第2話


 翌日。サルヴァは早朝の山を登っていた。

 朝霧で薄暗い山中は、通い慣れた道とはいえ梅雨で滑りやすくなっていて、いつもと少し勝手が違う。ひんやりと冷たい空気で満ちている。まだ獣も活動を始めていないのか、静寂が耳を打った。

 人によってはこの雰囲気に呑まれ、不気味さと恐れから歩みが遅くなるところだが、サルヴァにとっては時間帯こそ違えど馴染みある山に変わりはないため、足を鈍らせることなく登っていく。

 目的地に着くと、そこにはすでにニーシャがいた。昨日と同じように、こちらに背を向けて石柱の天辺に座っている。

 サルヴァが外壁の塊へ歩み寄ると、草を踏みしめる音に気づいたニーシャが振り向いた。鮮やかな海色の毛先がさらさらと彼女の背中で揺れる。


「はよ、ニーシャ」

「おはよう、サルヴァ。ちゃんと起きられたのね」


 からかいを含んだ笑みを見せるニーシャに、サルヴァは「はは……、なんとか」と濁す。

ちゃんと起きたと表現するには些か時間がかかっているのが実のところである。一度意識は浮上したが抗えず――抗った記憶もなく――二度寝をしていた。万が一を考えて目覚まし時計を二個用意しておいて良かったと安堵したのは、つい数十分前のことだ。

 外壁に腰を下ろしたサルヴァは、夜明けの光を浴びる町を見下ろす。ほんのりと白む景色と清々しい空気に、ぼやけた怠さが体から抜けていくのを感じた。


「はー……気持ちいいな」

「目も覚めるでしょう?」

「ああ、バッチリ」

「……無理しなくてもいいのに、来てくれたのね」

「ん? そりゃ来るよ。昨日約束したし」


 伸びをしていたサルヴァは笑いをこぼした。サルヴァ自ら早朝に来ることを決めたのだ。それでも申し訳なさそうに眉を寄せる彼女は随分と他人を思いやる性格のようだ。


「でも、さすがに毎日は無理かもしれないなー。仕事中に居眠りしたらやばい」


 自分で口にしておいて、頭に浮かんだ予想図にサルヴァは身震いした。雷が落ちるどころか、命の危機だ。

 ニーシャも、顔が引きつったサルヴァに何かを察したのか、ふ、と息を吐くように笑うと「体を尊重しないとね」と、おかしそうに言った。


「今までどおり、お互い気の向くままでいいんじゃないかしら。私も、日中来られそうなときに来てみるから」

「だな。ま、早起きに慣れるに越したことはないから、ゆるーく続けるよ。いろいろと時間も作れるし」

「そうね。――こういう自由な時間は、すごく大事」


 朝の空気に溶け込む小さな声に、サルヴァは濃紺の瞳でニーシャを見上げた。朝日にきらめく海面をまぶしそうに見つめる横顔へ問いかける。


「俺がいてもいいのか?」

「駄目だったら手を取らないわ。あなたがいても、自由に変わりはないから大丈夫」

「そっか。ならいいんだ」


 サルヴァが安堵したところで、彼女が上から覗き込むように少し身を乗り出した。


「サルヴァ、朝ご飯は食べた?」

「ん、いや。まだだよ」

「じゃあ、一緒にどう?」


 ニーシャは、突然のお誘いに目を瞬かせるサルヴァを一瞥してから、軽やかに地面へ下り立った。ひらめく絹のスカートからサルヴァが咄嗟に顔をそらしたのは言うまでもない。

 「下りるときは言ってくれ……」ぼそ、と忠告するサルヴァに「気をつけるわ」とあっさりとした言葉を返したニーシャは、柱の陰から何かを持ち上げた。

 籐で編まれた大きめのバスケットだ。

 サルヴァの右隣に腰かけたニーシャは、バスケットに掛けられている布を外した。


「お。サンドイッチ?」

「ええ。一応あなたの分も作ってきたのだけれど……」

「食う食う! ありがとな」


 サルヴァは差し出されたバスケットからライ麦パンのサンドイッチを一つもらう。パン二枚で野菜とハムを挟んだそれは、サルヴァには丁度よさそうな量だ。

 ちらりと籠の中を確認すると、同じ大きさのものがもう一つ入っている。意外に彼女はよく食べるようだ。

 サルヴァは「いただきます」と軽く頭を下げてから、本日の朝食を頬張る。

 ――次の瞬間、「む!」と声を上げた。

 もぐもぐと慌てて咀嚼し飲み込んでから、一言。


「うま!」

「……びっくりした。口に合った?」

「パンも野菜もソースもどれもうまい! ニーシャが作ったのか?」

「ええ。でも、ソースだけよ。買ったパンに、ソースと野菜を挟んだだけ」

「それでも、すごいよ。うまい」


 サルヴァは頬張りながら感嘆の声を上げた。その反応に、ニーシャは照れくさそうに身を捩り、誤魔化すようにサンドイッチにかぶりついた。

 朝食を平らげる頃には、家を出た時より日が昇り、朝明けの空を海鳥が横切る。朝が早い人だと、そろそろ動き始める時間帯だ。上空へ向けて細く揺らめく炊煙、市街をまばらに動く人影。港にはすでに帆を張る船もいる。

 サルヴァは、ニーシャが持参した紅茶を味わいながら眼下の景色を眺める。


(これはハマりそうだなぁ。一石何鳥だ……?)


