑をかけっから)

 洋介はひとりごち、びょっと、つばを、草っぱの上に吐いた。


 かおりの投げ捨てたヒールを見つけられなかった悔しさが、どっと押し寄せてくる。

 (このまま帰ったら、かおりのやつ、かんかんに怒るだろうな)


 かおりの理不尽さを指摘できないでいる、じぶんのふがいなさを嘆いた。


 「ええい、くそっ、ままよ」

 誰かに八つ当たりしたい心境になった。


 昔、男は強かった。


 ちょっとやそっと家族に心配かけたとしても、知らぬ存ぜぬを押しとおした。

 亡くなった祖父がそうだった。


 今夜訪れた繁華街のなかをくねくねと流れる堀川沿いに、いろんな飲み屋がずらりとならぶ。


 洋介の祖父は、そのうちのふたつやみっつの店によく出入りした。いやな客でも客は客。仕事とわりきり酔っぱらいの相手をしているぎんぎつねたちを彼独特の弁舌で楽しませ、激励した。


 祖父は五十近くまで、妻帯しなかった。広くて、浅い付き合いを好んだ。

 酒におぼれず、じぶんの小遣いの範囲内で遊んだ。


 最後は、是非、わたしを嫁にしてくれという、奇特な女の人が目の前にあらわれ、所帯をもった。


 洋介も、祖父に似て、女好き。唯一、彼と違うのは、ひとりの女にのめりこんでしまうところだった。


 もの想いにしばらくふけった洋介が、ふと露地の暗がりをのぞいた。

 黒い人影がひとつ、ゆらりと立ち上がる。


 大通りに向かって歩きだして来る気配だ。ときおり、よろめく。


 街灯の明かりがとどきだすと、次第に人の輪郭がはっきりしてきた。

 洋介は目を凝らした。


 どうやら女性らしい。


 夏向きの青っぽいスーツの上下に身を包んでいる。

 顔は透きとおるように白い。


 しかし、口もとが異様だ。


 紅いルージュを引くのにおおげさに間違えて描いたよう。まるで彼女の口から、泥まみれの大きなミミズがはい出してきて、にょろにょろ動いているかのようだった。


 歳は、二十歳くらい、目鼻立ちがととのっている。

 ちぇ、下手な口紅がなけりゃ、じゅうぶん美人と呼んでやってもいいのに、と洋介は残念な気持ちになった。


 突然、青いスーツの袖からのびた手が、ふわりと舞いあがった。

 彼女が手にした黒い物体が、彼女の口にぶつかったと思った瞬間、ガリガリ、ガリッ、ものをかむ音がつづいた。


 洋介はうろたえた。

 丈夫すぎる歯で、明らかに硬いものをかんでいる。


 見てはならないものを見てしまったという思いで、洋介は、思わず、眼をそらせた。かまわず、女は、それをくわえたまま、路上に現れ、洋介に対峙した。


 原型をとどめないほど壊れてはいるが、形から察して、それがかおりのヒールに違いなかった。


 女は、洋介の存在など、まったく意に介さないようだ。伸びた皮を、ガムのように、くちゃくちゃかんでは、ごくりとのみこんだ。

 


 

 

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