第6話
歩き慣れた道を躓くことなく進んでいくサルヴァは、はやる気持ちのままに足を動かしていた。木々が途切れて開けた視界に、日差しを受けて生き生きとした草地が広がる。
その鮮やかな緑色の先で、空に重なるようにコバルトブルーが揺れる。
「ニーシャ!」
石柱の上で振り向いたニーシャの唇が、サルヴァの名前をなぞった。地面へふわりと下りる彼女のもとへ着いたサルヴァは、翠色の瞳に自分が映ると同時に笑いながらため息をこぼした。
「やっと会えたな」
「こんなに時間が合わなかったのは初めてね」
「手紙がなきゃ耐えられなかったな」
そう言うと、「大げさね」とニーシャがくすくす笑った。
「でも、新鮮で楽しかったわ」
「そりゃ俺も楽しかったよ。手紙のニーシャ、新鮮だったしな」
「サルヴァも、慣れていないのがわかっておもしろかった」
「それは大目に見てくれ……」
顔を合わせてからずっと、楽しそうに目を細めて笑うニーシャに、サルヴァはつられて口角を上げる。文字越しに想像する姿より、実際に目で見て、耳で声を聞くのが一番だ。
「でもやっぱ、顔を見たかったよ」
「――」
ゆっくりと、彼女の緩む口元から力が抜けていく様を目の当たりにして、サルヴァは首を傾げる。かすかに息を呑んだ音も聞こえた。
「どうした?」
しかし、ニーシャは無言で首を振る。そして、一度躊躇するように唇を結んでから、そっと口を開いた。
「…………私も、」
「ん?」
「私も、すごく……、すごく会いたかった。サルヴァに」
言いにくそうに少し顎を引き上目で見つめられ、サルヴァは、ぐっと言葉に詰まる。
(……これは、ちょっと……)
首から、上へ上へと、熱が広がる。サルヴァが思わず右手で口を覆い隠すと、それを見ていたニーシャがぱちぱちと瞬きを繰り返し、すぐにサルヴァから目をそらした。
拗ねた声がぽつりとその場に落ちる。
「あなたが先に言ったのに」
「そっ、れはそうなんだけど! 自分で言うのとニーシャに言われるのでは破壊力が、」
「はかいりょく?」
「いや、なんでもない」
「……そう」
首を傾げるニーシャに説明するわけにもいかず、サルヴァは「うん」とうなずいてから咳払いをした。
(い、いたたまれない……)
視線を彷徨わせ、下方へ落とし、そうして目に止まったものに、サルヴァのなかのむずむずとした恥ずかしさはどこかへ飛んでいった。
サルヴァは左手首を顔の前にかかげる。翡翠色と乳白色の石が連なる腕飾りを、やっと身に着けることができたのだ。
「これ。ありがとな」
「着けてくれてるのね」
「そりゃもちろん。――って言いたいところだけど、ずっと飾ってたんだ。着けるのはニーシャに会うときだけにしようと思ってさ」
その言葉に、ニーシャがきょとんとサルヴァを見つめる。サルヴァはその視線に耐えきれず目をそらした。
「……傷付いたら、嫌だからさ」
「――ふふっ」
「笑うなよ……」
「ごめんなさい……、私直せるのに」
口に手を当てて笑いを零すニーシャへ目を戻しながら、サルヴァは手首を一周する石を撫でる。透明と不透明のそれらは、もちろん傷や汚れの一つもない。
「そうだろうけど。それでも大事にしたいからさ」
「……ありがとう、サルヴァ」
嬉しさが滲んでいる声だった。透き通る海色の双眸が柔らかく細められるさまにつられて、サルヴァの目元も緩んだ。
水のせせらぎのように葉擦れの音が響き、穏やかな風が大きく雲を動かす。太陽が隠れ、そしてまた顔を出し。風の消える方へ流れるコバルトブルーの髪の毛が、細い手で押さえられた。
それを静かに見つめるサルヴァは、少ししてから、上衣のポケットから紙の小袋を取り出した。はい、と差し出したそれを反射的に受け取るニーシャへ、「腕飾りのお礼な」と笑う。
ニーシャは驚いたように小さく口を開いて、しかし何も言わずに呆然と小袋へ視線を戻すと、「……開けていい?」とぽつりと言った。
「もちろん」
サルヴァが返すと、細い指が丁寧に封を開けて中身を取り出した。
「……髪飾り?」
真っ白な小花を集めて固めたような、可憐な髪飾りだ。サルヴァはそれを見つけた時、一目見て彼女に似合うと思った。カナンが着けていた髪飾りの店を教えてもらい、初めて同年代の異性への贈り物を選んだ。
初めてにしては上出来ではないだろうか、と実際にニーシャと髪飾りが揃った光景を目にして満足していたサルヴァだったが、そこでハッとした。みぞおちが冷える。
