貝楼裂異聞

磯崎愛

私たちの先達にしてプロジェクト顧問であった方々へ――

 

 先程、あなた方が顧問を降りられたと聞きました。いてもたってもいられずお便りさしあげる無礼をどうかお許しください。

 私は三年前にこのプロジェクトに正式参加いたしました。「貝楼裂」という絣織【かすりおり】の調査のため貝楼諸島へ向かう船でこれを書いています。

 あなた方と関わりのある日本が、かつて絣王国と呼ばれていたのをご存じでしょうか。イカット(IKAT)という言葉には聞き覚えはありますか。マレー語の「括る・縛る」という意味です。二十世紀に入ってからは、絣の織物自体をさすようになりました。

 絣とは、織物の模様を作るための技法のひとつです。糸を縛って染色すると括られた部分のみ白く残ります。そのため日本では飛白と書いたりもしました。

 「貝楼裂」は、法隆寺に残る名物裂「太子間道」によく似た経絣【たてがすり】です。水戸徳川家以前の来歴は定かではありません。写真で見ると経糸は赤黒橙紫白の五色、おおらかな曲線は日の沈む海の波紋にも、艶やかな貝の模様にもたとえられています。

 不躾ながら、報告書に記載されるはずもない私事をお話しさせてください。

 私に各谷【かぐや】と名付けたのは母でした。筑波山に飛来して人々に機織りを教えたという欽明天皇の皇女の名前です。

 母は織女【おりひめ】でした。私は揺籃のまどろみに、とんとんからりという機織りの音を聞いて育ちました。筬【おさ】を二度打つ音と杼【ひ】についた車の廻る音がして、母の姿を見なくとも安心して眠れました。

 母はなんでも自分でやらずには気がすまず、糸を紡ぐところに始まって、藍甕を使った染色はもちろん、杼を渡すための綜絖【そうこう】に経糸【たていと】を通す作業などもしていました。初めて括り糸をほどいたときの母の安堵と驚き、そして強い歓びの混じりあった吐息の熱さは忘れられません。機織りは織物の数多くある工程の最後のものです。糸くずの四隅にたまる部屋でそれを掃き清めながら、母の手足が機をあやつって一心不乱に織物を仕上げていくさまを飽かず眺めました。鶴の恩返しという民話を思い起させるほどの横顔でした。整経台【せいけいだい】にあった時はところどころ色が違うだけの糸が、緯糸【よこいと】とあわさって十字や亀甲を作り、それがさらに雪輪や雲、牡丹や菊花といった模様になるのが私にはとても面白く思えたものです。

 織りあがった反物の多くは大学の研究所に届けられました。けれども試作品のいくつかはすぐに仕立てられ、私のものになりました。藍染の紬はたいそう軽く、あたたかく、まるで母の掌のように私を包みました。

 祖母もまた織女でした。木に経糸をつるす形の原始機にはじまり、絨毯を織る大きな垂直織機も手掛けました。錘機【おもりばた】とも呼ばれるそれは織り手の技術によって自在に文様をつくりやすいため、凝り性の祖母には向いていたようです。そのせいか、私が絣の研究をしたいと言ったとき、祖母は自分が機械機をやればよかったかしらねえと呟いたものです。自動織機を追い求めた豊田佐吉の生涯に強く感じるところがあったそうです。世界一の自動車メーカーとなったトヨタは、佐吉の起こした豊田自動織機製作所が始まりです。

 祖母や母と同じく私も織女になるはずでした。書物や写真、動画に残されていない織機は数多く、機織りについて、または女たちの手仕事についての研究は十全には程遠いのが現実です。それはきっとジェンダーの不均衡によるものかもしれず、または芸術家を持ち上げ職人を下に見るひとたちのせいに違いなく、私は度々不平を唱えたものです。母はそういうとき曖昧に微笑むのが常でした。思うところがあるのは知っていました。けれども不満を口にしなかった。絣模様がきっちり合うように身仕舞いのうつくしい織女でした。

 そんな母にぴしりと叱られたのは、高機【たかはた】のてっぺんに乱暴に手をおいたときです。母の高機には鳥居が作られていました。すべての機がそうなっているわけではないと説明したあとに、母は言いました。木枠で作られた上屋に神に捧げる鳥の止まり木を据えたのは、機を織るつとめが聖なるものだとひとびとが信じていたせいに違いないと。それゆえに自分も尊崇の念をもってこの仕事にあたるよう心掛けていると。そして娘である私にもそうであってほしいと願いました。

