モルヒネ中毒
やもっけ
モルヒネ中毒
北風が正面から吹きすさんで行き先を阻もうとするなかを、私は一人で職場からの帰り道を歩いていた。頬と耳がじんじんとし始めてようやく、しっかりと巻きつけたはずのマフラーが首元までずり落ちていることに気づい私は、もう一度マフラーを、頬を守るように巻きつけ直した。
私が故郷から離れ、都会に来てから十年ほど経つ。その間も、政治に批判的な評論家たちはこぞって主張していた。政治家たちは、国の抱える問題を解決することを先送りにし――つまり、厄介事を後世の者達に丸投げし――目先のことしか求めない有権者達にとってわかりやすいパフォーマンスしかしていない、そのせいでこの国の抱える問題は悪化の一途をたどっており、この国は着実に危機に瀕している、と。
私はそれを耳が麻痺するほど聞いたが、しかし、もはやその主張は私に新たに危機感を抱かせるほどの新鮮さを失っていた。ただ私に、漠然とした不安と焦燥感を抱かせるのみであった。
帰宅するとベッドに横たわっている小さい母の姿が目に入った。
母は重度の癌だと宣告されたのは数年前、私が故郷をでてしばらくしてからのことだった。私は、病院に入ればいくらでも寿命を伸ばせると言って母を説得しようとしたが、母は固い意思で延命治療を断り、住み慣れた土地を離れて私と共に暮らして在宅医療を受ける方法を選んだ。
まだ母は寝ていると思っていたが珍しく起きており、こちらに顔をむけた。《ああ、おかえりなさい・・・》
母の頬はこけ、声もしゃがれてしまっているが、その目が穏やかであることに私はいささか救われた気持ちになった。《うん、ただいま》《今日、お医者様がいらっしゃってね・・・点滴を外しながら、顔色がいいですねって言ってくれたのよ》《そうか》《このベッドから出られないのが残念だわ。それができたらお母さん、洗面所まで行って、自分の顔が見られるのに・・・。あんたが女の子だったら、手鏡の一つや二つ、もっていたんだろうにね・・・》《そんなこといわれても困るよ。大体、鏡で自分の顔を見てさ、思ったよりも顔色が良くなくてショックを受けたらどうするのさ》母は笑った。《まあね、でもそのときはそのときよ》私も笑ってみせた。
私の部屋の机の上には、医者が置いていった診断書があった。前回よりも少しモルヒネの投与量が増えている。入院した当初は僅かな量の投薬でもかなり不安になったものだが、数年の歳月がたった今、慣れというものだろうか、当初の何倍にも増えた投薬量の数値を見ても、私は強い不安を感じなくなっていた。
モルヒネの投薬量が増えると眠っている時間も増えてしまい、自然と会話も減ってしまうのだが、母が苦しまずに済むならそれでいい。
本棚に近づき、今までの診断書をとじたファイルを開いた。紙をめくって今に近づくにつれてモルヒネの投薬量の数値がほぼ規則的に増えていっている。ガンの進行具合とモルヒネの投薬量はほぼ比例しますよ、と私に告げた医者の言葉が頭をよぎった。
少しばかり開けている窓から冷たい風が部屋に吹き込んできた。窓の月明かりが診断書の紙の白さをより際立たせている。突然私は漠然とした不安を覚えた。それが何に由来するものなのかは分からないが――
世間は、母を病院に入れなかった私を決して非難はしないだろう。母の病気は何ら回復していなくても――むしろ悪化していても、母はモルヒネのおかげで苦しんではいないのだ。それで母が幸せを感じてくれているのなら、私はそれで構わない。モルヒネのおかげで母が苦しまずに済んでいるのは事実なのだ。実際、母の顔立ちは変わってしまったが、穏やかな目や話し方は、私の幼いころの記憶のままではないか。
なぜだろう、不安で胸がつまりそうだ。経験から言ってこんなときは一人でいないほうが良い。私は母のいるリビングへと足を向けた。リビングへ行くには、足元も見えないような暗い廊下を歩かねばならない。
モルヒネ中毒 やもっけ @yamokke
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