 ふむ、と真剣な顔で指折り数えていると、隣で同じく紅茶の香りに身を包んでいたニーシャが、「今日も船が多いのね」とぽつりと言った。

 サルヴァは紅茶を嚥下してから口を開く。


「一昨日まで天気悪かったからな。船も出すに出せなかったし、昨日だけじゃ滞ってた商品捌ききれなかったとこもあるんじゃないかな。うちも多少は影響あったし。…………今日も書類の山か……」

「サルヴァは海へ出ないのよね」

「そ。だから事務処理のオンパレード」


 サルヴァは机の上が書類で埋まっている画を想像して、思わずげっそりとした。昨日の夕方よりはましかもしれないが、それでも大した差ではないだろう。事務処理が苦手なサルヴァにとっては、苦行と言っても過言ではない。仕事を覚えるのは楽しいが、それとこれとはまた別だ。

 細かい事務も覚えろと兄に言われてしまえば、従うしかない。自分でもうすうす考えていただけに、当時は少しばつが悪かった。

 それからは、たまに荷積みで船に乗ることがあっても海へ出ることはなく、陸での仕事へ戻るという日々。役割が変わってからそろそろ一年が経つが、すでに何年も海から離れている気がする。


「あー……俺も海に出て仕事したい……」

「……海が好きなのね」

「ああ。ずっと船で旅したいくらいにはな。ニーシャは?」

「私は……眺めるのは好きだけど、よくわからない」


 サルヴァから視線を外して海を見つめるニーシャの横顔からは、感情が読み取れなかった。


「幼い頃に、何度か船で外の街に出掛けたことがあるだけで、それから海に出たことはないの」

「怖くなったとか?」

「いいえ。その頃からお店が忙しくなって、父も母も時間がとれなくて。私も小さかったし……それからはなんとなく行く気になれなくて」


 そうか、とサルヴァは一言返した。『なんとなく』と彼女は口にするが、理由はあるのだろう。

 サルヴァはわずかに伏せられた翠色の瞳を隣から見つめる。


「あなたが携わっているお仕事は……海を渡って、色々な地域の、色々なものを繋げる仕事よね」

「ああ。自分の住む場所では手に入れられない品を求める人達とか、普及したい文化とか、知ってほしい特産品とか。そういう想いの、――橋渡し役だと、俺は思ってる」

「橋渡し役……」

「そ! まあ、『それだけでやっていけるほど甘くねぇぞもっと考えろ!』って口酸っぱく言われるけどな」


 ははっ、と後頭部に手をあててサルヴァは笑う。


「でも、その想いが間違ってるわけじゃないからさ。むしろ大前提だ。利益とか、まあ他にも色々考えなきゃいけないことはあるけど――食材でも工芸品でも人材でも、扱う品に敬意を払って、望まれるように繋いでやりたいって思うよ」

「……それは、」


 聞き逃しそうなほどに小さな声が、ニーシャの口から落ちる。

 おそらく声に出すつもりはなかったのだろう。彼女は一度唇を引き結んで、それから口元を綻ばせた。


「……あなたの言葉は、作る側の人間にとってとても貴重で、とても嬉しい言葉ね」

「そっか? …………なんか恥ずかしくなってきたな。語ってごめん……」

「あら、良い話だったわ」


 目を細めて笑みを浮かべるニーシャの反応にじわりと頬を赤くしたサルヴァは、咳払いで誤魔化すと膝を軽く叩いて立ち上がった。


「さ、さーて、そろそろ行くかな! 戻ったら丁度いい時間だ」

「そうね。私も戻らなきゃ。いつもより長居してしまったわ」


 バスケットに水筒をしまって腰を上げたニーシャは、そばに立つサルヴァを見上げると、「またね」と小さく笑んだ。

 サルヴァはそれに片手を上げながら笑い返す。


「朝食、ごちそうさま。またな」


 そう言ったサルヴァと同じようにひらりと手を振り返してから、ニーシャは背を向けた。

 草地の先にわずかに見えた道は、サルヴァが無理やり〝道〟として通ってきたものとは違い、人が歩けるように多少は整えられているようだった。


「気をつけてな!」


 山林へ入っていく背中に声を投げたサルヴァは、振り向いた彼女に軽く手を振り見送ってから帰途についたのだった。


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