1.

 そこは暗闇に包まれていた。

 光の届かない、地下。おおよそ人が住むように整備されたわけでもない、部屋と呼んでいいのかもわからない空間に、その少年はいた。

 いた、と言っても、この暗闇では少年の姿を完全には視認できない。天井からは裸電球がぶら下げられているが、申し訳程度の光量しかなく、この場の全てを照らすにはあまりにも弱々しい。そんな中で少年は空間のさらに奥に居座っている為、顔はおろか、シルエットすらぼんやりとしている。

 しかし、少年からはこちらの姿がしっかりと見えているようだ。少年は声を発する。

「……見間違いでなければ、壁を通り抜けて、いたように、見えたんだけど」

 見間違いではない。

 実際に、彼女は壁を通り抜けて、この空間へと侵入を果たしたのだった。

 この地下の空間へと辿り着くには、本来ならば何重ものセキュリティを潜らなければならなかったのだが、そんなものは彼女にとっては関係がない。そこがたとえ牢獄であろうが、対象者がそこにいれば辿り着ける――それが彼女、『代行者』の特性であった。

 黒い布を頭から被っている彼女は、裸電球が辛うじて照らし出す位置へと進み出る。

「こんばんは。貴方が私の依頼者ですね」

 彼女がそう言えば、空間の奥、少年がいる辺りの空気が、僅かに揺れ動く。

「依頼? いや、俺はそんなもの、頼んだ覚えがない」

「それでも貴方が私の依頼者なのです。私がここにいるということは」

「……アンタ、誰?」

 少年の声に不信感が混じる。

 彼女はこの空間唯一の照明の下で、にこりと口元に笑みを浮かべた。

「世界を代行して貴方に死を与える者ですよ。生憎、名乗れる名は棄ててしまったので、ただ『代行者』と、呼んで頂ければ」

 そんな彼女の言葉に、少年の声は、今度は呆気にとられたかのように軽くなっていた。

「へぇ、そう。俺も、名前がないんだ」


×××


 暗殺者教育施設、とそこは呼ばれていた。

 その名の通り、暗殺者を作り上げるための教育をする施設である。教育を受けるのは年端もいかない子供が大半であり、施設職員に回収されたり拉致されたりして集められている。中には、親から直々に施設へ売り飛ばされる者もいるのだとか。

 少年はそんな施設の中において、一際異彩を放つ存在だった。


(黒い、な……)

 数日ぶりに連れ出された外の光景に、少年はぼんやりと空を見上げながらに考える。

 少年が外に連れ出される時間帯は決まって真夜中のため、暗い色の空しか少年は知らない。おまけに、今日は雲が厚く、月も星も見えないようで、夜空は黒一色に塗り潰されている。

 興味を無くして手元を見下ろした。そこには一本のナイフがある。それを掌の上でクルクルと回して遊びつつ、今度は視線を前方へと向けた。


 向こうから、こちらへと歩いてくる人影が一つ。


 ナイフで遊ぶのを止め、少年はゆらりと立ち上がる。

 身に纏う空気すら振動させないかのような、静かすぎる立ち上がり方だった。そしてそのまま、空気の一部になったかのように気配を消し切り、ゆらゆらと歩き出す。

 人影は、少年に気付かない。

 こんな時間帯に、こんな何もない路地で、子供に合うはずもないというのに。人影は怪しむ様子もなく速度も落とさず歩いてくる。

 そうして人影が少年に気付いたのは、少年が目の前に来てようやく、だった。

 この瞬間になるまで少年にまったく気付かなかった、とでも言うかのように、相手はギョッとした顔を少年へと向ける。


 が、視認できたのはそこまでだった。

 自身に何が起きたのかわからないままに、相手はその瞬間には、絶命していた。


 少年が横を通り過ぎた、後。唐突に足から崩れ倒れた相手の、首が路地へと転がっていく。首から勢いよく吹き出した鮮血は道を染めていき、あっという間に紅い絨毯が出来上がる。

 その返り血すらも浴びずに仕事を終えた少年は、背後の光景などすでに興味は失せた様子で、またぼんやりと空を見上げていた。

「せめて、月が出ていれば、良かったのに」

 何の面白味もない空へ向かって、文句を言うように呟いた。


×××


 行きと同じように車に詰め込まれ、少年が施設の地下へと戻ってきたのは、僅か1時間後のことだった。

 夜明けすら待たせてもらえずにいつもの地下へと放り込まれ、重々しい音を立てて閉じられる鉄の扉をただ眺める。完全に施錠されて人の気配が遠ざかったのを肌で感じながら、少年はやれやれと息を吐いて扉から背を向けた。

