第8話
しかし、老夫婦の改築への同意は、改築への第一歩というより、第一歩を踏み出す気があれば踏み出してもよいという消極的な承認に過ぎなかった。何の変化もなくその後の日々は過ぎていった。改築について宗造は何も言わず、ミサエももちろん何も言わなかった。状況はこれまでと変わらず、幹夫のストレスだけが続いていた。宗造の家の間借り人である幹夫は、その家の改築は家主である宗造の主導権で行われるべきだと考えていた。しかし、老夫婦にその動きはなく、幹夫は、これは結局自分が主導的に動いていくほかはないのだと悟った。
幹夫は夕食の会話に浴室の改築の件を再び持ち出した。ただし、直接的には語らず、いわば搦手からの切り込みだった。
「ここは人が来て、そこを開けると、食事している所が丸見えでしょう。これは体裁よくないよね」
幹夫はまた体裁論に拠った。老夫婦、というよりミサエをその気にさせるには体裁の悪いことはやめようと訴えるのが最も効果的だと考えたからだ。改築に向けての最大のネックはミサエだと幹夫は考えていた。ミサエがその気になれば宗造はそれに無条件に従うはずだった。幹夫の見るところ、ミサエは現状のままで満足のようであった。幹夫が「そこ」と言ったのは、土間からダイニングキッチンに上がってくる格子戸のことだった。玄関から入って来るのは改まった客で、近所の人は稲屋の前を通って勝手口から土間に入り、その格子戸を開けて、ダイニングキッチンに顔を出すのだ。
「ちょっとした用事の人にまで家の中を見られてしまうものね」
と菜香が応じた。
「そう。人が来ても、直接食卓に顔を出すんじゃなくて、ワンクッションあるようにせないかんね」
と幹夫は言い、
「風呂場をやり変えるときは、それも一緒に解決しないとね」
と浴室の改築に結びつけた。浴室の改築とともに勝手口の位置や構造を変えることは幹夫と菜香の間では合意されていた。菜香はミサエと相談すると言っていたが、具体的には進んでいないようだった。
「設計をせんといけんね。風呂場と一緒に」
幹夫はミサエを促す気持ちをこめてそう言った。
「先ず風呂場をどこに作るかやね。今の風呂場をもっと向こうに出すか。それとも他の場所に作るか」
「私はここに作った方がいいと思うがね」
菜香が土間の方に顎を振って言った。
「水道管もそこまで引いてあるし」
土間の突き当たりには流し台があり、水道の蛇口があった。そこで畑から収穫してきた野菜を洗ったり、切ったり、料理の下拵えをするのだ。
「ほんなら、流しはどうするんかね」
ミサエが口を開いた。
「それは今洗濯機が置いてあるところに作ればいいと思う」
菜香が答えると、ミサエは憮然とした顔付きになった。浴室の改築などいらぬことだ、とその顔は語っているようだった。
「私はここに一部屋作ってね。出入口をつけたらいいと思うんやけどね」
菜香は浴室のある場所を指して言った。彼女の頭には具体的なプランが描かれているようだった。
「ここに部屋を作るの」
幹夫が問うと、
「うん。お客さんにはその部屋で対応してね。そうすればここまで入ってこられんでいいし、家の中を見られんですむやろ」
幹夫は現在の浴室の状況を変えたいと切実に思うだけで、どこをどうするというような具体的なプランは持ってなかった。その点、菜香の具体性に幹夫は頼もしさを覚えた。
「母ちゃんはどう思う」
菜香がミサエに尋ねた。
「うん、トイレも変えないけんのやけどね」
とミサエは違うことを口にした。幹夫には意外な言葉だった。だが、
「そうやね」
と菜香は頷いた。
「何、トイレって」
と幹夫は焦りを感じながら菜香に尋ねた。
「父ちゃんが膝が痛くて、しゃがんでするのがだんだんきつくなっとるんよ」
「ああ、そういうことか。それで洋式にね」
幹夫は戸惑いを隠して頷いた。
「水洗に変えないけんしね」
菜香は独り言のように呟いた。
「合併槽の問題があるやろう」
とミサエが言った。町にはまだ下水道が整備されていなかった。トイレを水洗にするには個々の家庭が浄化槽の設備をしなければならなかった。それが下水と屎尿を一括して処理する合併槽だった。幹夫はこの時初めてミサエ達が浴室の改築とトイレの改修とを一緒に考えていることを知った。幹夫には思いがけない展開だったが、咄嗟に頭に浮かんだのは、トイレの改修と一緒にされたのでは、浴室の改築は先に延びるのではないかという懸念だった。それは嫌だ、と反射的に幹夫は思った。そして、そんな話を持ち出したミサエに悪意を感じ、その意図を忖度した。しかし、宗造のことを思えば、また、幹夫の立場では、トイレの改修は浴室の改築の後で、とは言えなかった。
「トイレをどこにもってくるかも考えないとね」
とミサエが攻勢に立ったように言った。
「私は玄関の横がいいと思うんやけどね」
と菜香が応じた。
「向うの土地が下がってきよるやろ。できるだけこっちにもってきた方がいい」
トイレは家の東端にあった。敷地の東端は崖になっていて、その縁を盛り土をして造成し、崖をコンクリートで固めていた。その上に建てた家屋が沈下しているのを近頃菜香が見つけていた。
「玄関の横かね。そうやね」
ミサエが思案顔で言った。
幹夫は浴室の改築への意気込みを挫かれたような気分になっていた。改築までにはまだ数々のクリアしなければならない問題があることを思い知らされたような気持だった。幹夫の意図に反して、その日の話し合いでは浴室の改築に向けて具体的な進展は何もなかった。
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