姉の手記
故郷が武蔵野と呼ばれているということをこの間初めて知った。武蔵野、と言われると小説や映画など様々に描かれてきた場所、というイメージがあるかもしれない。だが私は、武蔵野という地が様々に描かれてきた地であるということを、あまり意識したことはない。そもそも武蔵野という名は地元の人にとってはあまり馴染みのないものなのではないか。今はあまりその面影もないのでそれを感じるのは「トトロの森」くらいかと私は思う。里山風景の残るあの辺一帯は空気が気持ちいい。観光マップを広げて初めて歩いたときは
「ここにこんなところがあったのか」
と冒険でもしているように心を躍らせて歩いたのを覚えている。何度も行くと3度目くらいから冒険感は失せる。それでも綺麗なことには変わりないから、嫌々ながらも結局行ってしまう。そんな不思議な力を持っている。
唐突に思いついた故郷の里山風景を描くということ。だが、私にとっては故郷だからいい所があまり思いつかない。この風景を見て育った私にとってこの風景は普通なのだ。特別な風景と言うと、都会か田舎のどちらかがはっきりした場所をイメージしてしまう。隣の庭は青いということだろう。ここ、武蔵野と呼ばれる地域は特別良いとは思えないけれど、見ていると落ち着く、そんなところだ。
小学校の時に学んだこの辺り一帯の歴史は水はけが良すぎたが故の苦労話や、歩けば絶対に見える茶畑、冴えないものばかりでいつしか学校でこの町のいい所はと聞かれると、「無い」と満場一致で答えるほどだった。
でも中学校に入って、歴史から遠のき昭和という今に近い時代の様子の生き証人である先生に出会ってから考え方が変わった。(私は、だが)昔の姿は本当に映画の世界だった。冴えないのではなく、その里山の風景こそ守るべきだったのだと。
ある日、書店に並んだ一冊の本を見つけた。この町の書店だからか入口に入ってすぐに平積みで置かれていたその本は、先生から聞いたようなこの町の風景の写真が並ぶ本だった。私は目を奪われた。というか友達には言えなかったがこの辺り一帯の武蔵野と呼ばれる地域の風景はとても綺麗なのだ。
またある日、里山を再現した施設をみつけ訪れた。私はまたそこで思った。願わくば開発の始まる前のこの町を訪れたいと。そんなことを思い歩く町は何か様変わりしたようだった。かがやくようになった。普遍的でつまらなかった町が、特別で美しい町になった。
もともと居たという蛍を川に戻そうという取り組みや里山の風景を伝えるためという役割を果たしている「クロスケの家」。
校外学習で訪れた狭山湖周辺に残る里山に、
「冴えない」
と言っていた友達まで目を輝かせて言うのだ
「楽しかった。ああだったら良かったのに」
と。そんな見聞と比例して、
「この町の風景は元々とても美しい。そして普遍の中に人を魅了する不思議な力を持っている。」
そんな想いは私の心の中で大きくなっていった。普段なら平等を保つために消そうとしてしまう規模の思いだった。それでも消そうとは思わなかった。なぜなのかは分からないが解明しようとも思わなかった。ここにあるのは私のそういう想いだけなのだから、それでいいでは無いかとだけ思った。
そうして時は経ち私はこの町を離れざるをえなくなってしまった。だからその前にいつでも思い出すことができるようにと書いている。拙い文章だがこうして書く時間が私にとってはとても大事な時間なのだ。文章の内容よりも何よりもこの時間が私が1番欲しかった時間だ。書くことが辛くなった時に救ってくれたこの町と、晴れやかな気持ちの時に祝福してくれたこの町と、綺麗な景色を私に毎日見せてくれたこの町に、今いることが幸せの形なんだ。そう気付いてから、このまま時が止まってくれないかと思った。でもそれは嫌だなと笑った私は公園の隅のベンチから立ち上がる。一つ一つの動作に嬉しいような悲しいような気分になると、
「またいつか会う日まで」
と、一人ごちてここでの
白鶺鴒が畑をつつくのが見えた。
夏空の快晴は今も私たちを包んでいる。
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