「っわるい。他の店の装飾ってまずかったか?」
装飾職人の彼女へ、他の店の装飾品を贈るのはどうなのだろうか。……などと、今さら疑問に思ったところで遅いのだが。
しかし、心中で焦るサルヴァをよそに、ニーシャの口からは「ううん」と否定が落ちる。
髪と同じ青色の睫毛と共に彼女の目が上がり、サルヴァへまっすぐ注がれた。
そんなことない、とニーシャの声が続く。
「――うれしい」
言葉どおりに、顔がほころんでいる。ニーシャは目元を緩ませて髪飾りを眺めてると、「少し持っていて」とサルヴァへ手渡す。それを受け取ったサルヴァは、彼女が髪の毛を上から半分ほど梳きまとめるのを、ぼんやり見ていた。
ニーシャはサルヴァの手から飾りを回収すると、それで器用に髪を留める。パチン、と留め具の音が宙に跳ねた。
そして、くるっとサルヴァへ背を向けたニーシャがうかがうように、けれど控え目に振り向いた。
「……どう?」
「――……」
ほとんどの言葉が、サルヴァの頭から消えてしまった。
それぐらい、単純な感想しか浮かんでこなかった。
「……似合ってる」
太陽の下で光る金波のように、彼女の髪がきらきらと輝いている。
「ありがとう、サルヴァ。……本当に、嬉しい」
はにかんでほんのり頬を染めるニーシャを、長くは見ていられなかった。
ああ、と短く応えたサルヴァは、そっと顔をそらして、口を手の甲で覆う。
「サルヴァ?」
不思議そうに名を呼ぶその声にも、「うん」と答えになっていない返事しかできない。サルヴァはこぼれそうな言葉をぐっとこらえ、心の中でつぶやいた。
(かわいい、な)
顔が熱くなっているのを自覚しながら、サルヴァは頬の火照りが引くまで、さぞかし冷たいだろう碧い海から目を離すことができなかった。
それから数日経った日の昼は、また山まで出向くほどの時間が取れなかった。
書類と格闘し、倉庫へ行き。詰め所で船の出港と帰港の予定確認、出港を控える船の積荷の最終確認など、ぐるぐると動き回っていればあっという間に昼も過ぎる。
関所へ書類を提出した帰りに遅い昼食を調達して戻ったサルヴァは、どさっと椅子に腰を下ろした。一気に押し寄せた疲労感を、腹の底から思い切り吐き出す。
先に休憩を取り終えていたカナンとセンダから、口々に労いの声がかかる。ふたり共声に笑いを含んでいるが、共感しているからこそのそれは、いくらか気持ちを軽くする。
しかしそうは言っても大量の仕事が待っている状況は変わらないため、サルヴァは頭の中で残っている仕事の流し方を組み立てながら、手早く昼食を平らげていく。
「もっとゆっくり休みなよ~」
「おまえ外出たんだから、そのままよく行くとこ寄ってくりゃいいのに」
どこ行ってるのか知らないけどさ、と書面から顔を上げずに向けられたセンダの言葉に、サルヴァは曖昧な相づちを返す。
彼の言う〝よく行くとこ〟とは、あの山のことだろう。その考えはサルヴァも浮かんだが、悩むまでもなく却下した。時間どおりの昼休憩なら、当然足を運んだが。
(……今日は行ったところでいないだろうしな)
青空と町並みと海を背に、髪を揺らして振り向く姿を脳裏に描く。透明感ある翠色の瞳をわずかに細める、その瞬間をサルヴァは気に入っていた。
「――会いたいなぁ」
二対の目が同時にサルヴァへ向いた。サルヴァは目を瞠った――口からこぼれ落ちた、己の発言に。
ぽかんとするサルヴァに、センダの眼差しが生暖かいものへ変わる。
「それはもしかして……のろけか……?」
「いやっ、ち、ちがう」
「なぁるほど~。今までも昨日も、その子に会ってたんだねぇ」
にこにこと楽しそうに笑いながら確信しているらしいカナンの反応に、サルヴァは口ごもる。センダが目を剥く発言をしたのはその時だ。
「どれだけ会っても足りないってのは、付き合いたてん時は特にそうなんだよなー」
「……つ!?」
ガタッと机が音を立てる。全く想像の範疇を越えた単語に、動揺で大げさなくらい体が跳ねた。
「付き合ってない!」
「えっ、うそだろ」
「じゃあ、サルヴァくんの片思いかぁ」
「かっ……」
「ははーん。しかも昨日の今日で会いたいって、おまえ、その子のこと相当好きだな」
からかうように口角を上げるセンダだが、サルヴァはそれどころではなかった。目を見開いて気が抜けたように、今日も机上をささやかに彩る腕飾りへ視線を向けた。
(すきって……〝好き〟ってことか? 俺が、ニーシャを?)
