うらぎる準備

魚麗りゅう

うらぎる準備

 わたしにとって現実は、どこか別の風景だった。その風景に、わたしが反応する。その反応に、興味があった。現実を流れている自分に、わたしはどこか、他人行儀だった。現実はわたしにとって、残酷だったのかも知れない。今となっては、うまくぼやけている。そうやってわたしは、生きのびてきたのかも知れない。わたしはそ

れでも死ななかった。死なずにこうして生きている。これはこれで、意味があることなのだと、思いたい。わたしより若く、死んだ友達が数人いる。その事実だけでも、自分の存在に確信を持たなければいけないのかも。生きていることに、高尚な意味があると、思いたい。なので、高尚な本をかなり読んだけれど、自分を納得させるシンプルな答えを、導きだすことが出来なかった。これはわたしの知的レベルの問題なのだろうか?こんな些細なことを、わたしは今でもクヨクヨ考えている。


 わたしの周りで、出産が行われている。わたしは子供を持ちたいと、思ったこともないけれど、そんな年齢になったことに、自分に対して納得いかない。わたしは考えなければいけないことが、山ほどあるのに、年齢に対してやらなければいけないことを、いつも押しつけられた。だから疲れた。考えることを、止めればよかったのかも知れない。学生の時、堕胎をした友達に対して、内面の奥底ではどうでもよかった。学生の、よくある風景だったから。そんなことは、素直に表現できないから、私はうまく演じた。ただ。そんな演技は伝わるようで、その子との繋がりは切れた。わたしはとくに、傷つかなかった。この気まずい時間は、学生という時間が終われば終了する。だからそんな感じで、時間は過ぎた。世の中には、もっと優れた人がいる。それをわたしは期待した。わたしはいつでも、裏切れる準備はできていた。わたしの皮膚の外側を流れる風景。わたしの本質は、何も変化なんかしていない。わたしの皮膚の外側の流れが、時おり歪むだけ。ただそれだけ。それがわたしにとって、軽い憂鬱だった。わたしの求めている時間に、現実の時間は齟齬があった。現実を理想で埋めたかったけれど、それは無理だった。わたしは自分が神様でないことを知った。人をうまく裏切ることで、今までわたしは生きのびてこられたような。都合よく、そんなことは忘れているけれど。疲れきって学んで、そこから新しいわたしが生まれた。よく考えて、繋がりを切る。何気なく全体で繋がっている、あの学生的な繋がりが、わたしはたえず気もちわるかった。死とか生とか愛とか友情とか。みんな観念的で、気もちわるかった。そんな気もちわるさを日々感じている時に、妊娠の報告をされても、わたしはめんどくさかった。性欲を巧妙に隠匿した繋がりに参加し、彼女は妊娠という現実を突きつけられた。彼女と私は友だちだったけれど、平等ではなかった。わたしは彼女に対して家来だった。彼女は巧妙に隠していたけれど、それをわたしは気づいていたし、平等なふりをしてくれる彼女に、仕方なく合わせていただけだ。あの時、わたしはそれほどつよくはなかったから。一人でいることに、怖かったから、あの時のわたしは。けっきょく堕胎することになるわけだけど、わたしにはわたしの考えるべきことがたくさんあるわけで。彼女は現実を突きつけられた。その現実により、彼女の内面は激しく揺らいでいる。その揺らぎに家来であるわたしは、わたしの意識を接続したくなかった。落ちればいいと思った。今だから分かる。わたしは彼女の不幸を陰湿に喜ばしかった。世の中の手前の学生という特殊な世界。この特殊な世界に、わたしは息苦しかった。大人と子供の中間で揺れている。その揺れの中で、何気ない孤独の繋がりで、恋愛が生まれる。避妊しろよと思ったけれど、顔に出さないようにこらえた。わたしはこの場所にとどまるつもりはなかった。それは内密に秘匿していた。一時的な友達?家来?わたしは今の位置に、満足していなかった。だから。深奥では、妊娠し、堕胎した友達なんて、どうでもよかった。今現在の現実が、はきけがするほど、鬱陶しかった。読書を通じて、わたしはかなり世の中を知っていた。でもわたしは高校生だったから、自分の今の場所に、静かにいらいらしていた。俯瞰で見るわたし自身は、とても惨めに思えて。感受性が鋭すぎたのかも知れない。壊れてしまえばいい。それが友達の妊娠だった。彼女の妊娠で、わたしと彼女の身分が微妙になったような。僅かな優越感に、わたしは身悶えした。人の距離感は、一瞬で変化する。その事実を、体感できたことに、今だから友達に感謝できる。人は、孤独。孤独になった時、いつもこの記憶に遡る。今は何しているかも分からない友達だった人に、わたしの思考は辿り着く。生きていることに、それほど辛いと思わないけれど、精神の構造に、どうやら抗えないらしい。過去は過ぎたのに、まだわたしの中に留まっている。そして現実に対する判断に、影響を与えている。わたしの見えている世界は、目の前に突きつけられている現実は、その過去に、きっと無意識の影響を与えられている。であるなら、その過去と向き合うことで、これから向き合う現実は、変化するだろう?わたしの目の前に存在する人に、最近新鮮味を感じない。これはきっと、わたしから発する波長のせいだろう。わたしはまだ、過去を生きているのだろうか?世の中は激しく変化している。その変化に、自分の揺れている内面の、接続の仕方がいまいち分からない。自身に問う。どう生きる?自分の存在に、曖昧な気持ち悪さを、絶えず感じていた。わたしはわたしなのに、あの時のわたしは、わたしではなかった。そのことに、その事実に、苦しかった。だからわたしは世の中の破滅を、どことなく歓迎していたのかも知れない。それを思うことで、日々を生きるわたしを、自分で救っていたのかも知れない。わたしはつよくなかった。それが過去の記憶に対して、未だににがにがしさを、わたしに感じさせるのだろう。日常は何気なく過ぎていく。それでもわたしは過去の延長で生きている。今まで培われたフィルターで、わたしは現実を見ている。何気なく過ぎる日々の隙間に、過去が思考を流れる。過去に対して、わたしは強くならなければいけない。