第8話


 サルヴァは昼食のキッシュを頬張りながら、めずらしく後から来たニーシャを出迎えた。


「お、よかった。会えた」


 朝でも昼でも、いつもサルヴァが着く頃にはすでに石柱の上にいるため、今日は会えないかと諦めていたのだ。思わずこぼれた素直な言葉に、サルヴァの隣に座ったニーシャが首を傾げる。


「何かあった?」

「あー、提案というか……お誘い、なんだけどさ」

「お誘い?」


 ぱちり、と瞬きをするニーシャにうなずいたサルヴァは、残りのキッシュを口に投げ入れて食べきると、ごくりと喉を鳴らした。キッシュと一緒に緊張を飲み込む。


「……今度、二人で出掛けないか?」

「え……」


 少し目を見開いたニーシャに、「いや、なんていうか」と言い訳をするように早口で続ける。


「知り合いに、景色のきれいな町があるって聞いてさ。セリュハって町なんだけど、近いから一日あれば行って帰って来れるし。ニーシャ、しばらく海に出てないって言ってただろ? ……一緒に船に乗って、海も、その景色も見たいなと思ったんだ」


 そこで言葉を切って、サルヴァは緊張を誤魔化すように後頭部を掻きながら顔を正面へそらす。それから、反応のないニーシャをうかがって、「……どうだ?」と問いかけた。

 数拍おいて、ニーシャが小さく息を吸ってゆるりと表情をやわらげた。


「……素敵」

「ほんとか」

「ええ。行きたい、あなたと」


 薄くほほ笑みながらの返事に、サルヴァは思わず安堵し相好を崩した。


「じゃあ、さっそく予定を組もう」

「お休みの日、合うかしら」

「そこだよなぁ。とりあえず五日後は休みだな、俺」


 ニーシャが、ふふ、と笑った。


「すごい。私も同じ」

「ははっ、あっという間に決まったな。じゃあ、その日にしよう」

「ええ。出発は朝?」


 その問いに、サルヴァは考えていた予定を脳内で確認してから答える。


「昼前、かな。船で一時間くらいだから、着いたら昼飯にしよう。それでいいか?」

「ええ。……ふふっ、楽しみ」

「だな」


 控え目だがそれでも弾んでいるニーシャの声色に、サルヴァの声にも喜色が滲んだ。わずかに期待と喜びを乗せて笑むその横顔を、サルヴァは見たかったのだ。出掛けるまでもなくそれは叶ってしまったが、まだ満足することはなかった。


(もっと見たい)


 サルヴァの視線に気づいたニーシャが振り向いて、楽しげに片目を細めて笑った。

 五日後が、明日になればいい。

 サルヴァは、歯を見せて笑いながら、そう思った。



 ***



 五日はあっという間だった。その日の前後に外から戻る船もなく、休みを返上してまでしなければいけない処理もなかったため、何事もなくその日を迎えられた。

 天気は良好、青い空には雲一つない快晴だった。

 待ち合わせ場所として指定した船着き場で、サルヴァは空と海の青色を眺めていた。その肩を後ろからトントンと叩かれて振り向くと果たして待ち人がいた。


「はよ、ニーシャ」

「おはよう、サルヴァ。待たせちゃった?」

「ぜんぜん。さっき着いたから、丁度よかったな」


 現れたニーシャは、白のワンピースにベージュ色の半袖の上着を羽織っている。足下は、上着と同じ色の丈の短いブーツだ。

 普段とは違う、まさに『お出かけ用』といった服装に、サルヴァの頬が自然と緩む。


「かわいいな。そういう格好、初めて見た」

「……ありがとう。サルヴァも、かっこいいわ」


 少し小さくなったニーシャの声に、不思議に思ったサルヴァは一拍おいてから顔を覆った。本音が脳から直接滑り出ている。いつかと同じように、顔が熱くなった。


「…………ごめん、またやった」

「あなたが先に言ったのよ」


 頬を薄く染めて、それでもおかしそうに眉を下げるニーシャに、サルヴァは、うぐっと声を詰まらせた。反論ができないというよりは、いつもよりどこか砕けた雰囲気の彼女に動揺してしまう。それこそ、破壊力がすごかった。

