011

「では、ごゆっくり……」


 リリエッタが茶を運んで去っていく。これからもうこの部屋に人は近づかないだろう。ノーンが不在のイリアルとしては《誰もここに来ない》というのを信じることしか出来ないのだが、怒りが頂点に達しそうな彼女にとってはどうでもよかった。

 厚かましくも出された茶を飲んでいるクレーム女に対して、イリアルは早速ノーンから借りている力を使った。このおこがましい女に遠慮なぞ不要だ。


 ――《悪夢の瞳ドリーミング・アイ》。


発動と同時に女はビクリと肩を震わせた。そして飲んでいた紅茶をカップごと落とす。彼女の高そうな洋服が汚れたが、今の彼女にはそんなことどうだってよかった。


「いっ、いやっ! 何よこれ!? 来ないで!」


 体の何もない場所を掴んでは離すような動作を繰り返す女。言っておくが彼女には何も付着していない。ソファをなぎ倒して装飾品を壊し、テーブルの上に登ったりと忙しい様子をイリアルは見ていた。その瞳は冷めている。


「いやぁ! やめて!!」


 必死に高いところを探して逃げている女。彼女の視点からはおぞましい光景が見えていた。部屋からはイリアルが消え、床いっぱいに蛇や、彼女の屋敷に住み着いて駆除対象だった小型の魔物がうぞうぞとうごめいている。

 そして彼女の身体にまとわりつき、足を這い背を伝い首に髪に頭に登っていく。ありもしないその気味の悪いものたちを払いながら、床から逃げようと本棚の上に乗ったりテーブルに乗ったりとしている。


「ひいっ」


 ドアまでに逃げようにも、床一面魔物や虫や蛇がひしめき合っている。今立っている本棚の上からそこに行くまでは、床を必ず経由しなければ行けそうにない。

彼女が天井を歩ければ別の話なのだが。

 だがこの本棚にも徐々に虫らが登り始める。飛んでこないだけマシか、それとも段々と蝕まれる安全地帯があるという恐怖か。


 女はふと机の上にペーパーナイフがあることに気付いた。この本棚からならば、飛べば取れるかもしれない。護身用にと手に入れるべきだと考えた。幸いまだ机の上は虫や蛇に侵食されていない。

扉からの突破は無理でも、机の後ろにある窓からなら逃げられるはずだ。

 そう思った女は深く考えることを捨てて、勢いよく机に飛んだ。するとどうだろう。女が移動したのを察知した虫たちは、本棚を登るのをやめて一斉に机へと向かい出す。本棚よりはるかに低い机を虫が囲うのは一瞬だった。

足から登ってくる虫や蛇に向けて、ペーパーナイフを振り回す女。虫など存在しないがゆえにただ自分の肉体を突き刺しているだけに過ぎない。

 だが幻の虫たちはどんどん上へと上がっていく。女も負けじと太ももを刺し、腹を刺し、胸、そして首に巻き付いた蛇の幻覚を刺した。


 幻覚は彼女が完全に事切れるまで続いた。彼女も力のある限り体中を滅多刺しにした。

ペーパーナイフを握った血だらけの女の死体と、最終的に部屋に残ったのはそれを静観するイリアルだった。


 命名をするなら死の演舞。実際は誰も襲ってすらいないのに幻覚に囚われた弱者は自らの命を断っていく。

 見ていて面白かったが、イリアルは悶々としていた。こんな方法ではなく自分の手で殺すべきだったのだ。殺すのが好きなのであって自殺させるのは趣味ではない。

 こんなイリアルがいる今晩は、スラムで適当な犯罪者が一人減ることだろう。


「それは食っていいのか?」


 声がしてそちらの方向を向けば、いつの間にかノーンが部屋に居た。屋敷にいた時の美女ではなく、いつものロリータファッションに身を包んだ少女の様相だ。

 ノーンは「食っていいのか」と聞きつつも、部屋に撒き散らかされた大量の血液は既に消え去っている。ノーンがもう既に《飲んだ》のだろう。

 荒れていた室内も綺麗サッパリ元通りになっていて、イリアルがぼんやりと死の演舞の余韻を愉しんでいる内に直したのだろう。ちゃっかりと部屋には防音魔法が掛かっているし、一体いつから来ていたことやら。


 イリアルの返事は貰えねど、ノーンは了承と解釈して死体に左手を近付けた。魂が吸収されていき、死体は灰と化した。


「ふむ。ごちそうさま」

「どーも」

「そういえばイリアルよ。あの元首席の小娘共だが――」


 イリアルは先程までの機嫌の悪さが嘘だったかのように笑った。彼女の中で面倒だった案件がひとつクリアしたのだ。

その微笑みの不気味さに、悪魔であるノーンですら引いた。

 ペトラという唯一面識のある少女を残した意味が、イリアルには理解できなかったが、この悪魔の考えなど理解したところで今後の人生の役に立つ訳でもない。早々に考えるのを諦めたイリアルは、ペトラという新たな従者が増えたという認識だけを頭に残した。


「契約を結んだのか?」

「いいや。いずれは考えているが、今はまだ不要だろう」


 ノーンが契約を考えているほど気に入っているようだ。となればイリアルが彼女を殺す理由がない。折角こんな関係になったのだから、いいように利用するだけだ。


「ところで、貴族女の処理はどうするのだ?」


 全て平らげてから問題提起するノーン。イリアルはハッと我に返り、殺してしまった女を思い出した。

その辺の冒険者や身寄りのないスラム街の犯罪者ならばまだしも、嫁いだばかりの、しかも貴族の女だ。それが行方不明などとなれば、大問題だ。

 イリアルは首のネックレス兼通信機器を起動した。通信相手はもちろんあのストーカー暗殺者である。もちろん、イリアルの手にかかればこの程度の貴族女を、世間から抹消することなど容易い。

しかし出来ればそれをせず、穏便に片付けるのがベストだろう。絶大な権力を有するイリアルとて、何でもかんでも力を振りかざすわけではないのだ。

ノーンは「やれやれ……」と頭を抱えた。

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