そんな必要はない仕事だけれど、わたしの内面は納得しない。このまま生きていけるだろう。日々の、何気ない会話の連続に、わたしは息苦しさを感じている。なに不自由なく生きている。なのになぜこんなにも満たされない?生活を繋げていかなければならない。それは別に苦ではない。こんな感覚を深奥に気づいている現在のわたしは、変?何気なく病んでいる?洗練された環境の中で、わたしの精神はより窮屈になっていくような気がする。そんな窮屈な距離感が、忘れていた記憶を、炙り出してくるのだろう?きっと、わたしの本質は野蛮だ。それは正直に理解できる。学生の時は学生の時で、生きぬいていかなければいけなかった。だからわたしはわたしの階層で、仕方なくわたしはわたしを演じただけ。くだらないと思っていても、それがわたしの現実だったから。過ぎていくことに、じっと我慢することを、わたしは学んだのかも知れない。人の流れは変化する。じっと待てば、自分に有利な時間が流れ始めることを、友達のような?妊娠した彼女から学んだ。なんとなく、子供ではなかった。なんとなく、大人でもなかった。その揺れの中で、思春期を苦しんだ。親の庇護の中で、わたしの内面は、激しく揺れていた。あの時の記憶が残り香とともに、未だに纏わりついている。忌々しい感覚。わたしは未だに過去を生きている?不安定な世の中の流れの内側で、わたしの内面は今現在も揺れている。まだわたしは、自分を保っていられる。辛うじてだけれど。静かに過ぎていく時間は淡々としていて残酷。その時間の中に、世の中の個々の視線が織り交ぜられる。わたしはうまくそれを、すり抜けなければ。わたしはわたしを生きるしかない。ただそれだけなのに、その視線にたいする耐性を体内に発生させなければならない。人の視線は一瞬で悪意に変化する。質の悪いウィルスみたいに。洗練されていない野蛮な世の中ならば、感情が昂るまま、殺してしまえばいいだろう。何気なく生きるためには、何気なく生き抜く洗練された技術が必要。わたしはわたしを、守らなければならない。自身のセキュリティホールを、直ちに修正しなければならない。わたしは自分の内面の揺れに、感覚をとぎすませる。人は、他人の内面の揺れに敏感に反応する。その反応に、その人自身の悪意が反応する。友達の妊娠を知った、あの時のわたしみたいに。彼女にたいするわたし自身の悪意を、その時わたしは知った。びっくりした。友達なのに、友達にたいして悪意があった。無意識に、気づいていたけどね。何気なく過ぎていた時間は、ここで、この瞬間に変化した。だからわたしは自分を高めたいと思った。急がなければいけない。それも内密に。そう思った。人は結局孤独。距離感が突然変化しても、人の視線に打ち克つ軸が必要だと、わたしはあの時悟った。いつでも裏切れる準備をしておかなければいけない。いつ裏切られても、平静でいられる自分を早急に完成させなければいけない。あの経験で、わたしはそう考えた。人の流れは、一瞬で変化する。それは歴史と日常が証明している。日常から普遍を導きだすことに、わたしの密かな楽しみになった。内面を修正する。未だにその作業は続いている。些細な過去が、今でもわたしを苦しめる。きっとそれは、わたしだけではない。歪みは歪みをひきよせる。だからわたしは、自身の歪みを修正しなければならない。未来はそれで変わると信じたい。何をあんなに、未来に対して怖がっていたのだろう?今となっては滑稽。世の中が揺れていた。そのことに、私は怖がっていたのだろうか?あたり前だった価値観が、無残に壊れようとしている。もっともっと、破壊されればいい。私はそう陰湿に思っている。既存のものさしで生きている人が、さらに苦しめばよいと、思っている。時代は変わろうとしている。もっともっと、そしてさらに揺れればよい。つよかったものが壊れ、結果よのなかは洗練される。とてもシンプルで分かりやすい。友達との関係は、いつのまにか壊れた。それを寂しいとは、思わない。わたしは解放され、解きはなたれた。距離感が壊れた。その始まりはきっと、彼女の妊娠。わたしは彼女の妊娠で、自由になったのかも知れない。あの時の恍惚が、今になってわたしの内面に再現される。きっと私は悪い子だ。同じ場所を歩いていたのに、いつのまにか、わたしはわたしの道を歩いていた。生きていくとは、結局こういうことなのだろう。近くにいるのに、遠い。わたしは彼女と繋がっていなかった。かんたんに触れられるくらいちかくにいたのに。わたしは聞き役だったけれど、聞いてはいなかった。一人でいることが、怖かったから。だからわたしはがまんした。なさけなかったわたし。そんな過去の自分がよみがえる。鮮明に。生々しく。彼女に見えていた景色と、わたしの見えていた景色。それは明確にちがった。彼女と私がいっしょに歩いている風景。それは仲良しだったからなんかじゃない。彼女もわたしもじぶんなりの戦略で、いっしょにいたのだ。彼女のことなんて、あまりよく知らない。知ろうとも思わなかった。一時的なもの。わたしの内面は、そう答えをだしていた。そんな過去の記憶を言葉にすることで、わたしは痛みを感じる。沈殿しているものをわざわざ取りだして。でも癒されていくのはなぜだろう。精神と心臓が、楽になっていく。弱虫だった過去のわたし。その弱虫な自分を未来でくり返したくない。だから過去のわたしから、わたしは逃げない。わたしはもっと楽に生きたい。経済的にも精神的にも。もっと世の中のしがらみやら不合理な仕組みなんて、壊れてしまえばいい。わたしがもがいている間に、壊れてしまえばいいと、ずっと深奥で思ってきた。わたしは個としての自分に責任を持ちたい。組織の不合理に、そのつど感情を起伏させたくない。わたしはわたし。それにはその都度、組織に対して自分を壊さないていどの揺れに、狡猾に揺れなければならない。わたしはわたしを貫きたい。それには今の社会的実力では、むり。だから生きのこるために、仕方なく揺れるしかない。自由に選択するためには、わたしを主張できる実力が必要。だから今のわたしは、我慢しなければいけないのかも知れない。どこまで我慢するのか?わたしが個として自立できるまで。と自分を戒める。