【桃田 直美/『死ぬ途中の日々』・4】
あたしは寮に戻る。ここからの流れはもう決まっている。まずは食事。
一年生は一八時~・二年生が一八時半……と時間が割られていて、生徒が流れるように入る。食堂には寮長、学園の教師が数名監視するように歩き回っていて、あたしたちは口をきくこともない。秋元メルでさえ、無言のままだ。
誰しもが、監視状態を息苦しく感じるだろう。
でも、あたしはむしろ気が楽だった。
誰とも喋らなくてもいいし、秋元メルも当然寄ってこない。
全員が揃うと、秩序への回帰を目的とした『理念の時間』が始まる。
学校が掲げる理念を全員で唱えるのだ。
「一つ!」
寮長の合図。あたしたちは立ち上がる。
『社会の秩序の一端を担うべく、礼節を重んじ、弱き人をも尊ぶ心を持て』
入学当時は揃わなかった声も、二年生になった今では寸分違わず揃っている。喉がすり切れるような大声なのにずれがなく、一つの塊となって部屋を包む。
「一つ!」
『秩序とは隣人と足並みを揃えることに非ず。風のごとく静かなる意思を湛えた女性となれ』
あたしたちは両手で机を叩き始める。リズミカルに、何度も。理念を唱える声と、激しい音の渦が頭を真っ白にする。
「ラスト!」
寮長が鋭く叫ぶ。
『秩序を貫き、自ら社会の対局となれ!』
全員が手を止め、口を噤む。さっきまでの激しいうねりが立ち消え、息をのむ静寂が生まれた。
理念?
下らない、と最初は誰しもが思ったはずだ。今でも、内容一つ一つを吟味して、感銘を受けているわけではない。どれもこれも、傍から聞けば大げさで歯が浮くような内容であることはわかっている。
ここの誰が「弱き人をも尊ぶ心」を持ち、「静かなる意思」などを讃えている?
ただ確実に言えることは、あたしはこの時間に確かな快感と安らぎを覚えていることだった。
音のうねりに身を預けている間は、孤独じゃない。大嫌いなはずのクラスメイトに混ざり合うことに快楽を見いだしているのは、自分でも異様に思うときもある。
それでも、心も体も、縋り付くように孤独を埋めようとしているのだ。
……秩序、か。
あたしは確実に、そこに向かって大きく揺らいでいた。染められてしまいたいと願っている。怖い。けれど、白に染められ、消えてしまいたいという欲望が止まらない。
静かに滅びたい、という願いだ。
食事はすぐに始まらず、寮長があたしたちの席の間を縫って歩き出す。まだ三〇代くらいの女性だが、その厳しい表情は、年齢相応の若々しさを押し殺しているようだった。
寮長の足が止まる。誰かが息をのんだ。それさえ、はばかられる沈黙。
「貴方いま、手を抜いたでしょう? この場所だけ、声の波が乱れていた」
「えっとぉ……あ、今日ちょっと風邪気味かも」
目をつけられたのは、チャッスだった。
焦って言い訳を並べる。
いい気味だと笑みがこぼれる。が、情けなくなる。こんなことしか、あたしの楽しみはないのか。
「体調管理を怠った貴方の責任よ」
――パン。
チャッスの頬へ、容赦のない張り手が飛ぶ。
「す、すいません!」
「一つ」
寮長が呟くと、彼女は大声で再び理念を唱える。
一瞬そこを見ると、今度は教師が、あたしの肩を竹刀で叩く。
声が漏れそうになるが、どうにか飲み込む。肩がジンジンと痛むのを、歯を噛みしめて堪えた。
あたしたちは、まともな人権を与えられていない。
けれど、こんなことはさして苦痛じゃない。
今日が終わる。
それだけで何かを成し遂げた充足があった。部屋で眠るときだけは、あたしは独りになれる。
だが、その安寧が今日、崩されようとしていた。
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