第6話


 この家の食卓のある部屋、つまりダイニングキッチンは八畳ほどの広さだ。そこに、ガスレンジ、流し台、冷蔵庫、食器棚、食卓、ワゴン、テレビ、電話台などが置いてある。食卓の椅子をテーブルから少し離すと、その後ろが通りにくくなるようなスペースしか空いていない。この家ではこの一間に様々な役割が集中されていた。そこはダイニングキッチンである他に、家族が集まる居間であり、客を迎える応接間でもあった。この家は戦後間もなく建てられた家で、戦前の中流家庭によく見られる間取りだった。家の中央に座敷と仏間を含む四つの部屋が田の字形に配置されていた。この四間は家の中心部にありながら、居住のためには殆ど使われない空間だった。紫檀と黒檀の大きな座卓が置かれた座敷は、改まった客か、多人数の客が来た時しか使われなかった。現代の住宅では設計の中心に置かれるという居間(リビング)がこの家にはなかった。こうした時代遅れの設計がダイニングキッチンに多くの役割が集中するという歪みをもたらしていた。

 ダイニングキッチンはさらにもう一つの役割を担っていた。それはミサエの個室としての役割だった。ミサエは食卓の自分の椅子の横に、薬や眼鏡、筆記具や手紙、読みかけの本など、日常生活に必要なものを入れて置く、キャスター付きの収納棚を置いていた。彼女は食卓の椅子に座って食べ、テレビを見るだけではなく、本を読んだり、手紙を書いたり、居眠りをしたりするのだった。ミサエの部屋は別にあったが、そこは寝室としてだけ使っていて、起きている間はダイニングキッチンに居るのだった。食事が終わって家族がそれぞれの部屋に引き上げると、ダイニングキッチンはミサエの個室と化した。最初の同居の時は、ミサエはまだ、自分の日常用品は空いた椅子を横に持ってきて、その上に積み上げていただけだった。それがちゃんとした収納棚に変わったことは、ミサエの個室としての性格がそれだけ強まったことを意味した。休日の朝など、幹夫が遅い朝食を摂っていると、寝室から出てきた寝巻姿のミサエが、のろのろと幹夫の前で着替えを始めることがあった。着る服は幹夫の正面の自分の座る椅子の背に掛けているのだ。幹夫は義母で老女とは言え、他者の下着姿を見るのは憚られる思いがして目のやり場に困った。さらに、食事をしている側で埃を立てられるような不潔感や、自分の存在が無視されているような感覚もあって、〈ここはあんたの個室じゃないんだ!〉と叫びたくなるのだった。

 幹夫にとってミサエの個室と化したダイニングキッチンは忌避される場所だった。そこに入るにはそれなりの覚悟を必要とした。しかし、そこにはお茶があり、酒があり、ツマミがあり、入らずにすませるわけにもいかない場所だった。二階にいてお茶が飲みたくなると、いつも菜香に頼んで持ってきてもらうというわけにはいかなかった。菜香はもう何度かお茶や酒を運んだのだから、今度は幹夫の番ということになる。菜香が不在の時もある。幹夫は渋々階下へ下りていく。ダイニングキッチンの仕切りの引き戸が閉じられている。その曇りガラスにはテレビの白い光が映って、ちらちら揺れている。中でミサエがテレビに見入っているのは確かだ。幹夫は重圧を一息抜くことでかわして、意を決して引き戸を引く。ミサエは知らぬ振りをしてテレビを見つめているが、その渋面は明らかに幹夫を意識したものだ。幹夫も無言でその前を過ぎ、作業を始める。急須の茶葉を入れ替え、湯を注ぐ。紅茶が飲みたい時には水屋から紅茶の缶を取りだし、スプーンで粉葉を掬ってポットに入れ、湯を注ぐ。日本茶の場合は急須から湯のみに注ぎ、湯のみを持って部屋を出て行く。紅茶の場合はポットと茶漉しとカップを持って出て行く。この間、幹夫とミサエは同じ部屋にいながら言葉を交わさない。幹夫は何か言葉をかけた方がいいと思うこともあるのだが、幹夫には目もくれずにテレビを見続けるミサエの渋面に自分に対する対抗意識を感じて言葉が出てこない。言葉をかけることが相手に阿るようで幹夫は不快だった。幹夫は自分がミサエに抱く嫌悪感はミサエに通じており、ミサエは当然それへの反発を示していると考えていた。ダイニングキッチンを出て引き戸を閉めると、幹夫はほっと息を抜く思いがした。関所だな、と幹夫は思った。必需品の貯蔵所であるそこに座っていれば、家人の動きをチェックできる。ミサエは関所の番人のように幹夫には感じられた。


    

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