第4話


 太陽の陽が真上に上る時間帯。サルヴァとニーシャは、石壁の瓦礫に座ってそれぞれで持参した昼食をとり終え、のんびりとそよ風にあたっていた。

 あれから何度か、サルヴァは山の上でニーシャと会っては、他愛のない話をした。言葉少なに景色を楽しむだけの時や入れ違いで訪れて一言二言の挨拶で別れる時もあったが、それも含めて、互いがこの時間を楽しんでいた。

 暖かさが混ざり眠気を誘う心地好さに頭を空っぽにし、白雲がたなびく空を眺めていると、不意に硬く軽い金属音がした。サルヴァは、耳で拾ったかすかな音の方へ顔を向ける。ふたりの間に視線を落とすと、大きさの異なる菱形が重なり合った、小ぶりな乳白色の飾りらしきものが落ちていた。

 ニーシャの耳飾りだ。

 そうサルヴァが認識したと同時に、ニーシャの細く白い指がそれを拾い上げた。彼女の右耳を見ると、留め具だけが残っている。


「壊れたのか?」

「ええ。外れてしまったわ」

「そっか……それ、綺麗だったのにな」


 ニーシャのコバルトブルーの髪色に映えて、とても似合っていたのだ。見たところ飾りが取れただけのようだが、直せないだろうか。そう考えながら、ニーシャの手の中にある飾りを覗き込んで観察していると、ふっと彼女が笑った。


「ありがとう。そんなに深刻な顔しなくても、直せるから大丈夫よ。……付け方が甘かったみたい」

「えっ、ニーシャが作ったのか?」

「ええ。練習を兼ねた気分転換に」


 そう言ったニーシャから差し出された飾りを、サルヴァはそっと受け取る。地面へ落とさないよう片手を受け皿にして目の高さにかざした。

 感嘆の声が出る。装飾職人であることは知っているが、実際に製作したものは目にしたことがなかった。

 飾り部分は鉱物でできているようだ。艶のある乳白色のそれは、中抜きの菱形の中に一回り小さなものがぶら下がっている。外枠の菱形の表面は、精緻な透かし彫りで彩られていた。

 裏返したり角度を変えたりしてじっくりと堪能したサルヴァは、驚きと感心をそのままにニーシャを見た。


「これで修行中?」


 ニーシャがうなずいた。


「父と母はもっと細かく綺麗な模様よ。かかる時間も全然違う」

「これも十分すごいのになあ」


 手元の耳飾りに目を戻して思わずこぼれた声に、ニーシャが嬉しそうに笑って礼を口にした。その表情を、口元を緩ませながら見つめたサルヴァは、飾りを見ていた最中に思いついたことを伝えた。


「ニーシャが良ければだけど、他にも見てみたいな」

「私が作ったもの?」

「うん。売り物にしてないやつ。あるか?」

「ええ、あるわ。趣味で作った物もあるけど、いいの?」


 製作したものは店で売っているのだから実際に赴いて色々と見てみれば済む話かもしれないが、それは違う気がした。この場所で、仕事を挟まず友人という立場で、彼女の手から作られた物を見たい。

 サルヴァはうなずいた。太陽の光を反射する乳白色の飾りが、結晶のようで美しい。


「いい。ニーシャのことが知りたいから」


 言って、耳飾りを返そうとニーシャへ差し出したところで、サルヴァは彼女の様子に首を傾げた。わずかに見開かれた目は揺らぎ、その瞳に喜色と動揺の色が複雑に混ざっている。思いがけない彼女の反応に、サルヴァは目を瞠る。咄嗟に彼女の名を呼んだ。


「ニーシャ。どうした?」


 はっと我に返ったニーシャから、鋭く空気を吸い込む音が聞こえた。息を詰めていたようだ。

 明らかに先ほどと様子の違う彼女に、サルヴァは心配から眉をひそめた。しかし、そのまま声をかけようとしたサルヴァを遮るように、嬉しかっただけだとニーシャは薄くほほ笑んだ。

 普段どおりの笑みと声色に、サルヴァは言葉を呑み込む。聞いてもはぐらかされることは、なんとなく予想できた。

 ニーシャがサルヴァの手から耳飾りを回収する。それを留め具と一緒に上着のポケットにしまいながら、「明日は?」と彼女が問う。

 サルヴァはここ数日の業務量と各地方に出ている船の予定を頭の中で確認してから、うんとうなずいた。


「大丈夫だ。昼でいいか?」

「ええ。その時にいくつか持っていくわ」

「ああ。楽しみにしてるな」


 歯を見せて笑うサルヴァに、ニーシャも嬉しそうに目を細めた。

 じゃあまた明日、と小さく手を振って去って行く彼女の背中を見つめる。コバルトブルーが見えなくなってから、サルヴァは海へ向き直った。浅瀬の鮮やかな翠色から沖の濃青色へ変化する海面に、先ほどのニーシャを重ね見る。