まだわたしは、組織を離れられるだけの実力を身につけてはいないから。だから仕方なくしたがうのだ。自分の実力と、世の中の流れのなかで、わたしは苦しむ。焦ってはいけない。タイミングというものに、わたしは神経を鋭敏にさせる。わたしには、溢れる想いがある。その想いに、忠実にしたがっているだけ。もう。使われるということに、わたし自身が疲れている。だから。その脱却のタイミングを、わたしは神経質に考えているのだ。その最中に、過去のどうでもいい記憶がわたしを苦しめる。思春期の友達。今のわたしにとってはどうでもいい記憶。ただそれが、未来を歩もうとしているわたしを苦しめている。だから仕方なく向きあっている。わたしには、男にたいして過度な幻想も期待もなかった。どこか冷めていた。それは団地で育ったわたしと堕胎をした友達と、大量の読書に起因していたのだと、今の私は結論している。わたしには、やるべきことが絶えず目の前にあった。学生には学生の苦しみがあった。その苦しみの余韻が、今でもある。そして新たな苦しみが目の前にある。精神的に余裕をもって生きていた記憶がない。わたしはその都度、生きのびることに必死だった。でも今は、何かが突きぬけたのかも知れない?楽になったのだ。なるようにしかならなかった。目のまえのことに集中して、そして考える。自分の範囲内でしか、生きられなかった。どうでもいいことと、やらなければいけないことの間で、いつも自分にたいして苦しかった。数秒に一度は、挫折をしていたのかも知れない。そんな自分にいら立たしかった。友達の妊娠なんて、わたしにとってはどうでもいいこと。わたしは進学にたいして悩んでいたのだ。わたしは早く社会に出ることのメリットとデメリットを、読書で知っていた。けっきょく堕胎を選んだ彼女にたいして、どこか俯瞰で見ていた。わたしは早く、大人になりたかった。選択をできるという意味で。それには世の中を、あるがままに受けいれるしかなかった。わたしの目のまえに広がる世界が、希望という景色には、どうしても映らなかった。そんなわたしの精神じょうたいのときに、妊娠。正直。どうでもよかった。わたしには、やるべきことがあった。わたしはわたしの人生を生きなければならない。彼女はわたしにとって、すでにというか、初めからノイズだった。彼女はわたしを、見くだしていた。そんなことは気づいていた。なぜ一緒にいたのか?それは一人でいることが、あの時のわたしには出来なかったから、だ。わたしはあの時から、人との距離感に疲れていた。わたしは彼女の奴隷ではない。その感情を秘匿しながら、あの女といつも一緒にいたのだ。あの頃のわたしをひっぱり出すと、いまでも感情が複雑にゆれる。わたしは弱かった。だからつよくなりたかった。彼女は高校を卒業し、就職した。わたしは進学した。あの女との繋がりは、そこで切れた。わたしは、やっと自由になった。卒業式に、いっさいの哀愁などなかった記憶がある。やっと終わった。そんな感慨だけが、わたしにはあった。特殊な世界からの脱却。わたしは、そう俯瞰で見ていた。あの女は高校までの繋がりと、わたしは深奥で選別した。ただそれだけのこと。うまく裏切るには、その時までそしらぬ顔をして待つことも大事、ということを高校の時に学んだ。いつも一緒にいた友達でも、わたしと彼女は繋がってはいなかった。静かに過ぎていく時間。それでもわたしの内面は激しくうごいていた。人は平等なんかじゃない。だからわたしは絶えず気づかれずにいらいらしていた。卒業して疎遠なのに、しかも友達ともいえないひとが、なにかの勧誘で電話してくる。せっかく卒業し、新しい時間が流れはじめていたのに、過去からの電話。距離感が一瞬で曖昧になる。時間の経過を、一瞬で感じる。わたしはわたしの時間を生きている。かろうじて残存している繋がりにすがってくる電話に、わたしはいやな気がする。学生のときから、わたしはそれなりに光かがやくものに、にせものを感じて、それに対して何げなく警戒していた。友情とか愛とか夢とか。わたしは内心滑稽だった。それらの幻想を、わたしは無意識に数学的に、分析していたような気がする。友達は妊娠し、堕胎した。それが彼女の恋愛だった。好きだからつきあって、エッチしてなかだしされた。そのごの彼女の現実は、堕胎だった。愛ってなんなの?と私は団地へ帰るその間に、不思議とえがおになった。わたしは高校というものに、疲れていた。それでも世の中で有利に生きていくためには必要ということは、知っていた。さらに有利に生きていくために、進学したのだ。有利に生きていくためには、学ぶしかない。ただ。高校には高校の、楽しい時間は存在する。その揺れに、友達は侵入していったのだ。わたしはその事を、読書をとーして知っていた。だからどうでもよかった。わたしは自分の見えているものに、心地よくなかった。なぜなら、それが偽物だと知っていたから。過ぎていく静かな時間のなかで、わたしは絶えずいらだっていた。こんな偽物の時間はすぐに過ぎていく。それをわたしは知っていた。自分の努力だけではどうにもならない現実を、わたしは知った。人の距離感は瞬時に変化する。それをわたしは狡猾に待った。自分の軸のレベルを上げながら、じっと待つ。世の中にでる手前に存在するこの生臭い現実が、わたしにとっては苦だった。その時間にながれる音楽は、巧妙に計算されていた。今だから理解できる。その音楽を生みだしたひとはカリスマとして一瞬かがやき消えていった。わたしはそんな空間のなかで、揺れていた。音楽の世界からかえってくると、わたしはわたしだった。そのそっけない感覚が、嫌だった。わたしはまだ、孤独になれてはいなかった。世の中との距離感が、あのときのわたしは、分からなかった。自分の内側にしか答えはないのに、わたしは自分から逃げた。高校からの記憶は、いまのわたしにはうまく整理できない。現実を、うまく途ぎれさせていたのかも知れない。好きでもないひとと、いつも一緒にいた。それはひとりでいることが、どうしようもなくつらかったから。ただ。今は平気だけどね。今のわたしは、おのれを知っている。過去のわたしが、今のわたしを苦しめる。わたしはなにも知らなかった。限られたフィルターでしか、世の中もひとも知らなかった。