第11話


 翌日の昼過ぎ。サルヴァは昼食を持って、いつもどおり山を登った。いるだろうかと淡い期待を抱いていたが、近道の最後である低い岩壁に上がったサルヴァは、「だよなぁ」と声を漏らした。

 ひらけた視界に、人の姿はない。ここ最近では見慣れてしまった、慣れたくはない景色だ。

 サルヴァは草地を進んで、崩れた外壁の残骸に腰をかける。隣にただ立つ石柱を見上げて、そこに座っていたニーシャの姿を重ねた。

 持ってきたサンドイッチにかぶり付きながらサルヴァは眼下の町を見下ろして、『カラルア』があるだろう方向へ視線をずらした。ここからでは当然見えないが、サルヴァはそのまま視線をとどめる。

 封蝋は、ニーシャの手に渡っただろうか。

 ニーシャの母親に預けた紙包みの中身はセリュハで購入したまま渡しそびれていたものだ。陽が沈み始めるにはまだ時間があったことから店をいろいろと見て回り、そのなかの小さな雑貨屋で、手作りの小物や文房具を見ていた時だ。少し離れてしまった距離に気づき、ニーシャの方に目を向けると、彼女が商品の並ぶ台に何かを戻すところだった。その時の手付きが、どこか迷うようにぎこちなくて。だから、ニーシャが別の棚を見ている時に、その『何か』を確認して、仕事仲間への土産に紛れ込ませて買ったのだ。

 ――と、そこまでを思い返したところで、サルヴァは昼食を食べる手を止めた。


(……いきなり告白したあげく、返事をもらってないのに物を贈るって……重い、よな)


 はあぁ、と盛大なため息と共に片手で顔を覆う。

 やってしまった。最近反省したところだろいうのに。


「俺は鳥頭か……――ん?」


 その時、視界の端に草の緑でも岩の灰色でもない色が入った。外壁の側面、サルヴァが腰かける長辺部分ではなく、短辺側。伸びた草に隠されて見えづらいが、側面に立てかけられている何かがはみ出ていた。

……『何か』じゃない。見覚えがあった。

――レターボックスだ。

 サルヴァは弾かれるように立ち上がると、それをひっつかんだ。が、慌ててすぐに丁寧に持ち直す。そして、そっと蓋を外した。

 中を見た瞬間、サルヴァの顔に安堵と嬉しさの混ざった表情が浮かんた。

 ふわりと、優しく甘い香りがかすかに空気を伝う。丘一面に咲いていた白い花の香り。

 臙脂色の封蝋が封じ目を塞いでいた。


「使ってくれたんだな……」


 サルヴァは紙を破かないよう、慎重に封蝋を剥がす。そして封筒の中から二つに折りたたまれた手紙を取り出して開き、ほぼ真っ白な便せんの、その真ん中を見つめた。



 ――夜、待ってる。



 そう、一言だけ書かれていた。

 いつの夜とは書いていないが、きっといつでもいいのだ。毎夜、彼女はサルヴァが来るまでここで待つつもりでいる。何故かそう思えてしまう。そして、あながち外れてはいないだろう。

 きれいで、繊細な文字。しかし前もらった手紙の字より、線が走っていた。

 サルヴァは最後にもう一度だけ綴られた言葉を目でなぞってから、封筒へしまった。


「……よしっ、戻るか」


 残っていたサンドイッチを一気に頬張る。少しでも早く仕事を終わらせるために、サルヴァはその場をあとにした。 

 そうして、その日の夜。サルヴァは薄月の淡い光の下、灯りを手に再び山へ足を運んだ。

 山道に沿って進み、木々の囲いから抜け出たサルヴァの視線の先で、ぼんやりとした橙色が灯っている。ああ、とサルヴァの口から吐息混じりの声がこぼれた。

 崩れた外壁の塊の上で、仄かに灯るランタンが一つ。そのそばで、ランタンの火に照らされる人影があった。

 夜だからか、それとも別の理由か。石柱に上っていないその背中に、サルヴァは歩み寄る。


「ニーシャ」


 呼びかけに振り向いた彼女の肩から、するりと髪の毛が流れ落ちた。


「……サルヴァ」


 久しぶりの声だ。

 ニーシャの、ほっとしたような、けれど少し緊張した様子には触れず、サルヴァは外壁の前に回るとニーシャの隣に腰かけた。

 少しの間をあけて、ニーシャが言う。


「……来てくれて、ありがとう」


 当然だろ、と口にしかけた言葉を飲み込んで、サルヴァは「うん」と短く返した。

 ニーシャが続ける。


「封蝋、ありがとう。嬉しかった」

「こっちこそ、使ってくれてよかった。いい香りだな」

「ええ。あの丘にいるみたいだった」

「だな。俺も、あの景色を思い出したよ」

「……私も」


 そこで会話が途切れた。ふたりの間に沈黙が落ちる。この場所で、ぎこちない空気が満ちる時間は初めてだった。

 サルヴァはニーシャを見る。下から淡い火の光に照らされた横顔はひどくきれいで、そして何かを葛藤しているように苦しそうだった。はっきりと表情に出ているわけではないが、伏し目がちなその目が、揺らいでいるように見える。

