夏の出来事
伊土恵斗
夏の出来事
「............暑い」
じわりと吹き出る汗が気持ち悪くて、目を覚ました。
もう夏真っ盛りだというのに、蝉の鳴き声すら聞こえない。それもそのはず、壁に掛かっている時計に目をやると、まだ始発電車すらも動いていない時間だった。
もう一眠りしようと、そう決めた時。
ーーカッ、カッ、カッ。
一定のリズムで、窓の外から何かがぶつかり合うような音が聞こえてくる。
「なんだよ、一体」
カーテンを開けて音の根源を探る。
「え、あれ、いやそんな」
どうやら、僕は相当に寝ぼけているらしい。寝起きなのだ。頭が働いていないのだ。だからきっと、青いドレスを着た女の子がこんな時間に町を彷徨いているなんて事が、あるはずがない。
目を擦って、もう一度窓の外を見る。今度は、見間違いじゃ無かった。あろうことか彼女は、僕の方をじっと見つめて視線を逸らさない。
すると次の瞬間、ちょいちょい、と彼女は僕に向かって手招きをする。
気がつけば僕は、玄関で靴を履いていた。
行かなければならない、というか、行かないと後悔すると、そんな気がして。
「おはようございます。とてもいい朝ですね」
「......朝というか、夜中ってほうがしっくりくるよ」
あっさりと会話が始まった事に自分でも驚いた。
「こんな時間になにをしているの?」
「......海を、見に行くんです」
海なんていつだって見に行けるじゃないか、と言おうとして。僕は口を結ぶ。
彼女の表情が、とても切なく見えて、僕は言葉を口に出す事が出来なくなった。
やっとの思いで絞り出した一言が、
「なら、僕も一緒に行ってもいい?」
彼女は口には出さず、小さく頷く。
自転車を漕ぐことにした。二人乗りだ。前が僕で、後ろに彼女。
悪いことなのは分かっているけれど、こんな人気のない時間に誰かに気づかれる心配もないだろう。
「私、自転車に乗るの初めてです」
「初めて乗ってみて、どんな気分?」
「......楽しい。凄く楽しいです」
「それは良かった」
ドレスのスカートが捲れないように気をつけて、とだけ言って、後はしばらく無言の時間が続く。
時々、彼女がいなくなってしまったのではないかと心配になるが、その度に背中に伝わる体温がそれを否定してくれた。
「疲れてない?」
「よゆうです」
それから二時間程自転車を漕ぎ続けると、浜辺に着いた。
「......海。きれい」
感激の最中にいる彼女を下ろし、近くに自転車を止める。
「海も初めて来たの?」
なんとなくだけど、そんな気がした。
「いえ。海に来るのは、二度目です」
「......そっか」
一度目は誰と? なんて、質問をしようとして辞めた。どうしてそんな質問をしようとしたのかは分からない。
「死んでしまった祖父が、一度だけ連れてきてくれたんです」
聞いてもいないのに、彼女は語り始める。
「わたしの家はその、なんて言うか、お金持ちな上に両親が過保護なもので。滅多に外出も出来ないんです」
なんとなく、分かっていた。彼女が普通ではないこと。彼女が一般人とは違う世界に生きていること。着ている物からして、そういうことなんだ、と。
「だから、私は今日こっそりと家を抜け出して、海に来たんです」
気がつけば、彼女の目には涙が浮かび上がっていた。
「海に来れば、また祖父と......おじいちゃんと、会えるかもしれないって......」
彼女は、膝から崩れ落ちるように砂浜に尻をつける。
僕は、彼女になにを言えるだろう。なにを言ってあげられるだろう。
いや。今日初めて会った僕なんかが言えることなんて、あるはずがない。
「その格好じゃ冷えるよ」
僕は羽織っていたコートをじっと座り込む彼女にかけて、その場から立ち退いた。
浜辺とはいえ都会だ。近くを探せばコンビニの一軒くらいあるだろう。
少し歩いた所で見つけたコンビニでコーヒーを買った。
「熱っ......!」
一口飲んで、たまらず叫ぶ。
