第7話
外観では七年前と殆ど変わらない同居生活だったが、内容の細部を見れば歳月がもたらした変化が当然あった。ミサエが夕食の支度を次第に菜香に任せるようになったのもその一つだった。二度目の同居の初めの頃には、まだ献立を考えるのはミサエであり、実際の調理も菜香と半々ぐらいの作業量をこなしていた。それが次第に献立も調理も菜香が一人でするようになった。ミサエは漬物を漬け込んだり、それを切って鉢に盛る程度のことしかしないようになった。
ミサエが夕食の支度を菜香に任せ、夕食の前から食卓の自分の椅子に座ってテレビを見ているようになると、幹夫は入浴の度にそれまで以上にミサエの重圧を感じるようになった。ミサエが夕食の調理をしている頃は、いろいろな作業で彼女は動いていた。ダイニングキッチンに居ないこともあったし、居ても浴室に背を向けて、流し台で包丁を使っていたりした。だから幹夫はミサエの目を気にせず、浴室に出入りできる場合があった。入浴中もミサエが動いていると思うと気が楽だった。ミサエの視線がじっとこちらに注がれていると考えなくてすむからだった。ところがミサエがじっと椅子に座ってテレビを見るようになると、テレビと浴室の出入口が接近しているために、幹夫は出入りの度にミサエの視線を意識せざるを得なくなった。流し場で体を洗っていても、曇りガラスを透かして自分の体がミサエに見えているという意識が、幹夫の動作をぎこちなくするのだった。それは彼が避けてきた夕食後に入浴する場合と同じような状況だった。
浴槽に漬かっている時だけ、幹夫はミサエの視線を意識せずにすんだ。浴槽の位置は出入口の正面から外れていて、見えない部分にあった。しかし流し場に上がると、そこは忽ち曇りガラスを透かしてくる視線の圏内だった。幹夫は浴槽から上がる度にミサエの視線に促えられる己の裸身を意識した。それは不快なことだった。浴槽から自然な上がり方をすると、体の前面を一度曇りガラスの方に向けることになった。陰部の翳りが視線に促えられることを幹夫は意識した。それで体が反対を向くように上がったことも何回かあった。しかしそれは不自然な上がり方であり、また、そんなことに気をつかっていること自体が不愉快なことだった。それで、それまで通りの上がり方に戻す。するとやはり、曇りガラスの向うから見ている目に陰部が映ったことが不快に意識されるのだった。体を洗う時、拭く時、流し場で動作する時は常に曇りガラスの向うでこちらを見ているミサエの目が意識された。下着は出入口脇の壁に取り付けたハンガーに掛けていたが、それに近づくことは曇りガラスに近づくことで、それだけ体が外からはっきり見えることになると考える幹夫は、体は動かさず、できるだけ手を伸ばして下着を取ろうとした。その不自然な動作は行う度に苦痛であり、不愉快だった。宗造はパンツ一枚で浴室を出入りしたが、幹夫は必ずシャツも着た姿で動いた。彼はパンツだけの姿で家の中をうろつきたくなかった。それは、脱衣場もなければ、浴室は外から中が見えるというような、およそ文化的とは言い難い状況へのせめてもの抵抗だった。またそれは、ミサエへを意識してのことでもあった。自分の裸身をミサエが見たがっているとは幹夫も本気では思わなかったが、それでも曇りガラスのドアを開けて出てくると、正面の位置にミサエがいて、視線をわずかにテレビの方にずらしているだけなのだ。ミサエは浴室から出てきた幹夫に自然な一瞥を与えてもいいはずだが、視線が幹夫の方に向くことは全くといってなかった。時には眠っているのか目を閉じていたり、俯いていることもあった。それは意識的に自分を見まいとしていることのように幹夫には感じられた。とするとそれは逆に、ミサエが浴室の中の幹夫に全くの無関心ではなかったことを語っているようであった。そう思うと幹夫はミサエの前に自分の裸身を晒すことが何となく面映ゆく感じられた。ミサエに宗造より若い肉体を誇示しているような奇妙な感覚が生まれ、落着かないのだった。幹夫がシャツを着るのにはそうした感覚を打ち消したいという心理も働いていた。そして、これら一切の心事が幹夫には全く不愉快であり、唾棄すべきことだった。幹夫はミサエが全くの無関心であってくれればもっと気楽に振る舞えるのにと思い、いい年をして、とミサエへの嫌悪感をさらに募らせるのだった。しかし、幹夫がかって仮設の脱衣場を作るほど脱衣場がないことにこだわり、また、ミサエに性器を突き出して見せたなどの経緯を考えれば、ミサエが下着姿の幹夫に目を向けようとしないのも頷けることではあった。
入浴の度に繰り返される如上のようなストレスが七年前より幹夫には応えた。幹夫の加齢も影響していただろう。彼は菜香と浴室の改築について相談した。幹夫が浴室について不満を訴えるのはこれまでも繰り返されてきたことで、菜香も放っておくわけにはいかなかった。彼女自身も浴室の現状について不満があった。夫婦は浴室の改築の必要性について一致した。食卓で浴室の改築について切り出すのは幹夫の役目だった。
「こりゃ、やっぱり、脱衣場を作らないと、下着姿でウロウロするというのはみっともないよ。ここは応接間みたいにもなっていて、お客さんも来るんだから」
幹夫は体裁論から切り出した。
「人が来たら、帰るまで風呂に入れんけんね」
と菜香が同調した。老夫婦をいかにその気にさせるかが問題だった。
「脱衣場を作ったらいいやないかね」
と宗造があっさり同意した。そんなことは気安いことだ、という感じだった。ミサエは黙っている。
「母ちゃん、どう思うね」
と菜香が訊いた。
「脱衣場をどこに作るね」
とミサエは気乗りしない顔で問い返した。
「風呂場をもっと向こうに出したら、できるんじゃない」
と菜香が答えた。ミサエは何も言わなかった。
「洗面所もいるでしょう。何もかも流し場の蛇口一本じゃね。鏡もあれじゃよく見えんし」 と幹夫は言葉を継いだ。実際、朝は腰を屈めて、流し場の蛇口を捻って顔を洗い、歯磨きも髭剃りもその蛇口一つを使うのだった。髭剃りの時は、流し場の壁に掛かっている細長い鏡を見るほかはなかったが、その鏡は昼間でも暗くてよく見えなかった。電球を点けると、低い天井の真ん中に付けられている裸電球は、後頭部から照らすことになって顔面は影になった。
「風呂場はただ体を洗えばいいという場所ではなくて、一日の疲れを癒して寛ぐ場所なんだよね。健康を保つためにも大切な場所なんだ。年寄りにとって入浴は健康管理上特に重要な意味があるんでしょう」
幹夫は老夫婦が関心を持っているはずの健康問題と関連づけた。
「今の風呂じゃ、とてもじゃないけど寛ぐ気になれんものね。どうせなら快適な風呂に入りましょうや」
と幹夫は老夫婦の決断を促すように言った。
「改築しなさい。別に構わんよ」
と宗造が再び改築を認める発言をした。ミサエは黙っている。
「母ちゃんもそれでいい?」
菜香がミサエの意思を確かめる。
「あんたたちがそうしたいんなら、そうすればいい」
黙っていようとしたところを質問され、仕方なく答えたという感じでミサエは言った。しかし、幹夫はほっとした。浴室の改築がとにかく老夫婦の同意を得たのだ。それは幹夫の浴室に関する長い間の苦痛が終わる可能性が生まれたことを意味した。
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