わたしの目のまえは、茫漠としていた。世の中はきっと、ひろいものではなく、せまいものなのかも知れない。あの時のわたしは、なにげなくそれを、感じとっていたのかも知れない。だから進学したのだ。それでも世の中は揺れている。所属しようとしている組織が、これほどまでに揺れるとは、想像もしていなかった。わたしはわたしでいたかったけれど、目の前には現実の生活があった。卒業したら、目の前には生活という現実があった。まだわたしには、考えなければいけないことがあったような気がするけれど、目の前の現実に、ふかくにも忘れてしまった。わたしは団地でそだった労働者階級のこどもだった。すでにわたしは、生きることに疲れていた。読書をとうしてよのなかは、こんなものだと頭では知っていた。それを現実に体感すると、そのつど感情が揺れる。わたしはめのまえの現実を、わたしなりに生きなければいけなくなってしまった。俯瞰でみていたよのなかが、目のまえに突きつけられる。まずそのことに、と惑った。わたしには、なんの社会的ちからがない。そのことにびっくりした。それが現実の感覚だった。まずはここを生きなければならない。それがわたしの社会にでたときの感覚だった。世のなかを生きるおとなのひとたちは、わたしのフィルターをとうしてでは、まだかろうじて光かがやいていた。読書と現実が、こんなにもはやく同期するとは、自分でもたまげた。読書で知った世の中は、ほんの一部分だった。わたしは何も知らなかった。それを知った。ただそれは本質だった。わたしはこの世の中で、それでも生きていかなければならないだから、あるがままを受けいれることにしたのだ。現実はそっけなく残酷だった。会話をすればひとりのひとなのに、組織のなかでは階層になる。だからわたしは組織が嫌いになった。わたしは個として生きたかった。どれくらいわたしは現実を、正しく受けいれているのだろう?すべての現実を正確に受けいれることは、きっと無理。わたしは無意識に、フィルターをかけている。自分がかろうじて立っていられるくらいに。現実は錯綜していた。その事実に動揺した。わたしはその錯綜に、まずは慣れなければいけなかった。距離感が曖昧になったけれど、慣れればそこには本質があった。今のわたしには軸がある。きっともう、感情に不自然にながされることはないだろう?わたしは人だから、自信はないけれど。いろんな生きかたが、そこにはあった。わたしはいろんな生きかたが現存するということを、世のなかにでることで、直に知った。わたしは自分の立っている場所が分からなくなり、ふらふらした。いまのわたしは、自分の立っている場所が、明確に見えている。きっとあそこの場所からもがいたのだろう。自分で自分が滑稽だ。わたしはわたしになろうとした。ただそれだけだった。きづいたら、今のわたしがあった。ただそれだけだった。時間がただ過ぎるだけで、どうにかなることがある。それでも過去は、風化はしているけれど、完全に過ぎてはいない。自分の立っている場所が明確に見えているからこその不安。それが、今のわたしを苦しめる。過去の不安をまだ少しひきずっているのに。自分で自分を終わりにしてしまいたくなる。だってこんなに苦しいんだもの。高校の時にながれていた時間に、なんだか似ているような気がする。勘違いだろうか?わたしの肉体は、あの場所にはもういない。でもわたしの感性は、あの場所から変化していない。だからこんなにも苦しくなるんだろう?環境だけが変化していく。そして変化していった。肉体は辛うじて世の中に溶けこんでいても、わたしの感性は適応できていない。それが歪みとなって、深奥でわたしを苦しめるのだろう。壊れてしまえばいい。わたしはあの時から、ずっとそれを無意識にねがっていたのかも知れない。精神が空間にとけこむような、みょうな感覚が好き。だからわたしはアルコールが好きになった。一日のうち、現実に対応できる精神でいられる時間には、限界があるということを知った。学生の時は、それが音楽だった。現実に耐えきれなくなると、わたしは音楽をながした。いまはそれがアルコールになった。わたしは今でも、そんなにつよくなかった。今は、しかたなくそれでも生きているような気がする。微妙なバランスのなかで、今のわたしは生きているような気がする。今は死ぬことに抵抗があるけれど、未練はない。もしかしたら言葉というものに、疲れているのかも知れない。わたしは結局わたしだった。今のわたしには、言葉は必要ないのかも知れない。わたしはわたしでしか、生きられなかった。損ないきかただと、理解はしている。その過程で蓄えられたいやなことが、わたしの精神を歪ませている。わたしでない生きかたに、執着するつもりはない。わたしがわたしでいられなくなった時、わたしは死のうとおもう。その覚悟をもって、わたしはわたしを始めたのだ。自分の感性を信じたい。覚悟をもって、わたしは生きてきたではないか?今はじぶんにとって、有利なながれではない。そのながれのなかで、自分を試されているような気がするから。だからわたしは自分を壊さない。考えるべきことを真剣に考えて、今のわたしがここにいる。なんどもなんども、過去にもどる。今の自分に無性に不安になるから。


 わたしには、不確かな記憶がある。まるみをおびた清潔な丘のうえに、小さな家があった。そこで過ごした記憶。住んでいたわけではなく、そこで過ぎた時間がわたしの記憶に生々しく香りのように、ある。その記憶は過去から今につながる直線に、配置できない。だからいつの頃の記憶なのか、いまでもわからない。でもわたしはそこにいた。確実に。完全におとなになってからではない。そのことはわかる。不確かな世の中で、不確かな記憶のまま、わたしという存在はゆれている。このままでも、いいような気もしている。このまま人と適正なきょりをとっていれば、もうそれほど傷つくことはないだろう。世のなかは、わたしにとってこんな感じだった。なにかが過ぎていった。そんな感慨がある。それでも生活はしていかなければいけない。ただそれだけのことだった。不明瞭な大量の言葉が、わたしを透きとおっていく。不必要な言葉にたいして、わたしは閉じる。