第4話 鉄の女
「どわははははは」マルブランクの笑い声はひときわ大きかった。初めて会う人間も巻き込んで、酒場に地鳴りが起きるくらいに騒いでいた。
酒を出す者がいなかった。酒場のマスターもカウンターを回り込んで座ってしまっている。後ろのテーブル席の職人連中も、酒場のウェイトレスも、大概の皆を巻き込んで大騒ぎしていた。
そこら中に酒瓶が転がっていて、マルブランクも自分が何の酒を飲んでいるのかも分かってなかった。
「あんた、面白いねえ。それに物知りだねえ」酒場の主人もカウンターに頬杖をついて笑いこけていた。
「普段よっぽどつまんねえ営業してんだな!」マルブランクはそう言うと放屁した。そしてまた怒号みたいな笑い声。
「そのペースで飲んで大丈夫かい?」酒場のマスターの奥さんが言った。
「んん?まあ、もう手遅れだな。ぶっ倒れるのはいつもの事よ」マルブランクは手元に酒がなかったので水を飲んだ。
バロム伯領の城下町は山に囲まれた盆地にあり、自然の要塞みたく川や断崖に囲まれていた。なので人口が比較的多く、整備された綺麗な街並みだった。
酒場の戸が開いた。
マルブランクはそちらを見なかったが、酒場のマスターは見たらしく、何やら咳払いをしてかしこまる。そして誰かが入って来るブーツの音がするや立ち上がってカウンターの向こうに回った。マスターだけではない。さっきまで騒いでいた周りの皆が各々席に座り直し、部屋がしんと静まり返る。
マルブランクの3席向こう、カウンターが折れてすぐの席に女が座った。
それがまたこの世のものとは思えぬような切長の吊り目をした美人で、長くて毛先がカールしたブロンドをなびかせ、長くて優雅なまつ毛。
見事な長身のプロポーションをしていたのだが、身に付けているのは革の甲冑。その上からバロムの上っ張りを着込んでいて、手袋にロングブーツと全身肌を露出していない。
何より目を引くのは美しい顔の額から左頬、顎にかけて奇妙な鉄のマスクを着けている事だ。左目は微かに空いた穴から見える程度で、鼻の横からほぼ左半面が鉛色の薄板で隠されている。
「おい、いつもの」女は椅子に座るや静かにそう言った。マスターは軽く頷くと、さっきとは打って変わって緊張した様子でグラスに葡萄酒を注ぐ。そして静かに差し出すと、女は手袋をしたままグラスを掴んだ。
皆、この女を知っているのだろう、とマルブランクは察しがついた。
少しして、皆がひそひそ話し出す。女はどこを見るでもなく正面を向いて黙って酒を飲んだ。
「可愛いファッションだね」
酒場が凍りついた。マルブランクが女に話しかけた声はそんなに大きくなかった、はず。
「ファッション?」女はブロンドの隙間から横目で、丸い頭の鼻の低い小男を見た。
「ファッションじゃないのかい?」
マスターがマルブランクの前ににじり寄る。
「あんた、私のどこを見てそう言ってるんだい?」
「まあまあ、一杯おごるぜ」マルブランクが隣の席、女の方に移ろうとした時、女は座ったまま腰に手をかけた。腰には細剣。立派な装飾が入った鞘だ。
マルブランクは動きを止めた。酒場中の人間が息を呑む。
彼女の事を知らぬ者は街にはいない。
「何をファッションと?」女は静かに燃え上がる。
「左手の手袋の中だよ」
女はテーブルについた左手の緊張を解いた。細剣を右手で抜くふりをして、左袖からナイフを抜き出そうとしたのだ。
しばしの沈黙。酒場のマスターの奥さんも肝が冷える思いだった。
「ふん」マスクの女は両手をカウンターに投げ出して、グラスに手をやった。
酒場が音にならない息を漏らし、やっと張り詰めた糸が緩んだ。
しばらくマルブランクも女も無言で飲んでいた。マスターと奥さんは洗い物をしたり、テーブル席にツマミや酒を運んでいる。
「あんた、綺麗だね」マルブランクは座った目で女を見つめていた。いつの間にか彼は女の1席向こうまで来ていた。
「あほなふりする奴は嫌い」女はマルブランクを見ない。
「ふりじゃねえよ。それの下見せてよ」マルブランクは今にも寝そうだった。
女は先程見破られたのが悔しかったのか、今まで数えるほどしか見せたことのないマスクの下を、あっさりとマルブランクに見せた。それは酒場の他の誰にも見えない瞬間。
「こんな傷跡が身体中にあるよ」
これを見せて、まともに目を見て話できるやつなんていなかった。
この時まで。
「やっぱ可愛いじゃないか」
今まで人の目には敏感だった。彼女は思った。この人のこの目つきは嘘を言っていない。
「馬鹿みたい」
「マスター、こっち来なよ!」マルブランクはゲップをした。
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