第5話


 カランカラン、と客の出入りを知らせる鐘がささやかに響く。上品な木製の内装で統一された店内には、ほどよく客の話し声が馴染んでいて、落ち着いた店の雰囲気に馴染んでいる。

 入店したニーシャを出迎えた店員が席へ案内しようと動いた時、男の声が「俺の連れだ」と遮った。

 存外近くで聞こえたそれにニーシャは顔を巡らせ、入口から一席離れた丸テーブルに目をとめる。二人用の席に着いて、存在を知らせるように軽く手を上げる男がいた。ニーシャはそれに会釈を返すと、店員に礼を告げてから男のもとへ向かった。

 前髪を後ろへ流した焦げ茶色の髪に、柔らかく細められた目。それに反して口元にはどこか高圧的な笑みが乗っている。


「やあ、ニーシャ」

「こんにちは。お誘いありがとうございます、ジルゲンさん」


 ニーシャは薄くほほ笑みかけてから、椅子に腰を下ろす。


「久しぶりだ。君は相変わらず美しいな。よかったよ」

「……ジルゲンさんもお変わりないようですね」

「ハハッ。気を悪くするなよ。今更だろ?」


 眉を上げてわざとらしく苦笑するジルゲンに、ニーシャは小さく笑う。


「……そうですね。甘い言葉を交わす関係ではないわ」

「それも極端だ。俺は仲良くしたいと思っているのにな」 


 両肩を竦めて眉じりを下げるジルゲンの様子にため息がこぼれそうだった。芝居がかった仕草や声は、彼お得意の伝え方だ。


(……調子のいい人ね、本当に)


 ジルゲンは返事を期待していたわけではないようで、ニーシャの言葉を待たずして「ああ、そうだ」とメニュー表を手に取った。ニーシャは差し出されたメニュー表を素直に受け取り目を通す。ジルゲンの呼び声に反応した店員がそばへ来ると、すでに決めていたらしいジルゲンの後に続いて、ニーシャはサンドイッチと紅茶を頼んだ。

 少々お待ち下さい、と一礼し厨房へ下がっていく店員を見るともなしに眺めていると、それを引き戻すように名を呼ばれる。わずかに高揚した声は珍しかった。


「ニーシャ」

「はい」

「君に良い報せがあるぞ」


 目眼で問うニーシャは、続くジルゲンの言葉に目を見開いた。


「あの石。今までも、少量だが定期的に買い取ってくれる客がいたんだが、そこが専門的に取り扱いたいと話を持ってきた」

「え……」

「とりあえずその話は進めているから、詳細が決まったら、改めて発注する。この顧客は大きいぞ」


 陶然と目を三日月に歪ませるジルゲンに対し、ニーシャは頭の中が冷静になっていた。驚きは一瞬だった。


「以前にもお聞きしましたが……どちらのお客様ですか」


 三日月が隠れた目が、ニーシャに向く。しかしすぐに、ふっと笑い返された。


「まだ内緒だと言っただろ? 大きな話ももらったばかりだ。大詰めの段階になったら、確認も含めて伝えるよ」

「……そうですか」


 腑には落ちないが、踏み込んで機嫌を損ねてしまうのは避けたい。

 ニーシャは切り替えるように、水の入ったコップに口を付けた。

 しかし、話を終わらせる気はない――というよりも、元々繋げるつもりだったのだろうジルゲンが、テーブルに両肘をつき、組んだ指に顎を預けると、自信を形にした笑みを口元に浮かべて話を続けた。


「この契約が決まったら、本格的に婚儀の準備を始めようか」


 その言葉に、ニーシャは膝の上で手のひらを握りしめる。


「結婚した暁には、あの石――『ソレイス』もこのパトグ家の力でさらに広めていくよ」


 表情を崩さないジルゲンは、余程自信があるのだろうか。ニーシャはそらさず、真っ直ぐ彼の目を見る。

 この婚約は、ニーシャの容姿に心惹かれたジルゲンが発端だ。そして、最終的に、互いの利己的な考えで以て成立したといってもいい。良好な関係を築く努力をするつもりはある。しかし、少なくとも現段階において、ニーシャの中で『婚約』という二文字に甘い響きは含まれていない。