「あら、お帰りなさいませ」

「うわ、まだいた」

 部屋の中央部分。照明の真下に、当たり前のように黒い布を被った彼女がいる。さらにはどこから持ってきたのか、小さな椅子を持ち込んで勝手に寛いでいた。

 少年は一度、鉄の扉を振り返る。そして再度、彼女を観察する。

「アンタ、もしかして、俺にしか、見えていないのか?」

「貴方をここへと放り込んだ先程の方々が私にまったく気付かなかったところを見ると、そうなのでしょうね」

「……幻覚?」

「貴方がそう思いたいのであれば」

「……。……よく、わからないことばかり、言うんだな、アンタ」

 肩を落とし、少年は彼女の脇を横切って空間の奥へ。いつもの定位置へと向かう。ギシリ、と僅かにスプリングが軋む音がした。どうやらそこにベッドがあるようだ。

 彼女は口元しか見えない顔を、少年がいる方向へと向ける。

「貴方がいない間にザッとこの施設を見回してきましたが、上にいるのは子供か職員の姿ばかり……貴方だけ、なぜこんな地下に?」

「本当に俺にしか、見えてないのか、アンタ……さぁ。なんでここなのか、俺が聞きたいぐらいだよ」

「理由を知らない、と?」

「覚えている限り、俺はずっとここにいる。たぶん、理由を知ってるのは、俺の師匠ぐらいだ。師匠に聞けば?」

「そうは言われましても、私がこの施設内で会話ができるほどに認識されるのは、どうやら貴方だけのようでして」

「……アンタ、本当になんなんだ?」

「代行者ですよ」

「代行者……」

 少年が溜め息を吐いたのか、空気が揺れる。ギシリ、と再びスプリングの軋む音が聞こえた。ベッドに寝転がったのだろうか。

「アンタ、俺を殺すようなこと、言ってたから、少し期待してたのに。いつになったら、その気になるんだ?」

「それがですね、そう簡単には貴方に死を与えられないようでして。というのも、私が行うのはただの殺人でなく、世界を代行した消去、ですから」

「消去……? どういうこと」

 少年の問いに、彼女はすぐには答えなかった。

 腕を組み、うーん、と唸る。どういう表現を使えば少年に伝わるのか、暫し思考を巡らせてから、彼女は口を開く。

「私が行う殺しとは、世界にとっての浄化作業に該当するのです。そのままに在っては世界が歪んでしまうため、そうならないように、世界を代行して異常の核を消し去る……それが、私の役目でして。ですが、一度世界に発生してしまった者は何かしらの痕跡を必ず残してしまうもの。それを唐突に何の処理も無く消し去ってしまっては、残された痕跡がやがて疵になって、余計に世界が歪む原因になるのです」

「……えっと……つまり?」

「つまりは、貴方がこの世界に何の未練もなくなった時に初めて、私は貴方を死へ導けるということです!」

 最後は口元で笑みを作り、勢いで言い切った。

 途中から説明を半ば諦めていた彼女だったが、なんとか重要な部分は少年に伝わったようだ。三度目のスプリングが軋む音がし、今度は身体を起こした様だ。

「……俺が、何か、未練を持っている、ってこと?」

「はい。そういうことになりますね」

「へぇ……未練……」

 少年は暫く声を発しなかった。

 数秒が経ち、数分が経ち。

 のそりと暗闇の空気が揺れたかと思えば、少年はいつの間にか、彼女の目の前――弱々しい光量しか発さない照明の下へと、姿を晒していた。

「空を、見たい」

 まだ幼さが残る顔立ちをした少年だった。

 全身黒色の服に加え、髪も黒く。長く伸びた前髪は表情を隠しており、辛うじて見える右目は、深淵のような漆黒で。

 その光すら吸い込むような瞳で、少年は椅子に座っている彼女を見下ろす。

「ずっと、夜の空しか、見たことがない。だから、夜以外の空を、見てみたい」

「……それが、貴方の未練ですか」

「俺が今、やりたいことなんて、それぐらいしかない」

「なるほど。それはつまり……結果として、貴方をこの施設から出す、ということになりそうですね……」


 彼女は座ったままに少年を見上げる。

 布の奥、それまで影になって見えていなかった紅い瞳が、少年へと笑いかけていた。

「――いいでしょう。貴方が望む空を見られるよう、『代行者』として貴方の依頼を承りましょう。ふふ、これでようやく、ちゃんとした依頼者になりましたね」


 少年は呆れたように右目を細めた。

「なんだ、やっぱり俺、依頼なんて、してなかったじゃん」


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