 糸をつむぎ、機を織り、家族の身体を守る衣服をつくるのは女性の仕事とされてきました。そして織物は年貢になり、後には貴重な現金収入ともなりました。機織り上手は嫁の貰い手がたくさんあるとおだてられた娘もいるに違いありません。夫や子供のために一反でも多く織りあげて高く売りたいと願い、または家族に美々しい柄行の着物を着せるため、一族に伝わる織り文様を姑から教わった嫁もいたことでしょう。

 その一方、日本において絣とは、女性たちの静かな自己表現でもありました。彼女たちは研鑽を積み、点や線、円といった幾何模様から、花木はもちろん船や邸宅、または文字なども織り込むようになったのです。ところが、江戸末期から昭和にかけて、幾人かの創始者、または特徴的な作品を仕上げた女性以外ほとんど名前を知られることのないのが絣の織物です。

 絣織の起源は七、八世紀のインドと言われています。日本へは、東南アジアを巡って台湾、琉球から伝わったとされています。もちろん伝播については諸説あり、また世界各地で独立して生まれたとも考えられます。「貝楼裂」について調べるため、すでに私はインド、中国、ミャンマー、タイ、インドネシア諸島、台湾、琉球、そしてフランスを巡りました。幸いなことに貝楼諸島の絹と木綿の絣織の現物がフランスに残っていたのです。

 文字通り塵になるまで使い尽くされてしまうそれが保存されたのは、十九世紀末から二十世初頭にかけて貝楼諸島に訪れたフランス商人ルロワ夫妻が大量に買い集めて持ち帰ったせいでした。先日私はパリのギメ東洋美術館へ行き、寄贈された織物はもちろんリヨンにある邸宅の壁掛けまですべてを閲覧し終えました。なお日本に滞在したこともあるギメ東洋美術館の設立者エミール・ギメもまたリヨン出身であり、ルロワ夫妻の知己であった事実も付記しておきます。今回の調査でルロワ夫人の日記から確認できました。

 ところで、貝楼諸島の名前は従来中国の牌楼に由来する説が一般的だそうですね。その他の学説では、貝で飾られた美々しい高楼がいくつもあったためとも言われます。戦争によって、それらが失われてしまったのはご承知のとおりです。ただし、その存在を裏付ける素描がありました。夫人は好奇心旺盛で多彩な才能のあるひとでした。アニエス・ルロワ夫人の情熱があったからこそ、貴重な織物が残されたのです。

 とにもかくにも貝楼諸島は絣の宝庫でした。これは大陸と島々の中間に位置する地理的条件とともに、そこに住むひとびとが織物による呪術的守護に強い関心を寄せていたせいもありましょう。他の地域の例にもれず、貝楼諸島でもそれぞれの部族特有の絣文様がありました。

 ある島ではひじょうに精緻な絵絣がもてはやされました。ことに高楼は恰好の主題であったらしく、富貴な一族の長が身に着けるものとなりました。他の島では貝の模様が嫁入り前の娘のために選ばれました。子宝に恵まれるように、また財に困らないようにとの願いです。それから魚や蝶、花といった自然をうつしとる模様も豊かでした。そしてもちろん幾何文様があります。とりわけ「貝楼裂」に見られるような波や風をあらわす抽象化された模様の、素朴でありながら気品ある連続はたいそう目に快いものでした。

 むろん、いまの貝楼諸島にそれらを期待してはおりません。商業主義により織り手たちは観光客が好むものばかり作るようになりました。しかもその収入によって安価な工業製品を買って身にまといはじめたのです。模様の呪術的守護を信じて手業の逸品を織り続ける必要もなくなりました。木綿も絹も、ひじょうに繊細な物質です。代々大切にされてきた布自体、使われずに捨てられたこともあったでしょう。

 日本でもそうでした。着物産業の衰退について記録がたくさん残っています。日本各地にほそぼそと残った博物館や地域殖産センターといったところで私は絣織を調べました。そこには絣王国と呼ばれるほどの急激な隆盛と、雪崩を打つような衰退の記録がありました。毎年何百万と織られたそれが泡沫の夢のごとく消えていったのです。

 貝楼諸島も同じです。島々の特徴が絣文様に反映されていたぶん、凋落も顕著でした。なにしろ近代資本主義は島々の距離を縮め、文化を平板で似たものにしたのですから。

 それでも、私は貝楼諸島に行ってみたいのです。何も得られないかもしれなくても。どんな危険があろうとも。

 あなた方とて、地球に行ってみたいと思ったことはおありでしょう? 

