4.


「お帰りなさい」

 いつもの地下空間に戻ってきた少年を出迎えたのは、『代行者』である彼女だった。

 もはや驚きはしなかったが、少年は呆れてみせる。

「どこにも、姿を見ない、と思ったら……」

「現状把握さえできれば充分でしたしね。貴方はここへと戻ってくるとわかっていましたし、先に戻らせてもらいました」

「俺が、死んでたかも、しれないのに?」

「死ななかったでしょう。怪我はしているようですが」

 首を傾げる少年に、彼女は少年の口元を指差す。その時になってようやく唇を噛んでいたことに少年自身も気付いたようだ。口元を手で拭って、ああ、と声を出す。

「自分で、噛み切った。だから怪我では、ない」

「自傷行為ですから立派な怪我ですよ。まぁまぁ、そこに立ち続けるのも疲れるでしょう。いつもの場所でお休みになられては?」

 彼女に促され、何も言わずに少年はそれに従う。いつものようにベッドに腰掛けて息を吐き出せば、確かに自分は疲れているのだと少年も自覚することができた。

 暗闇の中で、目を閉じる。

 まだ瞼の裏側に、あの炎が揺れている。

「怒っているのですね」

 唯一の光源の下で、彼女は言う。

 すぐには答えられなかった。ゆっくりと瞼を持ち上げ、少年は口を開く。

「……俺は、怒って、いるのか?」

「貴方が今抱えている炎に私が名を付けるならば、怒りである、とお答えします」

「へぇ、そうか……これが、怒りか」

 少年は暗闇の中で自身の手を見下ろす。

 ――あの後、少年はあっさりと施設職員に回収された。

 おそらく現状確認の為に来たのだろう。車から降りた職員達は、廃屋の炎をただ見つめている少年の姿を見つけ、それぞれ苦々しい表情をした。まるで、一番処分しておきたかった子供の生存を確認してしまった、とでも言いたげに。

 そんな職員の中に、師匠である男の姿はなかった。故に、少年は抵抗せず素直に職員達に回収され、地下空間へと戻ったのだった。

 ぐっと、掌を握りしめる。

「……邪魔だな。こんな、感情なんて」

 握った拳が震えていることを、少年は自覚している。その震えがなかなか収まらない理由も、先程の彼女とのやり取りで理解した。


 それは、少年がおそらく生まれて初めて自覚した、自身の内側に芽生えた『怒り』という感情のせいだ。


 意識的に長く息を吐き出し、力を抜く。そのまま後ろへと倒れ込めば、背中側からスプリングが軋む聞き慣れた音が暗闇に響いた。

 と、ふいに彼女の声が少年へ投げられる。

「一つだけ、貴方に言っていないことがありました」

「…………何?」

 脱力したまま、のそりと顔だけを彼女へと向ける。

 唯一の灯りに照らし出されている彼女は、軽い口調で話し出した。

「私、本当は、この施設を壊すために来たのですよ」

「……。……あぁ……」

 わかっていた。

 何となくではあったが、そんなことだろうと予測はできていた。

 でなければ、説明がつかない。わざわざ、こんな場所に自分一人を殺す為に来る、その理由が。

 さして驚いた様子も見せない少年に、彼女は辛うじて見える口元で笑って見せた。

「やはり気付いていましたか」

「アンタ、本当は、俺を殺せるだろう。今すぐにでも。俺の未練が、どうとか、関係なしに」

「えぇ、そうですね」

 あっさりと彼女は肯定する。それからすぐに首を横に振った。

「あぁ、いえ、別に未練があるから殺してさしあげられない、というのは嘘ではないのですよ。それは本当です。貴方はこの施設内だけでなく、外にまで知られているぐらいに影響力が大きいですからね。下手に存在を消してしまうと、それこそ世界の秩序が歪みかねません」

「……そう、なのか?」

「この地下に半ば幽閉されていた貴方には自覚のないことでしょうが、そうなのです。名も無いというのに、通称名だけが一人歩きしてしまっている……それは、異常なことなのですよ」


 そう、異常だった。

 他者との交流を一切絶たれているというのに、少年という存在は、その筋に生きる者たちにはあまりにも有名だった。

 出会えば必ず死ぬ。いや、出会ったことすら認識できないままに死ぬ。まるで死神、いやいや、神ではなく鬼、完全無欠の殺人鬼。

そして、この鬼はどうやらあの施設の地下にいるらしい。存在そのものが凶器そのものであるかのような――『地下の凶器』。

 そんな風に、少年の通称名だけが広まって、一人歩きした。さらに不幸なことに、少年にはその通称名を補って継ぎ足せるほどの実力があった。人を、確実に的確に精密に、殺しきる実力だけが、少年にはあった。