もうこれでいいではないか?現実にたいして眩しいくらいに希望があったけれど、そのひかりにたいして挫折した。それがよかったのかも知れない。わたしは自分の輪郭を生きなければならない。ただそれだけのことだった。世のなかを、大きく見過ぎていたのかも。過ぎてみれば、なんてことはなかった。自分にとって居心地のわるい時間は、なにげなく閉じて、逃げてしまえばいい。流れはかならず変化する。今のわたしはそれを知っている。そうやって、わたしは生きのびてきたのだ。自分なりのバランスをとることで、日々わたしは疲れきってきた。それでもうまくいくほうが少ない。その緊張感にたえることに、なにげなく嫌気がしている。何げない日常を、つづける。これはこれで、すごいことだった。でもだれも褒めてはくれない。生きて、死んでいく。そんなあたりまえなことに、なんでこんなにも、痛みを感じるのだろう?もう疲れたといって、あきらめてしまいたい。わたしはそんなにつよくない。現実はそっけなく、わたしの皮膚をすぎていく。自分をおさえることで、かろうじてその現実をながれているわたし。激しいゆれは、感情をたかぶらせる。それを克服することで、わたしはすこしずつ静かになっていった。現実は、あるがままに受けいれなければならない。それにはわたし自身の熟成をひつようとした。純粋にわかかったとき、俯瞰でみてそのわかさが嫌いだった。どこか生ぐさくて、嫌いだった。堕胎という言葉から広がるイメージの生ぐささといったらいいだろうか?わたしの感性は、まだ高校のときから動いていないのだろうか?こんなことは、だれとも話さないから。とりあえずは今の年齢として、装っているだけ。大人になるって、こんなものだった。大人になってそれを理解できた。蓄積されてきた過去が、いまのわたしを苦しめる。これでは現実が、うまくわたしの中にはいってこられないではないか?過去の延長で、あるていどまで生きてこられた。これからさらにその惰性では、生きていきたくはない。いまのわたしは焦っている。自分にたいして焦っている。このままでいいはずがない。生きているかぎり、この焦燥はれんぞくするのだろうか?精神の置きばしょが、よくわからなくなる。だから日々、不安になるのだろう?わたしはわたしの基本へとかえる。わたしの立つべき場所はどこ?わたしはなんども自答する。今ではつながりが切れているのに、その時の記憶が今でもわたしを追いかけてくる。孤独のすきまに、ふと現れるのだ。孤独にたいして、もっとつよくなりたい。どうしてこんなにもわたしは、激しくゆれてしまうのだろう?立つべき場所は、すでに理解しているはずなのに。毎日ふつうにたっているだけでも、こんなにも大変。もう、自分を止めてしまいたい。努力でなんでも撃破できる。そんなことを真剣に信じていたころが、妙になつかしい。わたしはもう、このままだろうか?自分に生まれたことに、いまだに確信がもてないでいる。もう疲れた。そんな言葉は、日々の生活のなかでは吐きだせない。それが少しずつ、わたしの深奥に堆積されていく。日々の生活のリズムは惰性できざんでいる。その惰性のリズムが壊れたとき、わたしの深奥から、どんな腫瘍がとびでてくるのか不安になる。かろうじて、バランスがとれている。今はね。わたしは現実のじぶんの輪郭の維持に、つかれている。もしかしたらわたしは、つぎのステップに移行したいのかも知れない。わたしは自分なのに、そのわたしが自分をうまくつかめないでいる。これはどういうこと?いつも自分に苦しかった記憶がある。それがいまだに続いている。記憶がうまく、体系的にまとめられていない。問題だらけの自分のまま、わたしは生きている。記憶が整理されていないから、わたしの目のまえの現実は、煩雑としているのだろうか?暗闇をあるいているような気さえする。うまくねむれない。しかも年中便秘。肌荒れで、かがみをみることが嫌。きっとそれは、体内でリンクしている。わたしの本質がうまく機能すれば、それら末端のことは、すぐにでも改善されるだろう。そんな確信はある。わたしはわたしでなければならない。何も考えないようにしていても、溢れてくる思考に心臓がどきどきする。もしかしたら心臓は、過去をきおくしているのかも知れない?生まれてからずっとわたしのそばで、うごいている。わたしのすべてを知っている。本心も、感情のこまかなゆれも。それらを蓄積させているのだろうか?見えていなかった景色が、見えはじめている。だから新しい思考にとまどっているのだろう?その新しい思考に耐えうる自分に、いまの自分を進化させなければならない。いまの自分に苦しい。このまま止まって立ちつづけていても、苦しいまま。わたしは溢れてくる思考を正しく流れさせなければならない。まだ、生きなければならない。まだ、その時ではない。わたし自身の深奥がそう言っているのだから、そうなのだろう。なんだろう?こう……世のなかにたいして正しく生きたいと思える。わたしは今まで、どこをさ迷っていたのだろう?とても滑稽。思考がこんこんと溢れてくる。その思考にたいして、わたしなりの答えを絞りださなければならない。独りよがりではない、世のなかにたいして正しい答えを。きっと人は、運なのかも知れない。わたしの努力なんて俯瞰でみたら、滑稽なのかも知れない。わたしは正しい努力をしているだろうか?独りよがりではない、正しい努力をしているだろうか?考えなければいけないことが、目のまえには山ほどある。わたしはそれにより、現実から逃げてはいないだろうか?わたしの価値観がゆれている。それも激しく。わたしを稼働させる思想を、アップデートさせなければいけない。わたしはこの世のなかを、どう生きたいのだろう?今のままでも、生活には不自由はしない。ただ、わたしの深奥が苦しい。癒されていない。不思議と哲学的な思考に内面が変化している。わたしはそんな自分を、あるがままに受けいれなければならない。わたしは自分にたいして、素直でありたいと思うし、願う。わたしはわたしのままで、生きなければならない。わたしはいつの頃からか、死を意識している。だからどうでもいい現実に、冷めた視線をもったのかもしれない。自分の死とふつりあいの現実を、無意識に拒絶したのかも知れない。