碧のつなぐ先

紀田さき

第1話


 揺れる波を足下で感じながら、サルヴァは船内に積まれた荷物を確認する。

 出航前に行う、積荷の最終確認だ。


「――よし、いいな」


 過不足なく揃っている。手元の書類の下部に『サルヴァ・ディジット』と署名し甲板へ上がって、紺碧色の髪を潮風に揺らす。心地好い風に目を細めていると、船員の一人から声がかかった。


「サルヴァ、副代表がお呼びだぜー」

「兄さんが? なんだろ」

「『あ、やべ』って独り言は聞いた」

「……嫌な予感しかしない」


 すぐ下にいる、と教えてくれた船員に礼を返して船を下りたサルヴァは、視界に入った兄のもとへ駆け寄った。


「兄さん」


 サルヴァの呼びかけに、長めの襟足を一つに結んだ青年が振り向く。


「おう、来たな」

「……聞きたくないけど、なんかあった?」


 うすうす当たりをつけながら問うと、兄がにこりと笑みを作った。周りの船員が揃って「ひっ」と悲鳴を上げるのに混ざって、サルヴァも口元を引きつらせる。


「追加漏れ一件。ねじ込め」

「……断る」

「拒否権はねぇ」


 サルヴァは、ぐぬ、と息をつめてから噛み付いた。


「無理だって! 最短でも二日はかかる!」


 船積みには二種類の証明書が必要で、その発行元は関所なのだ。


「頼み込んでどうにかしろ。命令。時間ねぇからさっさと行ってこい」

「…………兄さんのそういうところは尊敬できない……」


 しっしっ、と犬猫を追い払うように促され、サルヴァは深いため息をついてから思考を切り替えた。証明書のうち一つは、寄港先の小売商に送らなければならないのだ。


「飛脚船、つかまるか……?」


 必要な手続きを頭で組み立てながら踵を返したサルヴァの背に、複数の船員の声が飛ぶ。


「すっかり事務仕事が板についたなァ!」

「はやくそっちの仕事完璧にして戻ってこいよー。お前の船で働くの楽しみにしてんだ」


 以前は兄の補助として海に出ていたが、当然、それでは一端の商人とは言えない。商家の人間として船員を率いるには、一から十まで仕事を網羅する必要があるのだ。

 サルヴァは振り返って、にっと笑った。


「まだまだ修行の身だよ!」


 日々が楽しい。海を渡り、それがあらゆるものを広げる道へつながると知っているから。


「……とは言っても、こういう無茶ぶりは全く楽しくない……」


 なんとか証明書を手に入れて滑り込みで無事に出航を見届けたサルヴァは、げっそりとぼやいた。拝み倒してなんとか対応してもらえたものの、こんな無茶な手続きは、しばらく遠慮したい。


「ふー……久しぶりに行くかぁ」


 まっすぐ昼休憩に入っていい、と先輩事務員から労いのこもった言葉をもらっている。

 サルヴァは迷いない足取りで、ある場所へ歩を進めた。



 ***



 雪が溶けた山道は初草と小さな花々で彩られていて、萌え木はみずみずしい色を透かして並び立つ。

 サルヴァは軽い足取りで山道を登っていく。迷うことなく足を進めるその先で、一等好きな景色を一望できるのだ。その場所を知ってからは季節関係なく頻繁に足を運んでいたが、ここ最近は時間がとれずにいたため久しぶりだ。


(晴れてるし風もちょうどいい。航行日和、散歩日和だな)


 よっ、と軽い一声と共に岩から岩へ足を掛けて上っていく。

 この山は緩やかではあるものの、目的地への主要な道には岩や石崖もあり、平坦とは言い難い。整えられた道もあるようだが、入山口が遠いため、サルヴァは使ったことがなかった。

 山の中を進んで行き樹木の並びが途切れると、その先にひらけた空間が現れる。外壁と思しき残骸が一部取り残されており、はるか昔に誰かの別荘か何かがあったのかもしれない。それくらい、景色の良い場所なのだ。どこまでも広がる碧い海が眼下に一望できる。