 ニーシャの感情に気づいていないのか、それとも知った上で歯牙にもかけていないのか。おそらく後者ではあるが、ジルゲンは腕を崩して背もたれに寄り掛かりながらも、話を止めなかった。


「ソレイスの権利の譲渡について、忘れていないだろう? 商人として、俺は君の夫となるのと同じくらい、その約束を回収できることが嬉しいんだ」


 ニーシャは、少しの苛立ちを覚えた。


「……ソレイスの〝所有権の分譲〟です。そこはお間違えのないよう」

「ああ、すまない。わかっている」


 感情の読めない目と目が交差する。店内の話し声が、やけに大きく聞こえる。

 その時、店員の声と共にテーブルへ料理が置かれた。注文したものが揃ったことで、ニーシャは気が抜けて、肩から力を抜いた。ジルゲンの「さ、食べようか」という声にうなずき、食事に手を付ける。

 先ほどの、甘さの欠片もない刺々しい空気。これで婚約者というのだから、笑ってしまう。


(たちが悪いわね……私も)


 脳裏に浮かぶ、明るい笑顔と優しく細められた夜色の瞳。それが、とても遠い記憶のように感じた。



 ***



 休憩もそこそこに集中していたおかげで、今日の仕事に終わりが見えてきた。サルヴァは確認し終えた書類にサインをすると、他の書類と共にクリップでまとめて、トレーへ置く。


(……そうだ)


 マグカップを手に取り紅茶を飲んで一息ついたところで、サルヴァは、ふと動きを止めた。そして、上衣のポケットからあるものを取り出すと、トレー横に置く。

 透明な円錐型のそれを、邪魔にならないような位置にずらしてから、懐から布地の巾着を取り出した。

 その中からすくい上げるように抜き出したのは、透明感のある青緑色と乳白色の腕飾りだ。青緑色の石には、灯火のように茜色も浮かんでいる。石であろう素材をつなぎ合わせてできたそれは、精緻な模様が彫られている。星のようにも、花のようにも見えるそれは、落ち着きを与える色合いと石の材質によって、美しさが増していた。

 サルヴァは、その腕飾りを円錐型の置物へ通し、そのまま止まる位置まで下ろした。いっそう丁寧な手付きで扱ったサルヴァは、透明な台座とそこに飾られた腕飾りを眺めて、ふっと口元を和らげた。


(……きれいだな)


 さすがニーシャ、と心の中で感嘆の声を漏らす。

 彼女の手ずから作られたということと、海を彷彿させる色の組み合わせが相まってなんだかご利益がありそうだ。


(あれから、もう二週間か)


 約束をしていた日、ニーシャから急用で行けなくなったと置き手紙をもらってから、ことごとくすれ違っていた。サルヴァは昼間にしか行けず、ニーシャは早朝しか時間を取れなかったようで、顔を合わせないまま二週間が過ぎた。

 ただ、それぞれの動ける時間が合わないと察してからサルヴァはニーシャの置き手紙を真似して、手紙をしたためた。

 そしてそれは、会えない間の〝ふたりの時間〟となった。

 一通目はいくらか長く書いた。挨拶、手紙を書いてみた理由。そして、腕飾りのお礼。

 ニーシャからの手紙と共に同封されていたものが、この腕飾りだった。



 ――約束は守れなかったけれど、この腕飾りをあなたへ。

   もらってくれると嬉しい。


 そう手紙の最後に書かれていた。

 陽の光を浴びてきらめく腕飾りは、波が揺らぐ海のようで、サルヴァは、しばらくそれを眺めて楽しんでいた。

 せっかくくれたのだからと腕に着けようと考えたが、自室で着けてみてからは一度も腕を飾らせず、しかし肌身離さず巾着に入れて持ち歩いていた。

 ニーシャに会うときに着けようと大事にしまっていたのだが、仕事の休憩中や息抜きのたびに見たいと思うことが続き、雑貨屋で腕飾り用の台座を購入し、いそいそと執務机へ飾ったという次第だ。

