【桃田 直美/『死ぬ途中の日々』・5】
「本橋さん。その髪は明日までに染めなおしなさい」
あたしが自室に戻ると、寮長と、見知らぬ黒髪の女の子がいた。やせぎすで色が白く、生気のない表情。そのくせ大きな瞳だけは、静かな怒りに満ちているように光っていた。
本橋さんというらしい。髪の色で、すぐにこの学校の生徒ではないことがわかる。
転校生だろう。
「そのうちやるんで、ほっといてもらえますか」
本橋さんの言葉には、関西の訛りがあった。
「今日やるのよ」
寮長は、手に提げているビニール袋を本橋さんに無理矢理持たせた。洗髪料のボトルが透けて見える。
冷たく醒めた目つきで、本橋さんが見返している。緊迫した空気で、あたしは言葉を挟むことさえ許されなかった。
いや。
この学校にきて、反抗的な生徒はいても、そのうち飼い慣らされてしまう。
お疲れさま、本橋さん。
「……」
「返事をしなさい、本橋さん」
寮長は躊躇いなく、彼女の頬をはたいた。本橋さんは一瞬あっけにとられていた。それはそうだろう。
理不尽だ。
でも、ここにいると理不尽さにも慣れてしまう。
我に返ったのか、本橋さんも目に怒気がともり、強く拳を握りしめるのがはっきりとわかった。
本橋さんは、洗髪料のボトルを壁に投げつける。ひしゃげた容器から、部屋中に白濁した液体が撒き散らかされた。が、この部屋は元々白く染められている。
もっと。もっと、白く染めてほしい。もはや中毒だ。
「貴方は、これ以上ご家族に心配をかけるつもり?」
「……それは」
途端、本橋さんの力が抜けていくのを感じる。家族に対して思うところがあるのだろうか。
「明日までにやりなさい。わかった?」
寮長は返事を待たず、本橋さんから目を切り、あたしに「色々教えてあげて、桃田さん」と素っ気なく言い残した。
つまり、彼女はルームメイト。
……ついに、このときが来てしまった。
「えっと、本橋、さん?」
あたしの視線に気づくと、本橋さんはつまらなさそうにあたしを見た。
あぁ、気の毒に、としか思わなかった。
転校生。
大方、不良で問題でも起こしたのだろう。反抗的な態度は、もって二週間か。
暴力を躊躇いなく振るい、無理矢理にでもルールに従わせる。
秋桜に来るまで、あたしたちは甘えた世界に生きていて、あれでも尊重されていたのだと、初めて気づくのだ。
「……」
無言。あたしも黙るしかない。
二人ひと部屋が基本ルールなのだが、人数の都合上、誰か転校生が来るまではあたしは部屋をひとりで使うことができていた。
聞いたことがある。
あたしみたいに突然ルームメイトができる場合にも、前もって通知はないのだと。
気遣いなど、あたしたちに向けられるはずもないのだ。
たまらなく憂鬱な気分になる。あたしがこの学園にいられるのは、寮でのひとりきりの時間が存在するからなのに。
本橋さんは、ひどく生気のない顔をしていた。いや、ここに来る人間で、まともな希望を持ってくる生徒などいない。
「上、使てもええ?」
本橋さんは短く尋ねた。
「……うん」
白く透き通った肌をしていたが、目元は赤黒く腫れていた。ここに来る前に、殴られた痕だろう。
本橋さんははしごを軽やかに上り、二段ベッドの上に向かった。
長く伸びた手足は華奢だったが、全身にバネを感じさせる動きをした。
あたしは時計を見る。九時。就寝時間だ。
「……」
消灯されて目をつむり、まどろんでいた中、本橋さんがうなされて起きる気配を感じた。
彼女のなかに、トラウマがあるのかもしれない。
そんなことはどうでもよかった。
この部屋で、お互い距離をとって、干渉せずにやれたらいい。ここで過ごす時間が早く過ぎてしまうのを願った。平等に流れる時間の残酷さを呪いながら。
早く卒業したい。でも、卒業して、何をしたいのかもわからない。秋桜を卒業したって、大学なり職場なり家庭なり、どこかにいなくてはいけない。
ずっと、一生、救われることはない。
あたしはどこにいたって、逃げたいと願うだろう。
息を潜め、目をつむって駆け抜け続ける。
そんな風に過ごすうちに、人生がいつの間にか終わってくれていたらいい。
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