 暗殺者としては度が過ぎている、暗殺者以上の存在。そう、まさに規格外。


 と、そんなことを言われたところで少年自身はいまいち実感がわかない。まるで他人事のように「へぇ」とだけ返事をする。

「確かに、今まで殺せ、と言われて、殺さなかった奴……殺鬼、以外は、いないな。でも、なんでアンタが、それを知ってるんだ」

「そうなのですよ。出会った瞬間に目撃者が死んでいるのならば、噂なんて出回るはずもなければ存在すら知られないまま、貴方は名無しのままにいなくなっているはずだったのです。世界を代行する私という『代行者』に、その存在を認知されることもなく……だというのに、貴方という存在は、拡大し、周りに影響を与えて、肥大した――まるで、人々に語り継がれる怪異のように」

 だからこそ。

 と、彼女は口元の笑みを消す。

「世界は、貴方が完全な怪異と成る前に、そして、無秩序な死神へと成る前に……貴方と、貴方を作り上げようとしているこの施設を、消すことを選んだのです」

 そうして、彼女が。

 『代行者』が、ここへと来た。

 少年はそれでもまだ他人事のような態度だった。暗闇から溜め息が聞こえる。

「アンタの話は、遠回りがすぎる。その、世界ってのが、一体何のことなのか、わからないけど」

 スプリングが軋む音がする。

 少年が身体を起こした音だった。 

「つまり、俺が、この施設の核、なんだろう。だから、俺と施設で、相打ちしろ……アンタは、そう言いたいんだろう」

 言い切られてしまって彼女はその口元に苦笑を浮かべる。

 まったくもって、その通りだった。彼女が返答に困っている間に、少年は勝手に言葉を続ける。

「いいよ」

 悩む素振りすらなかった。

 少年は言う。

「元から、そのつもりだったから、ここに戻ってきた。いいよ。相打ち、してやる。そのついでに、夜以外の空を見せてくれたら、俺に未練はない」


×××


 ――あねうえ様。

 思い出したのは、まだ幼かった頃の妹の姿だった。

 年の離れた、可愛い妹だった。何もかもが未熟で家の者から見放されてしまった、可哀想な妹だった。

 ――お前のせいでこの娘は死ぬだろう。

 そう言われた時のことも思い出した。

 自分は暗殺を稼業とする一族の長女だった。技術を磨く内に、死という概念に近付きすぎた。そして異常を、発症してしまっていた。そのせいで、愛おしいあの妹を、危うく、自分のせいで殺しかけた。

(私に巣くう異常は、あの人では消すことができなかった。だから、あの人は私の異常を背負って消えていった……妹は助かった。そして私が、あの人の代わりに、『代行者』になった)

 彼女はそっと、隠し持っている小刀へ意識を集中する。

(この少年は、あの頃の私よりも、異常だ。きっと、簡単には消すことができない。だから、私も……)


 静かに息を吐いて、彼女は布の奥で瞼を開ける。

 視線を向ければ、ちょうど少年が口を開いたところだった。

「アンタ、元はなんて、呼ばれてたんだ?」

 暗闇から唐突に問いが投げられる。

 彼女は苦笑する。

「名は棄てた、と最初にお伝えしたと思うのですが」

「アンタ、って呼ぶのが面倒。何か、ないのか」

「そう言われましてもですね……」

 それは少年にも当て嵌まるはずだが、そこには触れないでおく。彼女はほんの少し逡巡した後、口を開いた。

「……そうですね。昔は、闇裏と呼ばれていました」

「ヤミウラ?」

「棄てざるを得なかった一族の名ではありますが。まぁ、それでも良ければ、そう呼んでくださってもかまいません」

「ふぅん……じゃぁ、ヤミウラ」

 少年は呼びながら、立ち上がる。

「来るよ」

 数人が階段を降りてくる音は、彼女にも聞こえていた。

 彼女もゆっくりと立ち上がり、少年の邪魔にならないようにと照明の下から身を引く。足音は立ち止まり、ガチャン、と重々しい金属音が響き渡る。

 それが合図だった。

 鉄の扉が開かれると同時に、少年は暗闇から大きく一歩、飛び出しながら彼女が座っていた椅子の足を掴む。そして開ききった扉へと投げ込んだ。

 職員達の驚いた声がこちらまで聞こえてきた。間を置かず、少年も扉の向こうへと飛び込む。短い悲鳴が、一つ、二つ、三つ。

 それらが聞こえなくなってから、彼女はゆっくりと地下を出る。扉の外は、何をどうやったのか、三つの遺体が転がっていた。彼女はそれを目で追いながら、階段へと視線を見上げる。

 階段の上、地下から脱走した凶器が、白い照明を浴びながらに立っていた。

「行こうか。ヤミウラ」

 少年は笑った。




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