 サルヴァはニーシャから黒々と広がる海へ視線を向けて、尋ねる。


「……何かあったか?」

「――、」


 言葉に詰まる気配を感じた。不自然な間があく。ほんのかすかに漏れる吐息で、話の接ぎ穂を探していることがわかった。

 サルヴァは眉を下げて、ふっと口元で笑った。続けて、「俺もさ、」と話し始める。


「セリュハから帰ってから、何か力になれないかと思って調べたんだ。前に、噂を聞いたことがあってさ。怪しい動きをしてる商会があるって話を思い出して、関係あるかわからなかったけど、とりあえずその噂について当たってみたんだ」


 サルヴァは、得た情報について話す。パトグ商会のこと、噂されているのはそこの子息であること。そして、ある装飾店と取引をしているということ。


「ニーシャに関係しているのか。それを確かめに、一昨日カラルアに行ったんだ。一応、封蝋も持って、な」


 そして、もう一つ得た情報があった。


「――ニーシャ。パトグの息子と、婚約してるんだよな」


 つい数時間前にセンダから聞いたばかりの内容は「パトグの息子が取引先の娘と婚約してるらしい」という曖昧なものだったが、その相手が誰かは考えるまでもなかった。


「っ、ごめんなさ……っ」

「えっ、あ、ちがうちがう! ごめん、責めてるわけじゃない。確認な。状況把握のために」


 泣いてしまったのかと思うほどに震えた声と怯えた表情に、サルヴァは慌てて弁明した。ニーシャは少しほっとした様子で、それでも弱々しい声のまま「……状況把握……?」と繰り返した。

 サルヴァは意識して声色をやわらげ、語りかけるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「セリュハで話してくれただろ? ソレイスを広めていくために、商家と契約しているけど、望んだようにはいかないかもしれないって。俺も話を聞いて、白ではないと思った。……だから、その契約がパトグだってことは、パトグは……ジルゲンは、婚約者の夢とか思いを、傷付けてるってことで。それはつまり、ニーシャの大事な物を汚して、辛い思いをさせて、苦しめてるってことだ」


 声に力が入る。まだ証拠なんてない、いわばただの想像に過ぎないのだ。偏った思考、固まった視点では、正しい判断や認識ができなくなってしまう。それでも、数個とは言え不審な点が重なっていて、何もないわけがないのだ。

 サルヴァは一呼吸おいてから、ニーシャの目をまっすぐに見つめた。「だから、もう一回聞くな」そう一言告げて、懇願を込めて言葉にする。


「ニーシャ。何かあったか?」


 ランタンに淡く照らされた翠色の瞳が、陽炎のように揺らぐ。揺らいで、一瞬で瞼に隠された。眉が歪み、目は閉ざされ、唇が噛みしめられる。ニーシャの頭が下がっていった。


「どうすればいいのか、わからない……っ」


 か細い声が、内側から湧き上がるものを耐えるかのように震えている。


「このまま何もしなかったら、ソレイスはきっと、特定の契約先にしか流れない。だけど、」


 顔を上げたニーシャの目から、涙が滑り落ちる。濡れる双眸はまるで荒れた海のようで、悔しさと絶望と苦しみが綯い交ぜになった、激しい色を浮かべていた。


「……だけど……っ、何か行動に移してもソレイスから未来が消えてしまう! そうすることは簡単だと、あの人は……!」

「……ニーシャ」

「自分で決めたことなのに、どうしたらいいかわからないの……っ」

「ニーシャ」


 濡れる頬に手を添えた。頬から耳元にかけて差し込んだ指の間に、さらさらとした髪の毛が通る。

 水気を帯びてランタンの灯を反射する瞳が、弱々しくサルヴァを見上げていた。

 サルヴァの胸に再び大きな感情が広がる。守りたい。その想いが指の先まで染み渡る。


「……ニーシャ。俺が、あの丘で言ったこと覚えてるか?」


 視線の先で、彼女の瞬きと共に涙が頬を伝った。


「あの言葉は、今でも変わってないからな」

「……っ」


 水波のように、透明な水がニーシャの目の縁で揺らぎ、嵩を増す。

 声になっていない音が、いいの、と問う。サルヴァは添える手をそのままに、濡れている柔らかな頬を親指で拭った。

 返す言葉は、決まっている。


「……俺を呼んで、ニーシャ」


 瞬間、ニーシャがくしゃりと眉を下げ、とめどない大粒の涙をこぼす。

 そして、唇を震わせた。


「――……ったすけて、サルヴァ……!」


 泣き叫ぶ寸前の声で、やっと聞けた言葉。

 サルヴァはニーシャの頬に添える手を後頭部に滑らせると、彼女を引き寄せた。肩口がしっとりと水気を含んでいく。細い指先が、縋るようにサルヴァの服を握った。

 ぐ、と熱い気持ちがサルヴァの胸に溜まる。


「――まかせろ」


 サルヴァは細い背中に腕を回して、ゆっくりと、強く抱き締めた。



 ***



「で? 話ってなんだ」


 執務机ではなく、応接テーブルを挟んでソファに腰を落ち着けている兄――イザルの向かいに、サルヴァは座った。


「シーサに行きたい」

「……シーサぁ? そんなとこになんの用があんだ」


 怪訝な顔でイザルが背もたれに肘を乗せる。その拍子に、襟足から肩口へ垂れる一つ結びの髪が揺れた。

 サルヴァがニーシャと話をしてから、二日が経っていた。あの後、ジルゲンがシーサに行くことを仄めかしていたこと、そして戻ってくるだろう約一カ月後にジルゲンが入籍を済ませるつもりだということを聞いた。つまり、現状を打開する機会はこの一カ月の間に掴むしかないのだ。