わたしはわたしで生きたい。それは静かで、壮絶だった。ただ、それだけのことだった。わたしは自分の死の価値を上げたい。だからがまんするのだ。何げなくね。自分にとってどうでもいいこと、どうでもいい人、どうでもいい時間。わたしの死の価値は、そんなものを相手にしない。だからまだ、生きなければならない。この緊張感が、たまらない。わたしは生きているだろうか?素敵に生きているだろうか?未来なんて、よく分からない。きっとなんとかなるだろう。とりあえず、目のまえを生きなければならない。こんな思考を、もう何年もくり返しているような気がする。わたしは今、どこに立っているだろう?溢れてくる思考にたいして、いまはそれほど刺激を感じない。わたしはある地点から、きっと立ちどまったままだ。そこから見える風景に、疲れを感じる。わたしはいつになったら、うごき始めることができるのだろう?そんないら立ちがある。思うようにはいかない。そんなことは知っている。自分の衝動にたいして、わたしが苦しい。わたしの目のまえには生活がある。だから、やりたくない仕事だけれどやっている。不必要なつながりを、まとめて切るじゅんびはできている。そのタイミングを、わたしは陰湿にまっている。会社のなかには、さまざまな思惑がある。そのひとつに、わたしのも入っている。わたしには夢がある。その夢をかなえるための、いまは準備期間と自分にはいい聞かせている。わたしはもやもやしたまま、時間がすぎている。少しずつ、自分をたかめながら。だから、うら切る準備はできているのだ。わたしの時間はこのまま過ぎてしまうのだろうか?そんな恐怖とも、闘わなければいけない。会社という流れから、とびだしたい。そんな欲求が、絶えずわたしのなかにある。会社は世のなかという流れにゆれている。そのすきに、わたしはさらに自分を高めてしまわなければならない。個として生きていける準備を、粛々とすすめなければならない。こんな時間は速くすぎてしまえばいいのに。高校の、あの時の時間みたいに。わたしはどこまでいけば、やすらかになれるのだろう?癒されたいと考えている、いまのわたし。年齢とか体力とか。その都度のおんなとしての世間的なかちかんとか。それらもやっとしたものが、さらにわたしをいじめるように苦しめる。うまくいくかも知れないし、いかないかも知れない。そんな不安を、他人に悟られてはだめ。そんな防御ほんのうはある。弱っていることを、巧妙にかぎつけるのがうまい人がいる。そういう人から、自分を守らなければいけない。何げない日常のなかの好意は、一瞬で悪意に変化する。妊娠した友達にたいするあの時のわたしの感情みたいに。わたしはそんな自分にとまどったけれど、彼女からじゆうになれた気はした。もっと世のなかがゆれればいい。そのゆれを、深奥ではずっと待っている人が、少なくないような気がする。わたしは自分を生きなければならない。これからわたしはどうしよう?内面に、いつもこの言葉を突きつけられているような気がする。その都度わたしは自分の言葉で考えて、自分の言葉としてこたえを導きだしてきた。それでもなお、こんなにも不安。情けなくなってくる。わたしは男に逃げない。きっとそれは、あの記憶があるからだろう?わたしにはプライドがある。わたしは彼女が嫌いだった。いまになって、はっきりそれが分かる。やっと今になって言える。わたしは彼女が嫌い。心臓がどきどきする。卒業してから何年も何年もけいかしているのに。家を出、今はひとり暮らしをしているのに。それだけでは、過去から自由にはなれなかった。なぜか泪がでる。現実のせかいでわたしはゆれ、内面もゆれている。粛々と実力をたくわえ、記憶も昇華させなければならない。きっと未来は、なんとかなるだろう。現実の世界でわたしはそこそこつよくなった。だから目のまえに、過去が現れたのかも知れない。過去と向きあうためには、勇気が必要だった。わたしは彼女と向きあった。そして答えをだした。わたしを不自然にどきどきさせる記憶が、一つ減ったと信じたい。わたしは自分を完成させなければならない。あるがままの自分を、一つ受けいれた。あの時のわたしは弱かった。だから、本当の自分から逃げるしかなかった。それがずっと今まで、わたしは苦しかったのかも知れない。少しだけ、自分が楽になったような気がする。孤独にたいしてつよくなりたい。わたしはもう、あの時のわたしではない。何度も、過去へもどる。そしてもう一度、過去と向きあう。目のまえの現実を維持させながらのその作業は、痛くて疲れる。こんな感じで生きているわたしは、正しく生きているだろうか?最近、熟睡できた記憶がない。生まれたての子供のようには、これから先、眠ることはできないのだろうか?溢れくる思考は、不安ばかり。きっと、こういうものなんだろう?呼吸をしていることが、嫌になる。信じていたものが、壊されていく。学生のころのほうが、しあわせだったのかも知れない。わたしは現実に疲れている。理論と現実を、わたしなりに融合させなければならない。わたしはゆれた。現実は、理論どおりには動かなかった。わたしはいったい、なにを学んできたのだろう?だからといって、無意味だとは思わない。経験したことに、普遍性をもたせ、理論化しなければならないのだから。わたしはその理論化する技術を持っていた。学生くさい繋がりに、今は気もちわるさを感じる。学生のころのような繋がりに、今は吐気がする。わたしは世のなかにたいして、正しく生きたいと願う。不必要な繋がりに、素直に拒絶したいと考える。わたしはわたしで生きたい。

 

