第9話

 幹夫は老夫婦がこのような風呂場に何の不都合も感じずに四十年以上を過ごしてきたことに奇異の念を抱いた。脱衣場も、洗面台もついていない、外から中が窺えるような風呂場に何の不都合も感じないというのは、幹夫に先ず、その人間の文化的な程度の低さのようなものを思わせた。またそれは、農民の生活の伝統的な質素さをというものをも考えさせた。宗造の家は代々の百姓だったし、その地域は現在も住民の九割近くが農作業に関係しているような地域だった。最後にそれは、長年に渡って質的に低い生活を続けてきた結果、老夫婦の感覚がそれに相応しいものになったのだということを思わせた。老夫婦が経て来た人生を思えば、生活の質などと言うことは問題にならなかっただろうという気が幹夫はした。宗造は戦時中、陸軍中尉として中国、東南アジアで戦い、ビルマの密林で英軍と戦闘中に終戦を迎えた。日本軍は降伏し、宗造達は捕虜となった。戦闘中に、部下の士気の昂揚のために英軍の捕虜二人の首を斬った宗造は、収容所で、戦犯指名を受けて処刑されるのではないかと怯えていたが、無事に帰国することができた。ビルマのジャングルの中では、雨水を飲み、木の実やトカゲを食べ、飢えをしのいだ経験を持つ。ミサエの方は、日本の敗戦によって「満洲国」が崩壊し、帰国するまでの一年数カ月の間、収容所生活と引き揚げという過酷な体験をしている。線路が破壊されて汽車が動かず、すすき原の中の獣道のようなところを長蛇の列をなして歩き、夜は芒を切って寝床にし、浴衣から作った風呂敷を天井にして野宿をしたが、寒くて眠れなかったという。博多までの船の中は雑魚寝で、食事は芋の弦を干して塩水で茹でたものとコーリャンが一日一回だけだった。栄養失調で歯槽膿漏に罹ったらしい。生死の境を食うや食わずで生き抜いてきた彼等には、そんな非常時の耐乏生活が身についてしまっているのではないかと幹夫は思うのだった。それは例えば、鍋料理などをした時、ミサエが食材の一人宛の分量を素早く、厳しく決めてしまうことや、宗造やミサエが人前で下着姿になるのを気にせず、ミサエが洗濯した自分の下穿きを勝手口の人目につく場所に干して平気であることなどにも表れているように思われた。風呂なども入れさえすればそれで十分だという感覚があるのではないかと思われるのだった。ミサエが満洲生活の思い出を語る口振りには普通の人より水準の高い生活をしたことを誇るような感じがあったが、一方でこのような感覚があることに幹夫はちぐはぐなおかしさを感じた。                              

 午前一時、二時までテレビを見るミサエが寝る前に入浴するのだから、ミサエの入浴は深夜であった。その時刻には宗造は自分の部屋で、幹夫夫婦は二階で既に寝入っており、周囲には誰の目もなかった。だからミサエは脱衣場がないことや、浴室の中が見えることに無頓着でいられるのかも知れなかった。そう考えると、幹夫はまたミサエの自分本位に腹が立った。ミサエが浴室の改築に否定的であることが、自分に不都合がなければ、他の人間がいくら苦しんでいても構わないという態度の表れに思われるからだ。他人ひとの痛みは一年でも我慢できる、という言葉が頭に浮かび、そうされてたまるか、という敵愾心が幹夫の胸を焼いた。

 ミサエは電灯を点けずに入浴した。曇りガラスを透ってくるダイニングキッチンの明かりだけで十分なようだった。周囲には他者の目はないのだが、それでも気になるのか、電力を節約したいのか、そんな習慣になっているのか、おそらくそのいずれでもあっただろう。節約の観念は老夫婦にしみこんでいた。夏場は風呂は沸かさず、シャワーだった。太陽熱温水器を屋根に取付けていて、火力を用いずに湯が出た。体を洗うにはそれで十分で湯に漬かる必要はないという考えだった。老夫婦は電気の節約も細かくした。幹夫がすぐ戻ってくるつもりで電灯を点けたままその場を去り、戻ってみると電灯が消されていたということもちょくちょくあった。電灯を消し忘れたりすると、菜香を介してか、直接老夫婦、多くは宗造から注意された。「あんた、便所の電気、消し忘れとったよ」と宗造から突然言われると、幹夫はしまった、と思うとともに、むっとする気持も動いた。そんな時の宗造にはある威圧感があり、軍隊や国鉄で部下の男達を管理してきた過去が顔を覗かせた。日頃、宗造の行動を批判することの多いミサエも、節約にかんしては一致していた。そんなところにも幹夫は二人に、戦中戦後の耐乏生活の残影を見るのだった。                                                

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