 贅沢にも、今日もその景色を一人で満喫するはずだったサルヴァは、定位置である外壁の残骸の近くまできて、不意に足を止めた。

 崩れた外壁のそばに立つ一本の円形の石柱。その天辺に、少女が腰かけている。

 風景に溶けこんでいて気がつかなかった。

 背中で風に揺れるコバルトブルーの髪。まるで大海で揺れる波のようなそれに、サルヴァは目を奪われた。


「こんにちは」


 そよ風に乗って届いた声は、涼やかだ。綺麗な声で紡がれた言葉が宙に漂う。 

 少女の視線が、サルヴァへ注がれていた。


「………………あっ、俺だよな。こんにちは」


 珊瑚礁の海を思わせる透き通った翠。その双眸が、ぱちりと瞬く。

 表情は薄いが整った面立ちだ。性別関係なく視線を集めるだろう容姿だが、サルヴァは初めて見る顔だった。


「ここでほかの人に会うのは初めてだ。君もよく来るのか?」

「ええ。いつもは、早朝とか夕方に」

「なるほど。それなら会わないはずだ」

「あなたは?」

「俺は、ほとんど昼かな。たまに夕方もあるけど」


 早起きは苦手なんだ、と眉を下げて笑いながら、サルヴァは外壁の残骸に浅く腰かける。

 眼下に広がる、密集する木々の緑と石造りの町並み。港に停泊する船。陽の光を反射して輝く青々とした海。その景色は見慣れたものだが、相変わらず綺麗だ。

 サルヴァが左隣の石柱を見上げると、絹のスカートから伸びる細い足が視界に入った。短いブーツが、ゆらゆらと揺れる。

 仰ぎ見た先の少女は、気持ちよさそうに目を細めながら視線を正面へ真っ直ぐ投げていた。遠く先の海面を見ているのだろうか。


「普段もそこからか?」

「ええ。高いところからの方が、もっとよく見えるから」

「それはわかるけど、よく上れたなぁ」

「その外壁を使えばなんとか。……でも上ってる姿は人に見せられないわ」

「ははっ、じゃあ俺はこの時間に来て正解だな」

「ふふ。そうね」


 笑い声と共にわずかに緩んだ少女の横顔につられて、サルヴァはもう一度軽やかに笑った。


「港の東側、あそこで働いてるんだ」


 サルヴァは、港近くの倉庫や建物が集まる区画を指差した。


「商家なのね」

「ああ。俺のところは交易を中心にしてる。船で各地に行って取引してるんだ。――っていっても、俺は船外でのサポート役だけどな。裏方も勉強しろって言われててさ、もう一年近くは乗ってないんだ。君は?」

「……私は、あっち。広場から西にそれた辺り」


 白く細い指が、左方に振られた。

 彼女が指し示すのは、港から北へ伸びる道を上がった先の、中央広場のある区画だ。

 広場の中央には噴水が間断なく流れ、それを眺めるようにベンチが外周を囲んでいる。さらに広場の中心を挟むようにさまざまな商店が立ち並び、憩いの場や待ち合わせ場所として利用されてるそこは、いつも人で賑わっていた。

 そこから西に入れば、衣服や装飾、雑貨などを扱う店が多かったはずだ。

 服装や身の回りの物にあまり気を遣わないサルヴァには、馴染みの浅い区画である。


「何を売ってるんだ? それとも作ってる?」

「どちらも。装飾品を扱っていて、作った物を売りに出してるの」

「へぇ! じゃあ職人か」

「ええ。でも私はまだ全然。最近やっと商品として並べる許可が出たけれど、まだまだ一人前には遠いわ」

「じゃあ、一人前目指して修行中か」

「そうね」

「そっかそっか。じゃあ、俺も似たようなもんだから修行仲間だ。お互いがんばろうな」

「――……」


 翠色の双眸を瞠る少女に、サルヴァは「なっ」と笑いかける。一瞬、少女の表情が強張ったように見えたが、そうと判断する前に彼女は小さく相好を崩した。おかしそうに眉を下げて、目を細め、控えめな笑い声と共に、「……そうね」とうなずいた。

 その瞳が、太陽の光できらめいている。穏やかに水面を揺らす海が、そこにあった。サルヴァは視線を外せなかった。

 その時、ふと少女が空を見上げた。


「そろそろ戻らなきゃ」

「んっ?」


 我に返ったサルヴァの目の前で、少女が軽々と柱の上から飛び降りる。慌てて腰を上げるも目の前で危なげなく着地した彼女に、サルヴァは「……お見事」と、中途半端に差し出した手をそっと下ろした。

 まだこの場に留まるつもりのサルヴァは、彼女へ明日も来るのかを尋ねようとして、はたと気づく。

 なあ、とスカートの裾を直す少女へ声をかける。

 首を傾げて続きを待つ少女に、サルヴァはへらりと笑った。


「名前、聞いてもいいか?」

「あ」


 そうだった、と音にならない声が聞こえた気がする。お互いに名前を知らずに会話を続けていたとは、なんとも間抜けな話だ。


「俺はサルヴァ。君は?」

「ニーシャよ」


 ニーシャ。サルヴァはうなずき、確認するように彼女の名前を声に出す。それから、おどけた調子で続けた。


「修行仲間兼友人、っていうのはどうだ?」

「ふふ。そうね、私もそれがいい」

「よかった。それじゃあ、」


 右手を差し出して、サルヴァはニッと笑う。


「これからよろしくな、ニーシャ」

「――こちらこそ、サルヴァ」


 涼やかなほほ笑みと共に重ねられた手。その細く繊細で、使い込まれている手を、サルヴァはしっかりと握り返した。

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