心の中で自問する。瞼の奥、頭の中。サルヴァの内側に、ニーシャが現れる。袖から伸びる白い腕。細いだけでなく小さな豆もある、それでもきれいな職人の手。海を彷彿させる、明るく鮮やかなコバルトブルーの髪が風になびく。涼しげな目元がほどけて柔らかな色が増す、透き通った珊瑚の海に似た翠の瞳。
――嬉しそうに笑う、その姿。
「……っ」
急激に体が熱をもつ。体中の血液が一瞬で沸騰したように、熱で刺激される。汗が出そうだった。
机に伏せたサルヴァは、湧き上がる感情を逃がすように唸る。
その唸り声に、センダの呆れと驚きが混ざった声が重なった。
「……サルヴァ。おまえ大丈夫か?」
いろいろと。とは続かなかったが、サルヴァは声なき言葉を受け取った。
(……自分でもそう思う)
情けなくも、心の中で同意する。
サルヴァは机に顔を伏せて、腕で頭を抱えた。
「……ニーシャのこと、好きだったのか」
低く小さくつぶやいた声は、机に吸い込まれた。言葉にした途端に、じわじわと実感が湧く。
彼女を最初に見た時、人間ではない何かだと思った。それほどに神秘的で、きれいで、目を奪われたのだ。けれど話をしてみれば、サルヴァと同じく海を好んで、自身の目指す〝未来〟へ向けて日々を進んでいると知った。サルヴァと変わらない、サルヴァと同じ世界に生きる、思い描いた自分の理想像のために努力をする、普通の女性だった。もっと知りたいという思いに比例して会う機会は重なっていき、いつしか、見下ろせる景色を眺めるためではなく、彼女と過ごす時間のために足を運ぶようになっていた。それすらも、たった今自覚したのだが。
約束が遠のき、会えない時間が続いた間に、積もりに積もった思い。『声が聞きたい』、『顔が見たい』といった思いは、すでに友人の域を超えているものだと、今ならわかる。
今までまともに恋愛をしたことがなく、興味もさほどなかった。だから、まさか自分がここまで鈍いとは想像もしていなかった。
不意にセンダが、やれやれと鼻で笑った。サルヴァは伏せていた顔を上げる。
「イマイチ頼りないサルヴァくんに、いい情報をやろう」
「センダの情報は不安だよ~」
「なんで!?」
「はは……」
センダが気を取り直すように咳払いをする。そして続けられた町の名前を、サルヴァは繰り返した。
「セリュハ?」
たしか、海を北上した先にある小さな町だ。幼い頃に一度だけ行った記憶がある。
「そ。そこの町外れの丘にある花畑が絶景なんだよ。観光客も少ないから穴場だな」
「へえ……」
「丁度見頃だから、その子誘って行ってこいよ。あれは年齢性別関係なく感動するぜー」
サルヴァは想像した。あの山以外で、エメリードの町の外で重ねる、彼女との時間を。
以前ニーシャは、もう随分と海には出ていないと言っていた。
「……センダさん。もう少し教えてくれ」
センダをまっすぐ見て言うと、彼はすぐにニッと口角を上げて、「まかせろ!」と笑った。
また、見れるだろうか。サルヴァは、嬉しさを滲ませたニーシャの顔を脳裏に浮かべる。
あの笑顔を何度でも見たいのだと、自覚したばかりの心で、そう思った。
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