第3話 主人公の深堀
彼の母は病弱だった。毎日寝たきりで外を見ていた。そして、外ではしゃいでいる家族を見つけては、決まって幼かった彼に向かってこう言うのだった。
「ごめんね、真ちゃん。お母さんがこんなばっかりに……」
そして、幼かった彼はそれに対して決まってこう返すのだった。
「いいもん。僕はお母さんとお父さんがいるだけで幸せなんだから」
それは本心から言っていた。彼の父は仕事で忙しく、それこそ彼には数回しか顔を合わせていないが、それでも父と母がいてくれることは彼にとって幸せだった。
そんなある日のことだ。彼の母親は激しく咳き込み始めた。最初は彼も、母親が大丈夫だと言うのでそれに従っていた。しかし、それが何日も続くと、次は吐血し始め、しまいには気を失ってしまった。その時幼かった彼はどうしていいかわからず、とりあえず母の額に水で濡らしたタオルを置いてみたり、お菓子を口に押し込んだりとあたふたしていたが、すぐに万策尽きてしまい、呆然とその場に立ち尽くした。その間も確固たる不安感、母という大事な人の死という悪夢は彼を支配し続け、焦りのみを生み出した。すると、ふと、こんな時どうすればいいか母親から聞いていたことを思い出す。それは夜になってひんやりと冷たい木目のフローリングに無造作に転がっているクマの人形を見つけたことだった。
「いい?真ちゃん」
母親の優しい声が、病気のせいで衰弱しきった声が、彼の心の中に反響し、彼は思い返せばそこにある家族の愛の真っただ中へと包み込まれる。
「もし、真ちゃんの周りで人が倒れたらすぐに電話をするんだよ?」
その言葉と共に母親の優しい微笑みがフラッシュバックされた。母親の手元にはクマの人形が置かれている。そこでは、ほの明るい外の陽光が母親の愛おしいものを見つめるような眼に輝きをもたらす。彼と彼の母親は早起きだった。なぜなら彼の母親は病気のせいでぐっすり眠ることもままならかったためである。しかし、彼にとってはその早起きという習慣が苦ではなく、まだ外がほの明るい時に起きると感じられる高揚感、そしてなにより朝の胸がすくようなにおいが好きだった。っと、そんな風に今までを振り返っていた彼だったが、今はそんなことをしている場合ではないと思い直す。そう、彼の優先事項は自分の母親を助けることだ。そこで彼はその映像の続きを思い出すように神経をとがらせた。
「電話番号は一一九」
彼は番号を思い出し、すぐにそれを打ち込む。電話はすぐにつながった。
「一一九番、消防です。火事ですか?救急ですか?」
相手は声からして女性の大人のようだ。安心した彼は、今、冷静になって自分の置かれている状況を俯瞰した。倒れた母、どうしようもできなかった自分、無駄になった時間……彼はそんな焦りと、やっと助けが来る安心感をないまぜにし、泣き出した。今自分がなんで泣いているのかもわからなかった。彼はその後、嗚咽しながら懸命に答えた。
結果として彼の母親は死んでしまった。話を聞く限り、余命の予定は彼が生まれたころだったらしいから、大往生を遂げたらしい。しかし、それは彼にとって何の救いでもなかった。彼はあの時ああすれば母親は助かったのではないかという後悔に駆り立てられた。もしあの時もっと早く連絡していれば母親は助かったかもしれない。彼の幸せの構図、つまり父と母がいる家庭のことだが、それはその時崩れ去った。そして後悔というどうしようもならない感情は彼を諦念へと引き込んだ。そして彼は悟る。始めから期待などしなければいいことに。ここで彼は幻想を棄てた。或いはこの事件をきっかけにこの世のすべてに幻滅したともいえるだろう。これは、だからと言ってロマンチストと対義語の、リアリストになったわけではない。そもそもリアリストだって自分はこれくらいできる、世界はこんなもんだという客観性に基づいた幻想に縋っているのだから。だから彼は予測という、客観性に基づいた幻想を棄てた。つまり刹那主義になったのだ。同時に彼は同族の人を嫌っている。これは同族嫌悪からくるものなのか、はたまた彼のような経験をしていないのにそれに陥っている一種の侮蔑からくるものなのかは彼自身でさえ分からない。
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