 何も、思考が溢れてこないときがある。きっとこんな時は、自分のちからでは、どうすることもできないのだろう。浮きあしだっているような、この感覚がきらい。やるべきことが見あたらない。でもそわそわする。もったいない時間の使いかたをしているような。罪悪感も、ちょっとある。生きることに、もっと疲れていなければいけないような、そんな罪悪感。でも今のわたしは結婚をのぞんではいないし、付きあっている人がいない。わたしにとっての恋愛は、いまの感覚としては、こんなもの…だった。わたしにも、恋愛にたいしてお花畑のような理想があった。実際に男と付きあうことで、そのイメージは少しずつ破壊されていった。勉強をがんばったせいで、今のわたしには、それなりの経済力がある。だから。これでいいではないか?と自分にたいして思う。子供をもつことに、恐怖心がある。自分が孤独だから。それだけの理由で持ちたくはない。わたしはそこまで馬鹿ではない。わたしは団地で生まれ、団地で育った。人はきっと、平等ではない。わたしは生まれた場所から、生きてきた。人の視線は冷酷。だからあの場所が、わたしは嫌いだった。いまのわたしは、世のなかを俯瞰で見られる目をもっている。だから人が、嫌いなのかも知れない。忙しないひとごみのなかで、今のわたしはうまく個としてのじぶんをごまかせている。わたしはわたしのままで生きたい。それを今でも想いつづけている。わたしにとって重要なのは、わたしの死。わたしはその死を、最大限高めなければいけない。どうでもいい視線に、いまのわたしの感情は動かない。人が目のまえで動いている。そんな感慨しかない。わたしはわたしを生きなければならない。わたしはわたしにとって不必要なことを、いじいじと、考えているのかも知れない。どうでもいい風景。どうでもいい人。どうでもいい価値観。どうでもいい視線。そんなカオスのなかでも、わたしはわたしなのだ。もう疲れた。学ぶことも、波長を合わせることも。すべてが壊れてしまえばいいのに。今のわたしには何もない。今まで生きてきたけれど、そんなものは、どうでもいい。いまのわたしは疲れている。わたしにストレスをあたえる環境に、壊れてしまえばいいと、本気で願っている。それでもわたしは幸せだった。その場所からわたしは世のなかを知った。だから学んだ。わたしの感情はゆれている。学ぶことで、見えなかった風景が見えている。現実と理論を融合させる痛みに、今のわたしは耐えているのかも知れない。今、わたしはどこに立っているのだろう?うまく頭のなかがまとまらない。知りたいことがあって学び、その学びにたいして挫折感がある。アカデミックはこんなものだった。その事実に、わたしは挫折した。だから。頭の中を、すっきりさせたいと思う。わたしは今、どこに立っている?自身に問う。わたしは今、どこに立っているのだ?未来になったわたしは、こんなものだった。それが今のわたしの感慨。この感慨にたどり着くために、わたしはがんばったのだろうか?自分を知りたかった。そしてわたしは自分を知った。がんばって、わたしは自分を知ろうとした。もうこれくらいでいいのかも。もう過去の自分に、今のわたしが疲れている。もういいではないか?どうでもいいことに、無関心でいられる今の自分が好き。過去のわたしは、どうでもいいことに疲れていた。それは自分を知らなかったから。静かにいられる時間が多くなり、それに慣れていないから、不安になっているのだろう?今までおいしくて、お酒をのんできたわけではない。苦しかったから。だから一日の終わりに、お酒を必要とした。今の自分に過去の自分が混じっていて、それが苦しい。そろそろ洋服も、今の自分に合わせなければいけないのだろう。今を生きているのに、過去はわたしのなかを流れている。やっと目のまえの現実が、わたしに流入をはじめている。もう過去に、疲れた。それでも生きてきたではないか?その証拠に死んではいない。なるようにしかならなかった。過去が過ぎたことで、なにか微量なものが、わたしに沈殿した。そんな感覚がある。生きることに、積極的すぎたのかも知れない。しかたなく生きている。今は、そんな感覚が心地よい。不自然に、感情を鼓舞する言葉に、今のわたしは疲れている。熱く生きたい人は、そのように生きればよい。ただその熱量を、伝染させないで欲しかった。わたしは今の自分になるまでに、すごく遠回りをしたような気がする。わたしは結局、わたしだった。もう肉体的にも精神的にも、無理はしたくない。結婚を焦らなくてよかったなとも、素直に思う。なにかが、きっとおかしい?それはわたしだろうか?政治だろうか?世のなかの仕組みだろうか?読書が趣味だけど、わたしの頭では、明確な答えは導きだせなかった。学問をきわめた人でさえ分からないのに、わたしが分かるはずもなく。その最前線を知っているわたしは、それなりに不安が抑えられている。だから。純粋にわかいエネルギーが無理になった。無知ゆえの反抗も、瞳のかがやきも。わたしはそれをのり越えて、いまのわたしになった。複雑な過程で、いまのわたしになったのだ。わたしはわたしとして、生きなければならない。今でも自分と闘っている自分に、滑稽を感じる。でも過去より、少しだけ呼吸がらくになっている。過去は完全には、わたしから抜けていかない。その便秘感のまま、日々を生きているわたし。平凡だけど、内面的には平凡ではない。感覚的には、いつ死んでもいいとは思っている。今の現実に、それほどの執着はない。ただ。不思議と死にたくはないのだ。この感覚も滑稽。それほど生きたくはない。でも死にたくもない。わたしはこんな状態で生きている。笑っちゃう。だから罪悪感で、死にたくなるのだろう?まだ、わたしは生きるということに、悩み、苦しんでいる。わたしはバカだろうか?クズだろうか?そんなことを、今でもくよくよと悩んでいる。こんなことは、お酒をのんでいても、言えない。人の集まりに、今のわたしは疲れている。もういいよ。そんな感覚。恋愛は、それなりに楽しんだ。それで男というものを知った。だからもういいよ。いまはそんな感覚。今は、自分の死を考える。その意味での、これからどうしよう?自分の死にたいして、迷惑をかけたくない。処理する人とか、匂いとか。わたしは、生まれてくる場所を選べなかった。だから死ぬときぐらいは、選びたい。いまのわたしは、そんなことを検索する。いまは健康で、わたしはわたしで生きているけれど。それだけが不安。生きることに、やたらと鼓舞する言葉に、いまのわたしは疲れている。わたしはわたしなりに生きて、わたしなりの考えで、死んでいきたい。それが私の生まれた国で叶えられないのなら、海外にいこうと、いまのわたしは考えている。結局。自分にとって一番大切なことは、わたしの死の問題だった。