 まだ町から出てすらいないのに、この調子だ。


(……しっかりしろ、俺……)


 サルヴァは、気を取り直すように息を吸った。


「よし、船に乗るか」

「ふふっ……、そうね。二人でそわそわしてて、目の前で出港してしまったら困るもの」

「それは嫌だ。早く乗ろう、ニーシャ」


 おどけて言うと、ニーシャがさらにくすくすと笑う。サルヴァも、ははっと声を上げて笑った。わけもなく楽しかった。

 複数の島を循環している中型の定期船に乗り込んだ二人は、甲板を進み、欄干から海とその先を眺める。

 足の下で、波が船をゆったりと揺らす。

 久しぶりだ。サルヴァは高揚する心のままに、口角を上げた。

 ふわりと薫る潮の香り。船の側面に当たってはね返るかわいらしい水の音。翡翠色に透き通るその先で、珊瑚の白さが広がる。


「……きれい」


 ぽつりと落とされた感想に、サルヴァはニーシャを見る。

 ニーシャは、欄干から水面を覗いては遠くを眺め、じっと耳を澄ませるように目を細めては深く息を吸っている。心の言葉が無意識にこぼれたのだろう。

 サルヴァはあえてそれに触れず、しかし楽しげに笑みを深めて、彼女の横顔から海と空の青色へ視線を移した。

 それから少しして、出港の鐘が響いた。



 船が海を割って進むなか、ニーシャの感動と興奮に満ちた声が潮の空気に乗る。


「海ね、サルヴァ!」

「――ははっ」


 サルヴァの笑い声とニーシャの弾む声が重なる。エメリードを出てから、ずっとこの調子だった。

 彼女の目が、体が、広がる景色を追っていた。

 海中を泳ぐ魚。天高く、低く、自由に飛ぶ海鳥。果ては風を受ける帆にまで、いつもは涼やかな翡翠の目を輝かせている。

 乗り合わせた他の客と二言三言の言葉を交わしては、嬉しさと楽しさを混ぜ合わせた空気を発していた。


「サルヴァは、」


 ニーシャが一段明るい色をもったまま話す。


「サルヴァはこの海を、こうして船で渡ってお仕事をするのね」

「ああ。それが俺たち商人の仕事かな。海を渡って繋ぐ仕事。まあ、要の事務に太鼓判を押されないと、現場に戻れないんだけどさ」

「初めの頃に言っていたものね」

「はは、うん。語ったな」

「私、その時のあなたの言葉がとても気に入っているの」

「へえ?」


 自分はなんと言っただろうか。記憶を遡るサルヴァへニーシャが振り向いた、その時。


「セリュハだ」


 誰かが発した町の名に、ふたりの意識がそれた。揃って船の進む先へ目をこらす。

 小さな港と白と緑の町並みが、遠くからでも見てとれた。


「もう着いたのか」

「あっという間ね」

「ニーシャ、ずっとはしゃいでたしな」

「だってすごく久しぶりだもの。それにセリュハは行ったことがないから、どんな町なのか楽しみ」


 サルヴァは、だな、とうなずく。サルヴァも初めて訪れる町だ。

 遠くで小さくも広がる町は、山を切り開き、それでも自然を豊かに残したまま形成されていた。そして、その緑をも背景とするかのような、家々。


「なんか、『白い』な」

「ふふ」

「白いだろ?」


 ニーシャへ視線を移すと、彼女もうなずく。

 口元を隠して笑う姿に、サルヴァもふつふつと笑いが込み上げてきた。

 ちょっとしたことでも楽しさが溢れてくるのは、サルヴァもニーシャも同じようだった。

 船着場に停まった船から降りたふたりは並ぶ建物を眺めてから顔を見合わせて、同時に吹き出した。


「白いな、やっぱり」

「ええ。でもかわいい」

「だな。町全体が一つの絵みたいだ」


