第7話
ニーシャは山を登る。いつもと同じ道を歩き、見慣れた分岐点を右へ進む。目的地は、通い詰めている場所ではない。
しばらく進んでいくと道らしい道はなくなり、地面は湿った土と芦などの草が生え広がる。進む先に岩壁が現れた。ぽっかりと穴はあれど、『立入禁止』の立て札と縄が張られていて、立入禁止となっている。
ニーシャはその手前で足を止めて、そのまま、ためらうことなく洞窟へ足を踏み入れた。
中は奥深くまで空間が広がっている。かすかに湿った空気ではあるものの、むき出しの岩肌は乾いている。多少の凹凸があるだけの地面に気を向けることなく、ニーシャはどんどん奥へ進んでいく。外の光が届かなくなる前に、腰のベルトに下げるランプを手にして、火をつけた。
高低差の激しい段差などもなく、危険なことは何もないまま、前方からうっすらと明かりが見えてくる。道の脇にはわずかだが植物が自生していた。洞窟内の空気が軽くなり、新鮮な空気が混ざり始める。水の流れを感じるような清涼さが含まれていた。
ランプの火を消す。
ニーシャは、白くまぶしい外の明かりに目を細めながら外へ出た。
サァ……、と優しい風が体をすり抜ける。水面を揺らす湖が、ニーシャの目の前に広がった。
小さな湖だ。その畔に、簡易な小屋が一つ建っている。
ニーシャは小屋へ歩を進め、中へ入る。無人のそこは、小さな部屋の半分を占める作業台と壁際を埋める棚のみだ。棚には、柄の長い網、スコップ、バケツ、透明な四角い箱など、さまざまな道具が置かれている。
ニーシャは作業台にランプを置くと、壁際の棚から厚手の革袋を取る。そして、一番下の段から、籐でできた衣装箱を引っ張り出すと、中に仕舞われていた服へ着替え始める。
太ももが半分以上は出る丈の短い薄い生地のズボンと、それと同じ素材の袖なしの上着。それらを身に付け、髪を結んだニーシャは、革袋をズボンの腰に縛り付けると外へ出た。
浅瀬に繋いでいる小舟を湖上へ放して、ニーシャは慣れた様子で乗り込んだ。
櫂で漕ぎながら湖面を進む。不純物の少ない澄んだ水は濁りがなく透きとおっていて、なんの隔たりもなく湖底まで見通せる。
(今日もきれいね)
ニーシャは自然とほほ笑む。
天気が良い。鳥のさえずり、風にくすぐられる木々や水が揺らぐかすかな音。何も考えずに、自然の穏やかさを享受する。
ほどなくして櫂を小舟へ引き上げたニーシャは、湖の中へ飛び込んだ。
冷たくて気持ちが良い。一度水面から顔を出して大きく息を吸い込んだニーシャは、再び全身を湖へ沈めた。体を器用に天地反転させ、ニーシャは湖底のある一点を目指して、泳ぎ進む。水の中も変わらず透明で、翡翠色がかすかに溶けたような色をしている。空からの日差しが細く幾重にも降り注ぎ、きらきらと輝いていた。その中を、たまに小さな魚が横切る。
それほど深くはない湖底へは、すぐにたどり着いた。小さな岩が集まるその中心に、平たく窪みができており、いくつもの石が転がっている。
ニーシャはその場で器用にとどまり、その窪みへ手を伸ばした。そっと手に取った石は、青緑色に透けていて、その中心には夕陽のような茜色が浮いている。『ソレイス』である。
ニーシャは同じ状態のものを数個革袋へしまうと、岩を蹴って、湖面に向かいなめらかに浮上していく。水中から顔を出し、ぷはっ、と息を吐いて深く酸素を吸い込む。深呼吸を数回繰り返して呼吸を落ち着かせてから船尾へ回ると、そこから舟へ這い上がった。
岸辺へ戻ったニーシャは手早く小舟を杭に繋いで小屋へ入る。
腰から革袋を外して作業台へ置いてから着替えを済ませ、脱いだ服は開け放った小屋の扉に干すと、常備しているタオルで髪を拭いながら作業台の椅子に腰かけた。
革袋から中身を取り出して、五つの鉱物を台上へ並べた。
それぞれが、透ける翡翠の中で同じく透明度の高い火を灯していた。
ニーシャはそのうち一つを手に取ると、窓から差す陽の光にかざした。きらきらと日差しを透かして輝くそれは、心を涼やかにするような美しさだっだ。変わらずの、美しさだ。
「今回も、良い出来」
ニーシャは満足げに表情を和らげる。天気が荒れた時もあったが、それくらいでは影響を受けない鉱物は見た目に反して強く、しかしその強く美しい石が生まれるまでの過程は繊細なものだ。
『ソレイス』は、洞窟の中で採れる鉱物を特別な環境におくことで生まれる。この湖の底へ沈み、水中で夕陽と月光を浴び続ける。三ヶ月間、ずっと。
そうすることで、湖あるいは海に夕陽が溶けたような、透明感のある色彩へ変化するのだ。月の光を浴びる時間が多い石ほど、より美しく変わる。名もない鉱石から、『ソレイス』という奇跡の美石へと。
それを見つけ出したのは、ニーシャの祖父だった。すでに祖父は他界しているが、生前、それこそニーシャが生まれてから数年後に、約十年間の検証の成果が出たらしかった。