 読み取りづらい複雑な表情をしていたが、一瞬泣きそうに歪んだ瞳は見間違いだろうか。


(――いや、あれは泣くのとは違うか)


 ニーシャと顔を合わせるなかで、彼女は感情か言葉か、そういった内面の〝とある何か〟を耐えるように瞳を揺らすことが、何度かあった。仕事や海の先にある他国の話をしたとき、たまに表情が変わることがあった。瞬きの間にその変化は消えていたから、きっと彼女はサルヴァが気づいているとは思っていないだろう。

 家業に嫌気がさしているわけでも、修行の身に焦れているわけでもなさそうだった。海の話、町の外の話を避けるべきかと考えても、彼女から話を振ってくることもある。

 何を抱えているのか、サルヴァにはわからなかった。わからないが、だからといって無理に聞き出すような真似はしたくない。

 軽いため息と共に、頭をガシガシと掻く。


「どうすっかなあ……」


 晴れ渡る空に、サルヴァの途方に暮れた声が吸い込まれた。



 ***



 山を下りたニーシャは帰路につく。急勾配な階段を下りて市街地の裏通りに出ると、自宅に向かって進む。店や住宅の裏口側であるため人通りは多くないが、離れたところから、空気を伝って人々のざわめきが届く。

 この、ほどよい静けさをニーシャは気に入っていた。最近では早朝よりも昼間に通うことが増えて、朝の清涼感ある静寂とは異なるこの雰囲気が心地好くなっていた。心が明るくなるのが自分でもわかる。……それはつい先ほどまでの楽しい時間があるからこそ、かもしれないが。

 偶然出会った青年、サルヴァ。深い深い海のような紺碧の髪に、紫がかった夜色の瞳。重く落ち着きのある色合いに対して、本人はどこか愛嬌があり、終始明るく穏やかな空気を纏っていた。懐に入るのが上手いようで、初対面にもかかわらず、ニーシャはなんの抵抗もなく同じ時間を過ごすことを受け入れていた。特別柔らかな口調ではないけれど、暖かく優しさを感じる声を聞いているのが好きだった。

 ニーシャは元々口数が多い方ではない。けれど、急かされることなく強要されることもなく、ただ純粋に彼との会話を楽しめる時間をとても気に入っていた。

 ニーシャは足取り軽く石畳を踏んでいく。

 昔から、友人は少なかった。周囲に年の近い人間は少なく、幼い頃は共に遊んでいたらしいが、記憶に薄い。いつの頃からか遠巻きに見られるようになり、関係を築こうにも何本もの線を引かれ、距離を縮めることができなかった。虐められることはなくても、一定の距離を置かれる。そのことに、初めの頃は傷付き、母親の胸で泣くこともあったが、口数が少ないだけでなく口も上手くなかったために、話かけることもままならず、早々に諦めてしまった。

 年齢が二桁になって数年経ったとき、自分の容姿が原因らしいことをなんとなく理解したが、その頃には特段『友人』という存在に興味はなく、容姿を変えることもできないため、どうにかしようと動くことはなかった。今思えば、社交性の低い性格を理由に変わろうとしなかった自分にも一因はあるのだろう。ただやはり、わかったからと言って今からどうこうしようという気は起きなかった。そのための気力は湧かず、魅力も感じない。昔からの顔馴染みとして、顔を合わせれば挨拶はするが、未だに奇妙な壁を感じるし、今更親密になりたいとも思えなかったのだ。

 だから、サルヴァとの時間が新鮮だった。会話は楽しく、重ねる時間が心地好いと感じている自分が意外だった。友人という存在によって、こんなにも気分が明るくなるのか、と。

 そのサルヴァが、ニーシャの作品を直に見たいと思ってくれたのだ。そのことに嬉しさと気恥ずかしさを感じたが、ならば下手なものは見せられない、と先ほどから頭の中で自作の装飾品の数々を浮かべては確認していた。

 店に来れば、とは言えなかった。言いたくなかった。サルヴァという友人ができたことは、できれば誰にも知られたくない。ニーシャにとって、二人で過ごすあの時間は、失いたくないほどに大切だった。


(……〝友人〟をいちいち報告する必要はないもの)


 誰に言うでもなく、言い訳染みた言葉を胸中でこぼす。ふと、脳裏に人影が浮かんだ。ニーシャは頭を振ってその像を消し去ると、石畳を踏み込んで裏通りを駆け抜けた。



 自宅でもある装飾店に着いたニーシャは、母と店番を交代した。接客の合間に装飾品の制作に取りかかり、そうして余計なことを考えず没頭していれば、閉店の時間まではあっという間だった。


「ニーシャ」


 夕飯時、父が不意にニーシャを呼んだ。やけに静けさを含む声に、ニーシャは食事の手を止める。目を向けた先の父が、穏やかな空気にそぐわない真剣な表情をしていた。その隣の母は、何故か気遣わしそうにニーシャを見ている。あまり良い知らせではなさそうだ。