 臙脂色の屋根に、白い外壁。店も民家も、すべてがその組み合わせでできていた。

 港から見える町の一部を見回していると、空気に食欲をそそる匂いがほんのり乗って届き、空いた腹が存在を主張した。


「とりあえず、なんか食べるか」

「そうね。何があるのかしら」

「うーん」


 考えながら周囲に視線を巡らせたサルヴァは、一人の男性と目が合う。壮年らしきその人は、ふたりの前に船から降りていた人だ。


「何かお探しかい?」


 穏やかに声をかけてくれた男性は、どうやらこの町の住人のようだ。


「おじさん、昼におすすめの店とかある?」

「あぁ! それなら、この道を右に行った先にある『リゼリ』って店がいい。セリュハは初めてかい?」

「ああ」

「それなら、なおさらリゼリがいいな。新鮮な魚料理を安く美味く食べられるぞ」


 誇らしげに話す男性の言葉に、サルヴァは笑う。


「安くて美味いのは嬉しいな」

「だろう? 見たところ彼女とデートのようだしな」

「ッげほっ!」


 身構えていないところに爆弾発言を落とされ、サルヴァは思わずむせた。

 落とした本人はサルヴァの反応に構わず、隣に立つニーシャへ片目をつぶって見せている。


「質の低い安さじゃないから、安心しな」

「え、ええ。味は値段で決まらないもの」

「おっ、わかってるなぁお嬢さん」

「ありがとう」


 そんな会話を横で繰り広げた男性は、どうやら満足したようだった。


「ははは! まあ、楽しんでいってくれ。娯楽は少ないが、景色はどこからでもきれいだぞ」


 そう言って、最後にまた高らかに笑い声を響かせてから、彼はこの場を去って行った。二人の間になんともいえない空気が落ちる。

 サルヴァは隣を見れないまま口を開いた。動き始めてしまえば、ぎこちない空気などすぐに消えるはずだ。


「よ、よし。せっかくだし、そこに行ってみるか」

「……そうね。セリュハは、やっぱり漁が盛んなのかしら」

「エメリードとは違うな」


 港口にはエメリードのように商船は並ばず、細長い漁船が波に揺れている。今は数隻しか停まっていないが、日が暮れる頃にはほぼ漁船で埋まるのだろう。

 二人は町の中へ足を踏み入れる。どうやら、坂道や階段が町全体を繋いでいるようだ。高原の中の山脈にある町らしさが、そこにはあった。


「ふふ。探検してるみたい」

「ははっ、道が入り組んでるしな」

「わくわくする」


 どこか幼い口調のニーシャを見る。

 彼女は赤茶色のレンガ屋根や真っ白に塗られた壁を眺めている。石のざらりとした質感のおかげか、あたたかみのある町並みだ。

 道の脇を彩るさまざまな鉢の花を見ては小さくほほ笑み、軒先にぶら下がる花の飾りにその目をやわらげる。


「楽しいか?」


 自然と出た問いは、自分でもわかるほど優しい声色だ。

 ニーシャが浮かぶ表情をそのままにサルヴァを見上げた。唇がきれいに弧を描いている。


「――たのしい」


 言葉通りの感情がその一言に滲んでいて、サルヴァはとうとう満面に笑みをたたえた。



 『魚介レストラン・リゼリ』。

 住人からも人気らしいその店は、空席を見つけるのがむずしいくらいに盛況だった。食器の音と人の声が重なり、軽やかに流れる音楽とともに心地好い活気に満ちている。

 年輪や木皮の味を活かした装飾家具で統一された店内は、所々に花や観葉植物が飾られていて、町中同様に華やかだ。

 空いていた席に通された二人は、せっかくならおすすめが食べたいと店員に聞きながらメニューを頼んだ。


「おまたせしました~!」


 はつらつな声と共にテーブルへ料理が並べられる。

