【桃田 直美/『死ぬ途中の日々』・2】
「ね、桃田さん。教室、くっさいんだけど。なーんで?」と秋元は私に尋ねた。
なんで?
粘着質な質問。
あたしだって、ペンキのシンナーの臭いに目眩がしている。鼻の奥にこびりつくようだ。
「ね、なんでなんで?」
はしゃぐような声。恋人に甘えるような。いや、彼女にとっては、誰かを傷つけることこそが甘美な時間なんだろう。
「……あ」
声が出ない。声帯が硬化してしまったようで、短い息を漏らすのが精一杯。
あたしは思わずペンキをじっと見る。
――だって、秋元さんがペンキで看板やれって言うから。
そう反論したくて仕方がなかった。
秋元メルやその仲間に囲まれると、声が出なくなる。
「え、なに? ペンキ? ダメじゃーん、人のせいにしちゃ」
秋元メルは声を一段高くする。何が楽しいのか、まるでわからない。
「メルうける、ペンキは人じゃないって」
何も面白くない。でも、みんな笑っている。
「責任転嫁は、この学園の理念にふさわしくありませーん」
秋元メルはそう言って、血よりも赤いペンキの入ったバケツを蹴り倒した。白い床に零れたペンキは美しく映えた。こんな状況でも、息を呑むくらいに。
「ペンキとかじゃなく。くさいんだよね、なんでだろうね?」
「……」
あんたが臭いんだ、とはっきり言われる百倍悔しかった。
「ですよね、メルさん!」
「うっさいよ、チャッス。声でかい」
「すんません!」
秋元メルの周囲の人間の名前は把握できていないけど、『チャッス』と呼ばれる生徒だけはある理由から同定できていた。
金魚の糞。秋元メルより、嫌悪しているかもしれない。
「ほら、ふけよコラぁ!」
チャッスがあたしに怒鳴る。
あたしはチャッスではなく、秋元メルに怯えているだけだ。
内心で言い訳をしながら、焦ってバケツを起こす。
零れたペンキが床に染みついたら、あたしのせいになる。秋元らの言いなりではなく、そう言い聞かせて行動を起こした。
這いつくばってペンキを手で掬い、バケツに戻す。
「……」
雑巾でペンキを拭き取ろうとする。駄目だ。落ちない。いや、根気よく擦れば。
……なんで、あたしがこんなに必死にならなきゃいけないんだろう?
あたしのせいじゃないのに?
すると、秋元メルはその雑巾を奪い取り、あたしの顔に擦りつけた。鼻が痛い。潰れる。臭い。シンナーと、湿った埃と生乾きの雑巾の臭い。
「くさいのはペンキじゃないよ? ほら、ひどい汗じゃん。あーもう、ジビエのにおいしてきたぁ」
どうしてそんなに無邪気に笑えるの?
「……」
あたしの汗はさらに滴り落ちる。
獣。
獣だったら、どんなによかっただろう?
闘いを挑んで散ることができたら、どんなに清々しいだろう?
「ね、ビチョビチョダルマブタちゃん?」
秋元メルはあたしに笑いかけた。
……沈黙。
それは、あたしのこと?
「さすがにメルひどくなーい?」
「いえいえ、メルさんギャグセン高いっすよ!」と、チャッスが周囲に負けじと大声で秋元メルを讃える。クラスメイトなのに丁寧語なの、なんとかならないの?
「え、ひっど。うち、桃田さんと仲良くなりたいからあだ名つけただけなんだけどなー?」
あたしが大きく咳き込み、吐き気をもよおしてえづくと、メルは「うぉ、なんか産まれる?」とおどけた。
追って、教室の笑い声。
産まれ続けているのは、悪意と憎悪。
でも、それは流れ堕ちてしまう。
心が痩せ細っていたあたしには、悪意さえ育てる土壌がなかった。
トイレへと駆ける。あたしの背中に、また笑い声。
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