「何?」

「……今日な、ジルゲンくんが来たんだ」


 ニーシャの心臓が嫌な音を立てた。


「……そう。何か用事が?」


 ニーシャはふたりの視線から逃げるように食事を再開する。料理の味が、途端にわからなくなった。


「明日の昼、一緒に食事をしようと言っていたよ」

「明日は――」


 考えるよりも先に口をついて出そうだった言葉を、ニーシャは飲み込んだ。


「断るか?」

「……ううん、平気。それに、断るなんてできないわ――婚約者なのに」


 そう小さく笑って、ニーシャは肩を軽く竦めた。それでも心配げな様子の両親に、ニーシャは「大丈夫」と言葉を重ねた。

 いつものことだ。己の都合だけで事を進める婚約者は、最初からそうだった。そしてニーシャも優先順位がわからないほど子どもではない。ふたりが心配そうにする必要はないし、そんな顔をして欲しいわけでもないのだ。

 ニーシャは、父と母を安心させるように瞳を和らげた。


「何も心配いらないわ。それに、ジルゲンさんと話したいことだってあるの。婚約者らしいでしょう?」


 軽やかに言ったニーシャに、やっとふたりも愁眉を開いてほほ笑んだ。気を取り直すように、それぞれが食事を再開する。

 母が自身の試作品の話をニーシャに振り、それに感想を伝えると今度は父が助言したり入荷予定の素材を提案したり。普段の食卓の空気に戻っていく。

 その空気の一つでありながら、ニーシャは内心ほっとした。――自分は、ちゃんと笑えていたようだと。

 夕食を終えて部屋へ戻ったニーシャは、今まで作った装飾品を机上に並べ、一つ一つ眺めた。手に取って、灯りにかざしては元に戻す。


(……サルヴァとの約束を守れない)


 そう思っても、装飾品を選ぶ手は止められなかった。昼間のサルヴァの言葉が、嬉しかった。十分すごいと褒めてくれて、ニーシャのことを知りたいからと言ってくれた。彼にとって特別なことではないような、普段どおりの声。楽しそうに、でもどこか嬉しそうに口元に笑みを浮かべる横顔。

 その声と表情が、心に焼き付いて離れなかった。

 ニーシャは机に飾っていた一つの鉱物を手に取る。加工前の角張ったそれは小指の第一関節ほどの大きさで、比較的小さなものだ。ニーシャはそれを、ぼんやりと手の中で転がす。部屋の灯りが反射して、透明感のある翡翠色とその中心を彩る茜色がきらめいた。まるで、海に溶ける夕陽を閉じ込めたような石だ。つけられた名は、『ソレイス』。

 宝石にも劣らない原石を、ニーシャはじっと見つめる。そして、おもむろに木製の小箱に手を伸ばした。金属装飾があしらわれた二段重ねのそれは、装飾品を保管するために使用しているものだ。ただし、入れるものは決まっていた。

 開けた蓋の下から現れる、翡翠に夕陽がきらめく装飾品の数々。耳や腕、髪を飾るもの。ソレイスを加工して作ったものだ。これだけは、他のさまざまな鉱物からできた装飾品と同等には扱えない。

 小箱に添える手に力がこもる。


(見てもらいたい。友人として、そして……『商人』として)


 しかしそれは、簡単にとっていい行動ではなかった。少なくとも、ニーシャにとっては。


「……手紙を書こう」


 迷いを無理やり押し込めるように小箱の蓋を閉めると、ニーシャは簡素な便せんを取り出す。

 明日は行けなくなってしまったと綴って、いつもの場所に置いてこよう。きっとサルヴァは、詮索しないで受け止めてくれる。

 不自然にならないように手短に綴り、宛名を書いた封筒にしまう。それから少し考えて、ニーシャは並べていた装飾品の中から腕飾りを一つ手に取った。少しためらって、それでも元に戻さず同封すると、そのまま蓋付きのレターボックスに入れた。


(明日、朝早くに置きにいこう)


 ふら、と立ち上がったニーシャは、ベッドに倒れ込んだ。布団に顔を埋めてから、ごろりと仰向けになる。そして、天井を見るともなしに眺めると左腕で両目を覆った。

 重く小さなため息が、ニーシャの口からこぼれる。


(……知られたくない)


 婚約していると知ると、きっとサルヴァは二人きりで会わないようにするだろう。ニーシャのこと、そして顔も知らない相手のことを思って。短い付き合いでもわかる。彼はそういう、他人を慮れる人間だ。

 婚約者がいるのに異性と二人きりで会って、ましてや話に花を咲かすなど、あってはならないことだ。それがたとえ、友人だとしても。


(それでも私は、失いたくない……)


 どうすることも出来ない感情が胸を食み、それでもニーシャは、震える息を飲み込んだ。

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