偶然に偶然が重なり、湖に沈む石の変化に気づいた祖父は、あまりの美しさに宝石が転がっていると思ったと、思い出話で何度も聞かせてくれた。
『この世で唯一無二な美石』を作り、その石で優美な飾りを生み、広大な海の先へ連れていきたい。そう語っていたことを、今でも覚えている。それどころか、祖父の夢はニーシャの夢になっていた。息子である父よりも、義理の娘である母よりも。誰よりも、ニーシャはその夢を、想いを、叶えたいと思っている。原動力になるほどに、強く。
しかし、祖父が健在な頃も、現在も、海へ出る術をもっていなかった。しがない装飾店では船など所有できるわけもなく、海を渡り繋ぐ商家に頼るほかない。祖父は、「自分の手で広めたかったが、これだけはどうしようもない」とぽつりと言っていた。そして、本職の人間の手を借りなければ何にもならないまま終わってしまっていただろう、とも。
町の中でも一、二を争う大きな商家から声がかかったのは、父が店を引き継いでから数年経ったときだ。ソレイスを使った装飾品の売れ行きが軌道に乗り始めた頃だった。人づてに聞いたという商家――パトグ家の当主が、試しに現地で宣伝してみてもいいか、と話を持ちかけてくれたことが、パトグ家との関係の始まりだった。
だがとんとん拍子でうまくいくはずもなく、稀少な石であることから、装飾品の生産量が少ないため小売店側の利益にまで結びつかず、結果、興味は引けど契約には至らなかった。
商品の製作数を増やせないかと提案をされたが、それをするには当然、ソレイスの数が必要不可欠だった。しかし、名もない鉱物が美石になるまでには時間がかかる。生成の流れを説明すれば納得してもらえるのだろうが、ソレイスの生成方法は門外不出だと祖父が強く決めていた。広めたいけれど、利益の道具にしたいわけではなかった。方法が知れれば、いずれ金儲けの術として使われるだろう。だから、無闇に教えるべきではない、と。
すぐに利潤が出ないものはいくらでもある。しかし、『原材料が足りないがその入手経路は秘匿』、また、『作り手も足りないから数を増やせたとしてもたかが知れている』、といった状況に、パトグ家は時期ではないと手を引いた。
じゃあ私がたくさん作ろう。子どもながらに決心したのは、そのときだ。
祖父は、その数年後に体調を崩して、回復することなく息を引き取ってしまった。十何年も張っていた糸が切れたんだろう、と父がこぼしていた。呼吸が細くなっていく祖父に向けて、
「私がソレイスを広める。おじいちゃんの夢、私が叶えるから」
そう伝えた時、もうほとんど意識が薄らいでいるなか、祖父がかすかにほほ笑んだ気がした。ニーシャのなかで、夢が目標へと明確に変わった。
ひたすらソレイスを生成し、加工していき、商品として保管していく。それを続けて一年と少し。去年。再びパトグ家――今度は子息だ――が、同じように話を持ちかけてきたのだ。
『この世に二つとない美しい装飾を、エメリードだけに留めておくのはもったいない。試しにいくつか買い取らせて欲しい。私が契約をとってきましょう』
その宣言通りに顧客を得てきた彼――ジルゲンが、結婚を持ち出してきたのはそれからすぐだった。距離が縮まったかというとそんなことはなく、あまりにも突然で訳がわからなかったけれど、彼が最後の理由に挙げた『ソレイスを広める手伝いをさせてほしい』という言葉に、揺らいだ。美しい容姿だとか一目惚れだとか、そういった言葉は響かなかったが、この一言だけは違った。
純粋な気持ちではないだろうことは、隠しきれていない目の色でわかったが、力がある商家の手を借りられることはとても魅力的だった。そしてどちらにせよ、相手に力があるからこそ、なんの影響もなく逃げることはできないだろう。そう思わせる利己的な空気を、ジルゲンから感じ取れた。そうしてお互いに言葉には出さずとも、利害の一致で話はまとまっていったのだ。
しかし、ニーシャの想像以上にその婚約者は私欲に満ちていた。
(……まだ、確証はないけれど)
ふ、と息をつき、ニーシャは慈しむように石の表面を撫でた。
両親に相談はできていない。言えば、必ず婚約を破棄しようと動いてくれる。けれど、証拠もなく動いて、これからのソレイスの歩むべき道が閉ざされることだけは避けたかった。
どうするべきか。どうすればいいのか。ニーシャは毎日、進みも退きもせず、同じ悩みを頭でなぞっていた。
そして、その現実から逃げるように、サルヴァとの時間を重ねている。
しかし今や、その行動やそこから生まれる気持ちが、現実逃避かそれ以外の感情によるものなのか、ニーシャにはわからなかった。
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