 だからサルヴァは、この二日間さらに必要な情報を集めつつ、取引で航海に出ていた兄の帰りを待っていた。

 シーサまでは片道十数日かかるため、仕事を長くあけることになる。ましてや事情が事情であるため、どちらにせよ許可を得るべきだった。


「少し、調べたいことがあるんだ」

「…………あぁ? おいちょっと待て、サルヴァ。詳しく説明しろ」


 背もたれから体を浮かし両膝に左右の肘を乗せたイザルが、桔梗色の目を鋭くさせてサルヴァを射貫く。その眼光の鋭さに、サルヴァは苦笑した。相変わらず、男くさくない見た目に反して柄が悪い。


「そんな睨まなくても、ちゃんと話すつもりだったって」


 そう言って、サルヴァは今までのことを掻い摘まんで話した。

 表情を変えずに聞いていたイザルだったが、パトグ家の息子について口にした時は呆れと嫌悪感が混ざったような表情を浮かべ、ソレイスの名を出したときは、やはり存在を知らなかったようで、興味深そうに反応していた。そうして二日前にニーシャの口から知らされた内容を最後にサルヴァは一度口を閉じ、理由へ繋げた。


「だから、ジルゲンの動きを調べるために、直接シーサに行きたいんだ」

「……事情は、わかった。パトグのアホ息子は、たしかに後ろ暗いことをやりかねないやつだしな」


 そう言って考え込むように黙すイザルを、サルヴァは緊張した面持ちで見つめた。

 少しして、イザルが「許可する」と答えた。


「――ありが、」

「ただし」


 凜とした声に、サルヴァは言葉を止める。兄としてではなく、商会を担う片翼の立場として話をしているとわかった。


「サルヴァ。おまえは調べるだけだ。前に出て行くことは許さない。おまえ、その子のこと好きだろ」

「えっ」

「わかりやすすぎる。てことは、一番の目的がどうであれ、やろうとしてることは横恋慕みたいなもんだ」


 否定をしようにもできない。その望みを少しも期待していないわけではなかった。


「それを、ディジットの名前を顔面に引っ提げてるおまえが堂々と前に出てやるのは不都合だ。『ディジット』に傷を付けかねねぇ」

「……ああ」

「個人的にはガンガンやってやれって思うけどな。だが好意的に取ってもらえるとは限らない。『仕事』以外の理由で、俺や親父が商会の名前を使って矢面に立つわけにもいかない。……ま、今の時点ではな」


 付け足された言葉に、サルヴァは目を瞬かせた。こちらを見るイザルの目が、商会に降るかも知れない厄介事を案じているようには見えない。むしろ、どこか愉快そうに傍観するときのそれだ。

 総合して考えるまでもなく、『おまえの調査の結果次第だ』と暗に言っている。

 サルヴァは長い息を吐き出してから、気が抜けたように笑った。


「ありがと、兄さん」

「ったく、シャキッとしろ。こっからだろうが」


 呆れたまなざしに、サルヴァは口角を上げる。実際にシーサに行ってみないことには予測を立てられないことだらけだが、それだけだ。兄に話をすることに対しての緊張はあったが、それ以外に不安や漠然とした焦りは一切ない。


「大丈夫。うまくやる」


 ヘマをするような余裕はないのだ。

 サルヴァの声色や顔付きからそれを感じ取ったらしいイザルが、くっと喉で笑ってから満足そうに背もたれに体を預けた。


「シーサ経由の船なら一時間後にあったはずだ。それで行ってこい」

「えっ、いや行きたいけど、カナンさんとセンダさんに無断で仕事丸投げするわけには……」

「俺から言っとく。事務処理も、カナンにやらせときゃ大丈夫だろ」

「その言い方、カナンさんに怒られるぞ……」


 顔を引きつらせて指摘するも、「慣れてる」の短い一言で片付けられる。次いで、サルヴァへ呆れたまなざしを向けてきた。


「時間ねぇのわかってんの、おまえ。実際にシーサに滞在できる時間は一ヶ月の半分もねぇんだぞ」

「わかってるよ。今日、出る」


 サルヴァはソファから立ち上がって、イザルへ頭を下げる。


「兄さん、ありがとう」

「おう」


 すでにしたり顔で愉快そうに笑う兄に背中を押されるように、サルヴァはその日の最終便でシーサへ出発したのだった。

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