 全粒粉のパン。

 海岸沿いに育つという植物をオリーブオイルで煮込んだ冷製サラダ。

 小魚のフリッター。

 魚介のトマト煮焼き。

 車エビのグリル。

 イワシのパスタ。

 他にもいろいろと心惹かれる料理があったが、厳選した結果の数々だ。どれもできたてで、温熱と共にほわりと食欲を刺激する匂いがふたりの間で揺れる。


「いただきます」


 二人は揃って手を合わせると、料理へ手をつけた。

 皿に取り分けては、各々が好きなものから食べ始める。


「おいしい……」

「だな。このパスタもうまい」


 エメリードは港町だが漁業がさかんなわけではない。そのため、魚介料理を口にする機会は意外と少ないのだ。

 新鮮な魚貝の身の柔らかさ。素材の味を引き立たせるわずかな塩気。野菜の甘みやダシのうまみ。すべてにおいて、二人の口からは「おいしい」の一言ばかりが繰り返される。

 そんな自分達がおかしくて、サルヴァも、そしてニーシャも、くすくすと笑い合っていた。

 食事の最後にはデザートも食べ、ゆっくり存分にセリュハの味を楽しんだ二人は、食休みも兼ねて辺りの散策に出た。

 レストランはセリュハの端に位置している。店を出て、レストランの前を過ぎて、さらに陸の端へ続く道を進む。


「坂がおわってるな」

「その先が店員さんの言っていた岬かしら」

「だな、きっと」


『リゼリ』で、雑談を交えながらおすすめの料理を教えてくれた店員に今日の目的を話したら、「じゃあ、この後はどうぞ、セリュハ自慢の岬へ」と勧められたのだ。

 ゆるやかな坂を登り切ると、途端に建物がなくなり視界が開けた。

 木もなく、地面の土草には、人が何度も行き来をしたことでできたのだろう道が、うっすらあるだけだ。

 その道の上を歩き、陸地が途切れる手前でふたりは足を止めた。


「おー、絶景」

「すごい……」


 岬の先端だ。

 広い海に浮かぶように、この岬だけ細長く突き出ていた。

 視界に収まらない海。碧い海原が陽の光を遊ばせながら、はるか先まで広がる。海から少し顔をそらせば、島の端、陸の端まで、何にも邪魔されずに見通せた。

 すごい、ともう一度こぼしたニーシャは、髪をさらう潮混じりの風を受けて、気持ち良さそうに目を細めている。


「港町に住んでいるのに……ふふっ。こんなに海を感じたのは、初めて」

「迫力がすごいよな」

「ええ。……広いのね、海は。私が過ごす世界がどれだけ狭いのか、とてもよくわかる」

「俺も、自分の世界はまだまだ狭いって思うよ。だから海を渡るのが好きなんだけどさ」


 遠く視線の先で、船の影が見える。とても小さい姿だけれど、この距離でも目にとまる大きさだ。きっと、どこかの商船だろう。


「知らないことを、知っていけるから?」


 ニーシャの問いに、サルヴァは船よりも奥に続く海へ、そしてさらに広がるまだ見ぬ土地へ視線を注ぐ。


「もっと言うと、世界の広さを知れるから、かな。想像もつかない土地が、人が、ものが、まだまだ溢れてるんだってわくわくする」

「……」


 何かを言いかけた気配を感じて、サルヴァは隣を見る。

 ニーシャの瞳がちらりとサルヴァを見上げて、すぐに正面へそれた。


「それはきっと、遠くどこかにいる人達も同じでしょうね」

「うん?」

「例えば……自分が作ったものが、遠い土地や知らない人達に何かしらの感動を与えられたとしたら。受け入れてもらって認めてもらって、一度きりの人生のなかに、存在を少しでも刻んでもらえたら。……そう考えるだけでわくわくして……がんばろうって、力が溢れるの」