人の視線や陰口に、今のわたしはつよくなった。そんなものは、努力で跳ねかえせる。ただ。死は、跳ねかえせない。今のわたしは、結婚をするつもりがない。子供をもつつもりもない。今は明確に、自分の死を意識しているわけではない。この感覚は、正しいのだろうか?わたしは人として、正しく生きているだろうか?わたしはわたしとして、一生懸命に生きている。それはわたしとして、確信がもてる。でも不安なのだ。いのちを繋げていくという歴史の行為に、わたしは逆らっている。そのことに、細胞的に罪悪感を突きつけられる。今のわたしは現実を知っている。自分のポテンシャルも、痛いくらいに知っている。そこから生まれてくる子供は、今の世の中で、幸せに生きていくことが、できるだろうか?そんなことを考えるわたしは、異常だろうか?今のわたしの位置は、労働者階級。そのことに、絶えずいらいらしてきた自分を、わたしは知っている。衰退を始めたこの国で、わたしはどうしても子供をもつことに、恐怖を感じる。そんなわたしの思考は異常だろうか?こんなことは、誰にも言えない。健康で生きてさえいればいいなどと答えを出した過去のわたしに、現実を知っている今のわたしは心酔できない。わたしは、まちがっているだろうか?生まれたら、生きていかなければならない。どうせ生きるなら、世のなかにたいして、より、有利に生きて行ってほしい。そう考えるのが、正しい親ではないのだろうか?そう、今のわたしは考える。わたしは、今の世のなかを生きていかなければいけない。過去の価値観は、参考にはする。わたしはこれからどう生きていけばいい?絶えず体のどこかにそんな不安がある。気もちわるいまま、この世を生きている。わたしの本質は、なにも変わってはいない。若いときは、感情が不自然にゆれただけだった。その感情にゆれた自分に、絶えず忙しかっただけ。もうわたしは、わたしに集中したい。時間は静かにながれている。そのながれに、不安と恐怖を感じているわたし。老いるという真実。しみのことなんて、まったく気にせず晴れの天気に心地よかったけれど、そのせいで今になって、しみがある。目じりとか、手の甲とか。わたしは目のまえを、必死に生きてきた。気づいたら、目のまえに皮膚の変化がある。新しい不安と、かるい絶望が、またわたしを苦しめはじめる。過去もまだ、完全には昇華しきれていない。わたしのいのちの時間はみじかくなっていく。それでも過去の読書の経験が、いまのわたしをなんとか救っている。だから完全な、孤独ではない。わたしの精神は、きっとそれらと繋がっている。わたしの頭のなかにある、その膨大な繋がりのなかで、わたしはわたしを生きなければならない。わたしには、わたしの答えがある。それらの繋がりを参考にはするけれど、わたしはわたしなのだ。すでに、思春期ではない。自分の描いた未来どおりに、いまのわたしはなっていない。それに対しても、苦しい。想いどおりにいかない。わたしは悪い子だろうか?そんなことを考えているうちに、世のなかは激しくうごき、ブランドを確立した会社が潰れていく。きっと、今の世の中が、求めていないのだろう。わたしの感情はゆれる。視点もゆれる。もっと揺れればいいとさえ思う。会社とは何か?それを突きつけられているような気がする。世のなかにたいして不必要な会社に、わざわざスキルをみがき、受かろうとしていた自分に嫌悪感が今更ある。わたしには、守るべき存在がいない。自分だけ、守っていければそれでよい。新しい秩序が生まれる予感。わたしは細々とわくわくする。今までの価値観が壊れる予感!わくわくする!人は、同じ場所にいたら、腐る。腐った人は、消えてしまえばいい。世のなかが、さらに歪めばよい。何げなく、そんな感じに内面が揺れる。わたしはこんな世の中を生きている。わたしはそれでも、今生きる時代を生きなければならない。わたしは自身に問う。わたしは、どう生きるか?だから。自分に対して、もう無理はしたくない。わたしはわたしでしか、生きられない。時代に合わなくなった会社の社長は、とっとと消えてしまえばいい。わたしにとっては、なんの精神的な繋がりもない。なんの悲しみもない。働くとはなんだろう?そんなどうでもいい疑問も、最近わたしを苦しめる。目のまえの生活を、つなげなければいけない。いまのわたしは、だから働いている。食べていかなければいけない。そんな根本的な場所に、まだわたしの精神は、とどまっている。好きで、働いているわけじゃない。わたしにだって、働くということに、夢があった。でも今はどうだろう?仕方なく働く。最近、こんな感じ。仕事はしているけれど、その仕事にたいして、精神が繋がっていない。生活はそれなりに安定しているけれど、なにか息ぐるしい。孤独を恐れてはいないけれど、意味のないことをしているようで。わたしは生きているのだろうか?人として、正しく生きているだろうか?わたしは急がなければならない。このままではわたしが腐ってしまう。そんな危機感がある。会社の外では世の中が激しく揺れている。それなのに、会社のなかは、昔の良かったときのまま。わたしはいまのうちに、個としての軸を高めてしまわなければならない。妊娠して堕胎した友達の記憶が、ここでも目のまえに現れる。裏切る心の準備はできている。まだこの組織は使える。だからまだ辞めない。この組織にたいして、それほどの心酔はない。もっと揺れればいい。わたしはいじわるに、そう願っている。そうすれば、わたしが受けた嫌なことが、癒されていくだろう?あの時のわたしみたいに。友達の妊娠を知った、あの時のわたしみたいに。好きで、この会社にいるわけではない。好きで、あの友達と一緒にいたわけではない。なんだかこの感覚は、あの時と、何も変化していない。わたしの背負っている星は、きっとこういうものなのだろう?わたしはいつも、居心地がわるかったような気がする。そしてまだ、自分の居場所を求めている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うらぎる準備 魚麗りゅう @uoreiryu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