第4話 平和な日常

 「とは言ったものの…一体何から始めればいいのかしら。」


 「クラウゼ君。クラウゼ君!」


 「は、はいっ!」


 ハッとして前を見ると、先生や生徒たちが怪訝な顔でこちらを見ている。


 「珍しいですね、あなたが授業に集中していないなんて。模範生なのですから、しっかりしてくださいよ。」

 「す、すみません…。」


 そうだ。アイリーン=フォン=クラウゼは「完璧な令嬢」であり続ける必要がある。マデラインに付け入る隙を与えてはならないからだ。すべての人から“ヨハンス王子様にふさわしい婚約者”として認められていることは、強みである。婚約破棄されて当たり前だと思われないよう、今まで通りに完璧に振る舞わなければならない。


 「先生、ごめんなさい。どの問題を解けばよろしいでしょうか?」


 先生から指示されると、アイリーンは颯爽と黒板の前に立ち、今日の授業で最も難解な数学の問題をサラサラと解いてみせた。昨日、夜遅くまで予習してきたので、スムーズに手が動く。


 「すばらしいね、さすがクラウゼ君!一瞬で名誉挽回だな。」


 おおーっと歓声が上がる。


 「そう、私はこうでなければならない。なぜなら私はヨハンス第一王子の婚約者であり、未来の王妃だもの。」


 誰よりも優れ、誰よりも支持を得られる女性であり続けることが、もはや彼女のアイデンティティーであり、義務でもあった。


 「ふう…何とかなったわね。」


 休み時間にアイリーンは窓際の席から中庭の噴水を見下ろしながら、一息ついた。すると、噴水にマデラインがやってくるのが見えた。石でできた噴水のわきに座り、かがみこんでいる。靴紐を直しているようだ。


 「マデライン嬢…。あんなに可憐な姿なのに、本当に敵国のスパイなのかしら。でも、この記憶に間違いがないことは確かだわ。騙されちゃだめよ」


 アイリーンは姿勢を正す。


 「アイリーン嬢。」

 「クローヴィス様。」

 「やっぱり今日は何だか調子が良くないね。何かあったでしょ?」


 幼なじみであるクローヴィスは、昔からアイリーンの変化に敏感だ。隠していても、すぐにこうしてバレてしまう。


 しかし、クローヴィスにこのことを話すわけにはいかなかった。だって、ここがゲームの中の世界で、マデラインが敵国のスパイだなんて、言っても誰が信じるっていうの?私自身、今でも信じられないくらいなのに…。


 そう思って、アイリーンは


 「少し体調が悪いみたいで。でももう良くなってきましたわ」


 と、ごまかしておいた。


 「そうか…。何かあったらいつでも相談してくれよ。もし早退するなら、付き合っても良い。」

 「大げさですわ。少し寝起きが悪かっただけです。」

 「君は本当は朝が苦手だからね。」


 クローヴィスはなぜか嬉しそうに微笑んだ。昔はクローヴィスとの遊びの約束によく遅刻していた。急いでかけつけ、転んだこともしばしばだ。おかげで、クローヴィスにはよく「おてんばリーナ」とからかわれていた。


 そんなこと思い出さなくていいのに、と、アイリーンは少しふくれてみせた。しかし、このやりとりを楽しんでもいた。この平和を守らなくては…と、改めて決意する。

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