「……」


 ニーシャの横顔を見つめる。

 まっすぐ海の先へ目を向ける彼女の表情には、何も浮かんでない。話す内容とは裏腹に、声は細かった。

 サルヴァに向いていた意識が、途中から彼女自身の内側に向いているようにみえた。まっすぐ前を向いているはずなのに、どこか揺らいでいる。

 サルヴァはそう感じた。

 す、とかすかに息を吸ったニーシャが、サルヴァへ視線を移した。静かにほほ笑む彼女は、短く付け足す。


「私の場合は、だけれど」

「……そっか」

「ええ」


 何かあるのだと、少し前から確信していた。

 けれど、踏み込んでいいのかがサルヴァにはわからなかった。

 サルヴァは口角をゆるりと上げて、吐息で優しく笑みを返す。



 できることなら、力になりたかった。



 ***



 セリュハの市街には店が点々と並んでおり、落ち着きがあった。のんびりと見て回れば時間が経つのはあっという間で、いつの間にか空が淡く橙色に染まりつつある。

 二人は、町の外れを歩いていた。

 西の郊外を進むと、町の一部のような山を背に緑の裾野が広がる。それは、丘へ続くゆるやかな傾斜につながっているようだった。

 町を出たときから二人の視界にかろうじて入っていたものが、近付くにつれ存在感を放つ。

 風に揺れて、さわさわと波打つ花だ。

 可憐な白が、丘一面に咲いていた。

 誰もいない丘の真ん中で、二人は足を止める。


「きれいなところね……」

「なかなかに贅沢だな」


 花で埋まる丘。そこから望める海と夕映えの空。……目に映るすべてが広大だ。

 太陽が海へ向かって落ちつつある。

 昼間は碧く輝いていた海が、夕焼け色と共に悠然と波を揺らす。朱から橙色の濃淡に彩られる空が鮮やかだ。そして、その暁で丘一面が染まっていた。白い花が、色を吸収したように金や橙に色付く。

 そんな壮美な景色のなかで、サルヴァとニーシャは息を呑んで佇む。まさに呼吸すら忘れるほどの美しさに、いつの間にか引き込まれていた。――笑い声が空気を打ったのはその時だ。

 ニーシャがくすくすと笑いながら口元を抑えている。


「ニ、ニーシャ?」

「っ、ふふっ……あははっ」


 眉じりを下げて心底おかしそうに笑い声を上げる彼女に、目が釘付けになる。

 涙を浮かべた双眸を細めたまま、ニーシャがサルヴァを見上げた。細い指先が目じりの雫をぬぐう。そうして、ふふ、とまだかすかに声を漏らしながらも、ごめんなさい、と続けた。


「こんなにきれいな景色、初めて見た」

「きれいすぎて笑えた?」

「ふふ、そう。こんなことも初めて」


 にこやかにほほ笑むニーシャに、サルヴァは自然と口元に弧を浮かべる。にこにこと笑うのは珍しいが、彼女によく似合う。表情をはっきりと変えることが少ないニーシャの心から楽しんでいる姿は……一層、魅力的だった。

 サルヴァはそういった変化を、表情や声だけでなく目の色合いや眼差しからも感じ取れるほどに、ニーシャとの時間を重ねてきた。たとえ半年に満たない短い期間だろうと、サルヴァにとって彼女との時間は、すべて等しく大切なものだ。その重ねた時間と同じぐらい、ニーシャのことを見てきた。