この熱が、今日の出来事を現実だと教えてくれる。
浜辺に戻ると、そこに彼女の姿はなかった。
帰ったのだろうか、と一瞬考えたものの、自転車は置いてある。
自転車で二時間。彼女の家からならもっと長いかもしれない。歩くには少しばかり遠すぎる距離だ。
「......ぉ」
遠くから、叫ぶような声が聞こえる。
「ーーどこに、どこにいるの......!」
彼女だった。青いドレスを着た、浜辺に座っていたはずの彼女だった。
次の瞬間、僕と彼女の目が合う。
彼女は走って僕の方へと向かってくる。不慣れなのか、それとも服装が走りづらいのか。きっとその両方で、彼女は何度も転びそうになりながら、僕のところにまでやってくる。
目の前まで来ると、荒い息遣いが鮮明に聞こえてきた。
「どうして......」
「え?」
「どうして、黙ってどこかに行っちゃうんですか!」
「いや、コンビニに......」
汗なのか、涙なのか、彼女の顔は酷く濡れていて見るに耐えない姿に変わっていた。
「もう、嫌なんです......」
振り絞るように、彼女は言う。
「もう、置いていかれるのは嫌なんです......!」
心からの叫びだと、言われなくても分かった。
「ーー置いてなんて、いかないよ」
「......え?」
「置いていくわけがない。僕は今、凄く楽しいんだ。誰かと自転車に二人乗りをしたのも初めてだし、こんな時間に海に来たのだって初めてだ。君のおかげで、僕は今ここにいるんだから。君が今日、僕の家の前を通りがからなければ、僕はこの楽しさを知らないままでいた。だから、君を置いていく事は、絶対にしない」
「......絶対に、絶対ですか?」
「神に誓ってもいいよ」
「私は、わた、しは......」
肩を、借りてもいいですか? と聞かれて、即座に頷いた。
「あ、ああああぁぁ......!」
左肩が、濡れていく。服の上からでも、濡れた感触が伝わる。
彼女がこれでふっ切れると言うのであれば、喜んでいくらでも肩を貸すだろう。
何分でも、何時間でも。
しばらくして、彼女は泣き止んだ。
「あの、ごめんなさい。恥ずかしい所をお見せして」
「いまさらって感じだな」
「もう。どうしてそんな意地悪を言うんですかっ」
頬を膨らました顔が、やけに愛おしい。
涙が乾いて、目の周りには跡ができている。
「約束、しましたからね! 絶対に置いていかないって」
「もちろん」
それから僕たちは、意味のない会話をした。友達同士がするような、時間だけを潰すための会話を。
「......そろそろ帰らないと、家を抜け出てきた事が両親に見つかったらなんて言われるか」
「確かに。じゃあ、また二人乗りだね」
朝日が出たころ、僕たちは家に向かって漕ぎ出した。
それからまた二時間。
後半は、疲れからか、それとも。というか多分、家につけば彼女とはお別れだから、自然と足の回転が遅くなった。
「ここまででいいですよ。後は自分で帰れますから」
「分かった」
僕の家の前まで来ると、彼女はそう言った。
「今日は、ありがとうございました。絶対に、この日のことは忘れません」
「僕だって、僕だって忘れるもんか!」
柄にもなく叫んだ。
感情がやけに抑えられない。
そして去っていく彼女の背中が見えなくなるまで、その場で立ち尽くした。
家に帰ると、母がもう起きて、リビングにいた。
「あんた、どこ行ってたのよ」
「まあ、ちょっとね」
今日の出来事を誰かに話す気には到底なれない。
「疲れたから寝る」
そう言って、自分の部屋に戻る。
そういえば、彼女に名前を聞くのを忘れていた。
ーーまあ、いいか。
きっとまたその内会えると、根拠のない自信があった。
ーーだって、この感情に名前を付けるとしたら。
夏の出来事 伊土恵斗 @masakano_sinnya
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