第10話
浴室の改築については一家の主婦権をなお握っているミサエが動こうとしないことがブレーキとなって、その後も進まなかった。幹夫は菜香に「いつになったら風呂場の改築はできるんだろう」と焦燥を訴えることがあった。「あわてなさんな。必ず改築するんだから」という菜香のいつもの言葉を聞きたかったのだが、彼女は煩わしくなったのか、「あんた、ちょっと神経になっとるよ」と応じた。幹夫はそうかも知れないと思った。しかしそれならなおのこと、この問題に早く決着をつけてしまいたいと思うのだった。頼りにしているだけに、菜香の言葉に幹夫は突き放されたような不安を覚えた。そんな幹夫の気持を察したのか、菜香は改築の参考にするためにモデルハウスを見に行くプランを口にした。
休日の一日、建築会社七、八社が共同で開設している展示場を二人は見てまわった。キッチン、リビング、座敷などの間取り、浴室の造りなどが二人の関心事だった。幹夫にはどの家も今の住居に比べれば快適な住まいに思われた。二、三十年のローンを組んで家を新築した一、二の同僚のことを思って、いっそ自分の家を建てようかという気持も過ぎった。しかしそれはもちろん菜香の同意するところではなかったし、幹夫自身も今さら本気で考えようという気持はなかった。「新築なさるのですか」と問い掛けてくるモデルハウスの説明員に、いつになるかも分からないのに、と思いながら、「いや、改築を考えているので」と幹夫は苦い気持で答えた。
その日の夕食の食卓ではモデルハウスのことが話題となった。
「大体、台所と食堂と居間が一続きになっている間取りが多いね」
幹夫は一番強い印象を受けたことを口にした。
「食事をして、終ったら居間で一服する。そこにテレビが置いてある。そこが家族の集まる所でもある。そう言えば、この家には居間がないんだ」
幹夫は今気付いたような口調で言ったが、浴室の設計のまずさと居間がないことが早急な解決を要するこの家の二大欠陥だということが強く意識されていた。 「何でもここでしょ。ここが食堂であり、居間であり、応接間でもある」
ついでに、〈お
「一方でほとんど使われていない部屋がある」
「そう。母ちゃんの箪笥置き場になっている」
菜香が応じた。
「母ちゃん、あんた整理したらどうね。いらんものは捨てて。箪笥が九つもあるが」
「何がいらんものね。いらんものはないよ」
ミサエが気色ばんで反発した。
「うそ言い。何十年も着てない服をたくさん取ってるやない」
菜香は退かない。
「いいやないかね。取っておいても」
応ずるミサエの声には苛立ちがこもり、哀訴の響きもある。 「よくないよ。邪魔よ」
菜香は容赦しない。性格的にはどちらかと言えば宗造に近い菜香だが、このあたりは確かにミサエの血を継いでいるようだ。それは幹夫が密かに頼もしく思っているところでもあった。幹夫と菜香の間には、浴室や勝手口の改変だけでなく、将来的には、多機能が集中しているダイニングキッチンのあり方を変え、居間をつくることについても合意があった。そのためにはミサエの箪笥や、彼女があちこちに蓄えている保存物の整理が必要だった。 「まあ、この家の間取りは不合理だね」
幹夫はミサエの不愉快を承知で続けた。
「昔の家は皆こうだったんだよ」
ミサエは仕方ないじゃないかというように言った。
「人が使うスペースより、物置になっているスペースの方が多い。まあ、部屋が死んでるわけだ」
言う時には言わなければ、と幹夫は自分を励まして、ミサエを刺激する言葉を続けた。すると、
「いらんものが多い。味噌部屋に使いもせん鍋や桶がたくさん置いてあるが、邪魔になるだけだ」
とそれまで黙っていた宗造が口を開いた。ミサエは猛禽が獲物を見つけた時のようにキッと宗造を睨み、
「あれ、父ちゃん、あんたはいらんことを言いさんな。あんたは何も知らんのやから」
と、例によって即座に宗造の口を閉ざそうとした。
「何が知らんか」
と宗造はわずかに反発した。彼は時折、ミサエが取っておいたものを捨てて、ミサエから激しく罵られることがあった。「人が大事に取っとるものをなんで捨てるんかね! 」 「何回言われたらわかるんかね! 」「いるか、いらんか、あんたにはわからんものやろ、なし訊かんかね! 」ミサエの激しい剣幕に、宗造は「邪魔になる。いらんものが多すぎる」と小声で返す。宗造には整理癖のようなものがあって、幹夫が電気カミソリの刃のカバーをちょっと食卓に放置していたところ、それを捨ててしまったことがあった。ミサエが宗造を罵る言葉によれば、宝石を捨ててしまったこともあるという。菜香も目的があって取っておいたものを何度か捨てられていた。「整理整頓」を口うるさく言い、必要なものまで捨ててしまうので、「何が整理整頓か! 