【桃田 直美/『死ぬ途中の日々』・3】

 トイレの鏡を見つめる。顔中が雑巾でひどい臭いだ。顔を水で洗う。

 息をするタイミングで水をかけてしまい、気管に入る。咳き込む。涙が出てくる。息をするタイミングさえ、あたしはわからないのか。生きる才能がない。

 再び、鏡を見る。

 顎のラインがダブダブとした贅肉で隠れていて、妙に丸い目だけが、あたし自身を不思議そうに見つめている。目をこする指も、ぶくぶく。芋虫めいていた。

 ――ビチョビチョダルマブタ?

 泣きたくなった。

 ぴったりじゃないか。

 あたしは生まれてから、自分が思った通りに、好きなように呼吸をしたことさえ、ない気がする。

 太っていることだけが原因ではない。

 あたしの顔?

 性格?

 声?

 それとも、秋元メルの言う獣じみた体臭?

 何が、あたしをみんなが見下す理由なのかはわからない。

 けれど、あたしは子どもの時から、当たり前のようにクラスでいじめに遭っていた。

 なぜだろう。

 たまに、仲良くなれたと思った友達がいても、すぐに離れていく。どこでもいじめられる。巻き込まれるのが嫌で、去って行くのだ。

 あたしを庇ってくれることもない。それだけの関係だったのだろう。

 この学校に入学することになった理由も、そのせいだ。

 あたしはクラスの優等生ぶった不良たちに、万引きを強要させられていた。

 しかも、別にそいつらが欲しいものでもない。コンドームとか、妊娠検査薬とか。盗んだのがばれたら、あたしが恥をかくためだけに選ばれた品々。

 本当のただ、あたしを苦しめるためだけにある時間だった。

 意味がわからなかった。

 なんで、限られた自分たちの自由な時間を、嫌いなあたしのために使うんだろうって。

 あたしの常習的な万引きが判明すると、教師は両親に秋桜学園への入学を勧めた。

 失望していた両親は喜んだ。あたしが、まともな人間になるチャンスがあるのだと。

 あたしは勧められるなり、迷わずこの学校への入学を受け入れた。

 そのとき、大きな勘違いをしていた。規律正しい学園ならば、あたしをいじめの類から守ってくれるのではないかと。

 思い違いだった。規律=善ではない。

 学園の規律は徹底的にマニュアル化されていて、ルールを守ることで確実な更正が望めると信じられている。

 規律を守ること。それは逆に、何をしていたってルールさえ守っていれば正義となる場所なのだ。

 実際はいじめの温床として、前にいた学校以上の悲惨さを持っている。

 一般常識が、ここには介入できないからだ。

 秋元メルは、学業は優秀な上、理事長の孫だ。

 何ら問題のない生徒。

 誰かをいじめてはいけないと、生徒手帳には書かれていない。

 秋元メルは、あたしたち一般生徒とは根本的にここに至った経緯が違う。何か問題があり、親や親族に更正が必要だと判断された人間ではない。

 体面上どういう風に言ったのかはわからないが、真の目的はすぐにわかる。この掃きだめのような学校で、唯一無二の存在として君臨するためだ。

 秋桜学園自体が、居場所にない人間の集まりだというのに、あたしはここでも居場所がない。

 秋桜を卒業するまで、あと一年半。息を潜めていられればいい。闘わないことが、あたしの闘いなのだ。

 チャイムが鳴る。居残りを許された放課後が終わる。

 今あたしを救うのは、この学園で唯一常識的な存在である「時間」だけだった。

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