 あなた方が大学研究所の顧問を降りただけでなく、遺産をすべて放棄していることも存じております。けれども、どうしても知ってほしいとこうして連絡した次第です。たまたま国際宇宙ステーションに滞在し、災禍を逃れたあなた方の先祖に敬意を尽くす気持ちゆえです。

 地球が《御親》を名乗る異星人に丸呑みにされ、その排泄物に埋もれて随分と長い年月が経ちました。私の所属する大学研究所の究極目標は、その糞尿の海から全包括的地球をより分けて取り戻すことです。ご承知のことと思いますが、《御親》の伝令たる《天使》たちによって《水晶球》に閉じこめられた地球は、今なお黄金の蜜と黒い泥濘にくるまれて時間を止められています。《天使》たちの謂いを信じるのなら、人間たちはただ長い夢を見ているのと同じ状態にあるそうです。《御親》は〈うつくしいもの〉を呑みこんで、その歓喜に酔い痴れて消化不十分な排泄物と一体化してしまった――そんな未曽有の災厄にあなた方の先祖がどれほど苦しまれたか、想像することしかできません。

 私は人間ではありませんから。

 さりながら、私たち《顕現師》が喰い尽くされた〈うつくしいもの〉を見つけ出し、修復して顕現させることができたなら、地球を《水晶球》から取り出して元の状態に戻せるはずなのです。そのプロジェクトの手掛かりとして、悲惨な状況に陥りながらも補償を求めて尽力し、天の川銀河第八大学に『地球遺産研究所』を置くことを承認せしめた人々を尊敬してやみません。

 私たちと人間の出会いは、五千年以上前に遡ります。すでに新石器時代には人類は絹を手にしていました。宇宙の医薬品工場で「食べるワクチン」として飼われていた蚕が、私たちの基礎となりました。全ゲノム解読済みであり完全に家畜化された生き物として、インターフェロン製剤等に用いられていたのです。私たちはそれ以前から吐き出した絹は肉体を覆う織物になり、ついには皮膚や血管になり、ヒトの神経疾患モデルに利用され、また電子タグを織り込まれたウェアラブルデバイスとして用いられていました。

 《天使》たちがどのような魔法で私たちを作りあげたのかは詳らかにされておりません。ヒトに似たものとして作られた私たちを、あなた方の多くが気味悪く思っているのも知っています。他の銀河でも、私たちを「糞喰らい」と忌避するものもいます。それでなお、地球遺産――太陽系第三惑星は他でもないあなた方自身によって遺産と見なされたのです――を放棄したあなた方に私のしていることを知ってもらいたいと願うのです。

 たかだか一枚の布切れです。けれど、そのたった一枚の織物を理解するために私は先ほど述べたたくさんの地域の汚泥に潜りました。歴史のほんの些細な一部ですら、こうなのです。とはいえ美術館や博物館でデータ化されていた〈うつくしいもの〉は掬い上げられやすい。ですが貝楼諸島は人口が少なく非発達的商業圏域だったため文字その他の記録も少なく、《天使》たちも《水晶球》内配置自体難しいと嘆いている場所です。生きて戻れないかもしれません。

 かつての蚕のように、人間に使い尽くされるのが運命と信じているわけではありません。私が《顕現師》として従事するのは、何もかも取り戻せるわけもないと知りながら、かつて在ったものを惜しむこころを持つためです。

 「貝楼裂」を取り戻せたときにはまたご連絡さしあげたく存じます。恨みがましいことばかり述べましたが、受け取り拒否をされないことが、この私の糧になっていると信じてもらえたら幸いです。

                                        了                                                                                                






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

貝楼裂異聞 磯崎愛 @karakusaginga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