 サルヴァが書いた手紙は、翌日訪れたときにレターボックスからなくなっていて、さらに翌日には、最初の置き手紙と同じ白い封筒が入っていた。

 ヒナギクの花の封蝋を小型ナイフで剥がすと、一枚の便せんが入っていた。



 ――お手紙ありがとう。腕飾り、気に入ってくれてよかった。

   あなたと会えなくて、あの場所へ行ってもどこかつまらなく感じてし

   まったけれど。

   こうしてお話ができて、うれしい。

   今、新しいものを作るところなの。

   完成したら見てほしいから、待っていてね。



 サルヴァは、ふっと息を漏らして笑った。手紙だと少し雰囲気が変わって新鮮だった。

 それからサルヴァは、会えない場合に手紙を書けるよう、レターセットと携帯用のペンとインクを持って、山中の庭へ赴くようにした。

 どれだけ忙しく、十分な昼休憩がとれなくても、あるかもしれない手紙を受け取るためだけに足を運んでいた。そして、封書のない日はなかったから、きっとニーシャも同じことを考えていたのだろう。

 お互い長い返事ではないが、それくらいの気軽さがいつもの会話のようで楽しかった。

 サルヴァの手紙が受け取られた日から今日まで、文字での会話は途切れることなく続いた。

 しかし、それも明日で終わりだ。

 サルヴァは、昨日の手紙に「明日で落ち着く。二日後は朝でも昼でも動けるよ」と書いていた。その返事となる手紙を受け取ったのは、今日の昼間だ。



 ――よかった。私も、明日から時間がとれそうなの。

   昼食を用意するから、お昼に会いましょう。



 サルヴァはその手紙を読んだ時、ひとり嬉しさに笑ってしまったのだった。


(やっと会える)


 透明な台座を飾る二色の石の輪を見つめるサルヴァの口元は、自然と緩んでいる。

 すると不意に、カナンが意外そうな声を上げた。


「おやおや? 珍しいねぇ、サルヴァくん。それ、腕飾り?」


 にこにこと笑顔を向けてくるカナンに、「あー、まあ」と曖昧に返事をして、サルヴァはへらりと笑う。彼女のどこか楽しげな様子からして、いろいろ気づかれていそうだが、気恥ずかしさが勝って自ら話を広げようとは思えなかった。

 しかし、それを見逃さない男がおそるおそるサルヴァへ問いかけた。


「……おまえ、もしかして……女の子からか……?」

「えっ……いやいや、そんなまさか」

「当たりか! なんっだよいつの間にそんな子できたんだ!?」

「ちょっ、センダさん近い」


 ガタッと勢いよく立ち上がったセンダ。そうかと思えば飛びつくようにサルヴァの机へかじりついて腕飾りを覗き込む。そんな彼に、サルヴァは思わず体を反らした。嫉妬かと思えば何やら興奮しているようで、ぐいぐいと机の上へ身を乗り出してくるセンダを、サルヴァは遠慮なく押し退けた。

 そんなふたりを意に介さず、自席から両手で頬杖をついて腕飾りを眺めていたカナンが、「きれいだねぇ」としみじみ言った。


「模様が細かくてすごいねぇ。こういう色も初めて見たなぁ」

「装飾店の子なんだ」

「手作りかよ! うらやましいな!」


 至近距離で上がったセンダの声を右から左へ流しながら、サルヴァは腕飾りを物珍しそうに見つめるカナンへ視線をやる。正確には彼女の金色の髪をまとめる髪飾りへ、だが。

 華やかな金髪を落ち着いた雰囲気に見せる、群青色で光沢のない楕円石。表面には幾何学模様が彫られている。

 装飾などには疎いため詳しいことはわからないが、確かにカナンの髪飾りとは彫りの種類や色の出方が全く違うように感じる。特に色に顕著な差があるため、石そのものの質が違うのかもしれない。


「そんなに珍しいんですか、この色」

「私は見たことない~。いいなあ」


 カナンが思わずといった風にこぼした言葉に、サルヴァは少し考えてから口を開く。


「趣味も兼ねて作ったって言ってたから売ってるかわからないけど、店なら中央広場の裏通りだって言ってた」

「もしかして穴場かなぁ。今度行ってみるよ~」


 ぜひ、なんて返すも、サルヴァもまだ足を運んだことがない。今度行ってみるか、とぼんやり考えるサルヴァだったが、それもすぐに頭の隅へ追いやられる。サルヴァの意識は、カナンの金髪に色を添える髪飾りへ戻っていた。

 頭の奥で、海色の整った毛先が爽やかに揺れる。


「――カナンさん」


 サルヴァはその画に動かされるままに、言葉を続けた。

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