」と妻と娘の両方から宗造が噛みつかれる場面もよく現出した。一方、ミサエの方には、保存癖と言ってもよいほど物を取っておく傾向があった。包装紙や紐、紙袋の類、出先で手に入れるマッチ、スーパーで渡されるビニール袋などまで、それぞれ区分して、押し入れや戸棚にギッシリ入れていた。屋根裏部屋は丸ごとそうした保存物の収納庫になっていた。押し入れや戸棚に納まり切れないものは、その前にあふれ、積み上げられ、人の住む空間をしだいに侵食していった。幹夫はミサエが古い用具や道具を捨てようとしない心理が分からなかった。後何年生きるつもりなのだろうと思うのだった。既に何十年も使わないできたものを、今後生きている間に使う可能性はゼロのはずだった。幹夫はそんなところにミサエの盲目的な物欲や執着を感じて嫌悪した。
「おかあさん、三年間着なかった服はもうずっと着ることはないよ」
幹夫はためらいを押し切って言った。ミサエは黙って幹夫の顔を見た。菜香が応じるように、
「中二階の洋服箪笥に入っている服はいるの。たくさん入っとるけど、あれ、三十年くらい前の服やない。育成会のバザーに出したら。難民支援で送っても喜ばれるよ」
と言った。中二階は屋根裏部屋のことで、二間あったがどちらも物置になっていた。
「そんなことを言いなさんな」
とミサエは顔をしかめた。
「いらんものは捨てていかんと、場所とられて、せっかく家が大きくても、それが生かされんやろ。馬鹿らしいやない」
「モノより住んでる人間の方が上にこないとね」
幹夫が笑いを浮かべて言うと、ミサエはキッとした目で幹夫の顔を見た。
「中二階の東側の部屋は幹夫さんの書斎にしようと思っているんよ。だから、洋服箪笥は動かしたいんやけど」
菜香がそう言うと、ミサエは、
「そう幹夫さんの都合のいいようにばかりはいかんよ」
と言った。そして、顔付きを厳しくして、
「あんたたちは私が取っているものをいらんものみたいに言うけど、母ちゃんにとっては思い出のある品物なんよ。いらんもんと言うたら、幹夫さんが持ってきた古い本なんか、母ちゃんに言わせればガラクタみたいなものよ。あれこそ捨てた方がいいんじゃない。本の重さで家が傾きよるんだから」
と言った。
ミサエとしては幹夫には随分気を遣っているつもりだった。幹夫の言動には不快なことも多いのだが、娘の希望を容れて同居してくれる有り難さに文句を言わずに抑えてきていた。ミサエの性格からすればこれは大きな譲歩だった。それだけではない。風呂場の改築の件も認めてやったし、使われることの殆どない応接間を、求められれば幹夫の書斎として現在使わせてもいる。中二階を書斎にしたいと言うのなら、応接間を元に戻すことを条件に認めてやってもいい。しかし幹夫にはそんな気遣いに応じる態度が見えない。ミサエに対する態度はどこか冷ややかで敵対的だ。それがミサエの納得のいかないところだった。食卓で宗造に文句を言うことを幹夫が問題とするのもミサエには全く理解できないことだった。幹夫には何の関係もないことではないかと思うのだった。そんな日頃からの幹夫に対する不満が攻撃的な発言となった。
幹夫はカッと頭に血が上った。確かに中二階には引っ越した時に持ってきた幹夫の蔵書が置いてあった。それは運び入れた時の乱雑な状態のまま放置されていた。その重さで梯子の基部のところが傾いていると言われ、幹夫は菜香から稲屋の方に移すよう言われていたが、そのままにしていた。しかし、それを「ガラクタ」と言うとは! 幹夫は怒りを抑えながら、ミサエの自己主張、他者攻撃の激しさを改めて噛みしめた。敗戦後、混乱の満洲から叔母とともに、叔父の四人の遺児(最年少は四歳のヨチヨチ歩きの女の子)を引き連れて、引き揚げの修羅場を越えてくるには、こんな気性の激しさが必要だったろうと思われた。当時、二十歳を過ぎて間もないミサエは、夫を奪われて心細くなっている叔母を支えて、無事に帰国するまで大きな力になったのだ。自分の子とミサエを区別して、ミサエに辛い思いをさせるところのあった叔母も、このことでは心からミサエに感謝したという。ミサエは不用なものは捨てて、家の中を暮らしやすいように整理しようという幹夫夫婦の論理に、幹夫のウィークポイントを突くことで反撃したのだ。本という精神的価値のあるものを不用品と同一に扱われてたまるものか!と胸の中で反論しながらも、幹夫がミサエに不用なものは捨てようと言いにくくなったのは事実だった。同時に、家の現状を少しでも変える気はないというミサエの意思を確認した思いで、幹夫はミサエに対する怒りと嫌悪を新たにするのだった。
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