 だからこそ。彼女の瞳の奥で揺らぐ憂いに、気づかないわけがなかった。

 彼女の声が、ぽつりと落ちる。


「その腕飾り」

「ん、これか?」


 軽く腕を上げると、透明感のある茜色が灯った紺碧色と乳白色の石が、わずかに夕陽に反射する。


「そう。その石は……、少し、この景色に似ているわ」

「たしかに、夕陽と海の色だ。加工しなくてもきれいなんだろうなぁ」

「ええ、とても。――石の名は、昔の言葉で『夕陽』を表しているの」

「へぇ、なんて名前?」

「ソレイス」


 丁寧に紡がれた名を、口の中で転がす。ソレイス。きれいな響きだ。初めて耳にする名だ。

 その時、ふっ、とニーシャが吐息を漏らした。それは、どこか困ったような、それでいて自嘲めいたものだった。


「誰も知らないわ」

「え?」

「この石の名前も存在も。知っている人はごくわずかよ」

「売ってないのか?」

「……ええ。今は」

「前は売ってた?」

「私が幼い頃に、少しだけ」

「もう売らないのか?」

「……」


 一瞬途切れた会話のあとに、ニーシャが小さく首を振った。ぽつりと答えが返る。


「商家と取引してる」

「お。それなら時間の問題だな。これからどんどん広まってくよ、きっと。俺の目利きは当たるんだ」


 サルヴァは得意気に笑った。対称的に、ニーシャの表情は静寂を保つようなものとなり、視線が交わることはなかった。

 そう望んでいるけれど、彼女はぽつりとつぶやいた。


「そのために契約をしたけれど……きっと、そうはならない」


 確信に触れない、そんな言葉の選び方だった。しかし、彼女の揺れ動く迷いがサルヴァには透けて見えた。


「何かあったのか」

「……」


 ニーシャは躊躇するように息を詰めてから唇を引き結んだが、すぐにどこか緊張した様子で話し始めた。


「ソレイスは、限られた場所と限られた条件でしか採れないの。とても稀なもので……家の人間しかその石のありかを知らない。それを口外しなくても、十分ソレイスの装飾品を売り広げることはできるから。――そう、思っていたのだけれど……実際は、どの地域で、どれだけのお店に渡っているのか、一つもわからない」

「……それは、発注依頼はあるってことだよな?」

「ええ。でも与えられる情報は、飾りの種類と数量だけ。何度聞いてもはぐらかされるの」


 そこまで言ってから、ニーシャは取り繕うように苦笑した。


「何か事情があるのかもしれないけれど」

「……いや、それにても……」


 その先をはっきりと口にするのはさすがに憚られた。確証もない上に、サルヴァは両方の事情を詳しく知らないのだ。ましてや、その相手はサルヴァと同じ商人だ。しかもおそらくは、同じく内陸ではなく海路を主としている商家だろう。


「海にこだわるのは、理由があるのか?」


 ニーシャの瞳に、ほんの少し明るさが戻る。彼女の唇に微笑が浮かんだ。


「祖父の夢よ」

「おじいさん?」

「そう。『ソレイスを海の先へ』。夕陽の沈む海のようにきれいな石が、海を渡り、多くの人の手に渡る……そんな未来を夢見て、そして叶えられなかったその夢を、私が引き継いだの。……もう、ずいぶん経つわ」


 まだ幼かったから。そう話すニーシャは、橙色に染まる空に目を細めながら遠い天を見つめている。その唇が、かすかに動いた。

 ――こわい。


「ニーシャ」


 咄嗟に呼んでいた。見上げてくる顔に、象られた言葉のような感情は浮かんでいない。それでも確かに、声になっていなくとも吐露していた。怖い、と。焦りも誤魔化す素振りもないニーシャは、内側からこぼれ出たものに気づいていないようだった。

 それを理解した時には、苦しいほどの熱がサルヴァの喉を通り過ぎていた。


「――好きだ」

「え……」


 翡翠色の目が見開かれる。大きな瞳が、困惑と動揺で揺れた。


「……ごめん。言うつもりはなかった」

「サ、ルヴァ」

「今すぐ返事が欲しいわけじゃない。ただ、」


 追い詰められているような彼女の横顔を見た瞬間、ある思いが明確な形となって胸に落ちたのだ。

 サルヴァの思いは、たった一つだ。


「ただ、俺が守りたい。君を」

「――……」

「ニーシャの気持ちが俺と違っても構わない。利用していい」

「そんな、」

「詳しいことはわからないし、言わなくていい。……でも耐えられなくなる前に、俺を頼って」

「……っ」

「必ず助けるから、俺を呼んで。ニーシャ」


 ニーシャの瞳が、何かを耐えるように揺れる。それがどういったい感情からなのかはわからなかった。彼女は口を開けては閉じて、それからただ一言、「ありがとう」とか細い声で言った。

 風に揺れる草の音。波の音。それらに紛れてしまいそうなほどに小さかった。サルヴァは、俯いて風に揺れる海色の毛先から紫に染まり始めた空へ視線を移すと、口を開いた。


「……ああ」


 丁寧に、ゆっくりと。ただそれだけを返した。

 これ以上、言葉を重ねるべきではない。サルヴァは寄り添うように隣に立ち、海に溶けていく夕陽を瞳に焼き付けた。

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