第2話

                           

 七年振りに再開された同居生活は、外見的には以前と殆ど変わらなかった。

 この家に住む四人、幹夫夫婦と菜香の両親が顔を揃えるのは夕食時だ。食卓の四辺にそれぞれ一人ずつ着席する。幹夫の正面には義母のミサエ、右手には義父の宗造、左手には菜香が座っている。この座席の配置は七年前と同じだ。最も頻繁に話を交わすのはミサエと菜香だ。家事に関することと世間話が殆どだ。その間に幹夫と菜香の夫婦の会話が入る。二人だけの時のようにはスムーズにいかないが、その日あったことや、思ったこと、明日の予定などを幹夫は話そうとする。ミサエと宗造の間には殆ど会話がない。宗造は寡黙だ。黙々と食べる。ミサエは菜香と話し、幹夫夫婦の会話にも口を挟み、幹夫にも話しかける。これらの様子も七年前と変わらない。

 幹夫は政治の批判をよくする。政権を握っている保守派の政党や政治家の批判だ。これは七年前より顕著に多くなっていた。

「この前、介護保険が導入されて一年、という番組があったが、どのケースも前より状況が悪くなったというのばかりだったな。最期は家族で看取るつもりが、利用料が高いので、ヘルパーの訪問介護の回数を減らさなければならなくなって、施設に預けたり。そんなのばっかりだ。障害の重い人ほど負担が大きくなる。この制度には欠陥があることを証明したような番組だった」

 幹夫は誰にというわけでもなく言うのだが、正面にはミサエが座っているので、ミサエに向かって話す形になる。

「もともと医療・福祉関係の予算を大幅に削るために導入された制度だから、いいわけないんだけど」

 流れているテレビのニュースでは、健康保険料の本人負担を二割から三割に引き上げる政府の方針が伝えられている。

「三割負担か。これは大きいよ。なんで値上げせないかんのかな。財源がないとか言いながら、銀行には何十兆円という税金を注ぎ込めるんだからな」

「そおっちゃ。銀行ばっかりよくしてね。おかしいっちゃ」

 ミサエが同調する。

「消費税はどうなっとるの。あれは老人福祉のために作られたんやなかった? 消費税は何に使われよんやろか」

「公共工事に使われよんやないかね。銀行に回す金にも入っとるかも知れん」

 幹夫は苦笑いを浮かべながらミサエに答える。

「阪神大震災の被災者の救済には税金を出し惜しみするくせに、ボロ儲けを狙って破綻した銀行には進んで税金を回すんだからな」

 幹夫が憎しみをこめて皮肉を言うと、

「銀行員の給料もボーナスも下げなね。金がないんやったら、国会議員の人数も給料も減らさな。自分達は何も痛まんようにしとる」

 と、ミサエが憤慨に耐えないという感じで言う。   

「そういう問題でもないんだがね。要は税金の使い方だよ。それがおかしいんだ」

 幹夫は政策よりも具体的な人間の攻撃に向いがちなミサエの批判の方向を是正しようとする。リストラ、倒産、失業者の増大、政治家・官僚の腐敗など、幹夫の政治批判の材料には事欠かない。幹夫が食卓で提供する話題は大部分がそれだった。彼は学生時代、革新的な思想に触れ、その運動に関わったことがあった。就職してからは、そういう運動とは離れたが、考え方は捨てることができなかった。そういう目で政治の有様を見ると、年を取るとともに憤懣は募るばかりだった。それが職場では口を噤んでいる分、一杯入った夜の食卓で吐き出されてくるようだった。彼にとって食卓での政治批判はストレス解消でもあったのだ。そして、それに最も反応し、同調するのがミサエだった。食卓で幹夫とミサエが交わす会話は殆どがこの種の会話だった。ただ、同調すると言ってもミサエは、幹夫の言葉をそのまま受け入れることはなかった。彼女は幹夫とは違う例や根拠を挙げて政治批判をした。それには幹夫から見れば誤りと思われるものも多かった。しかしそのことを幹夫が言っても、ミサエは「そうかねえ」と疑わしげに言って首を捻り、頷くことはなかった。幹夫は苦笑しながら、よほど自分の考えに自信があるのだろうと思うのだった。政治批判が身近な町会議員や町長を(悪く言う)ことに移っていくのもミサエの話の特徴だった。

 宗造が自ら新しい話題を語り出すことはめったにない。あるとすれば、「グッズというのはどういう意味かね」というような質問だ。宗造はマスコミで流れる横文字の言葉の意味を時折幹夫に尋ねた。解らない言葉があるとすぐ辞書を引くというのが、宗造のボケ防止のようだったが、それでも解らないと食卓で幹夫に尋ねてくるのだ。ボケ防止と言えば、彼は大手出版社の月刊の総合雑誌を定期購読していたし、ぺン習字の練習もしていた。それらはずっと前からやっていたことだが、今となってはボケ防止の意味もあるはずだった。何かきっかけがあれば勢いこんでしゃべり始めることもある宗造だが、大体において寡黙だった。初めて同居した頃は、宗造が沈黙していることに、何か不愉快なことでもあるのかと、幹夫は落着かぬ思いをしたものだ。それでも時折、実際的な用事でミサエに話しかけたり、幹夫の政治批判に賛同の言葉を発したりした。幹夫は宗造にしゃべらせるために意識的に話しかけることもあった。過去のことを訊くのだ。すると、戦時中は陸軍の中尉であり、戦後は国鉄に定年まで勤めた宗造は、自分が得意に思う頃の話を始めるのだった。近隣にはなった者がいない陸軍中尉になって、白馬に跨がって帰郷した時の晴れがましさ、将校として部下を掌握するための要領などを力をこめて語るのだった。宗造によれば「率先垂範」こそが肝心だった。国鉄時代にも軍隊の経験は役に立ち、何ごとにも意欲をもってぶつかっていくなかで、工場長の信頼を得て、可愛がられ、退職時には、自分の第二の勤め先として建てられたような独身寮の所長に就任したことなどが語られた。国労が分裂したときには第二組合の委員長を務め、退職前の最後の時期には、肩叩きの対象になっている労働者に連日退職を迫るという嫌な仕事もしたようだ。

 ミサエが食卓でよく話すのも自分の過去の思い出だった。その大部分が娘時代を過ごした満洲生活の話だった。ミサエは十五歳の時、銀行の支店長だった叔父を頼って満洲に渡った。その前年に生母が亡くなっていた。叔父の転勤に従って、大連、新京、龍井と移り住んだ。敗戦は龍井で迎えた。ミサエは当時のことを克明に覚えていて、幹夫を相手に語る話には際限がなかった。満洲譚が始まると、幹夫はまた長くなるなと、少々辟易する思いがしたものだ。女学生として、あるいは娘として過ごした満洲時代は、ミサエにとって懐かしく誇らしい時代だったようだ。銀行支店長の叔父の家は裕福だった。夕食の食卓には日本では食べたことのないような西洋料理が並んだ。ミサエは時折、夕食にパスタ料理や魚のマリネなどを作ったが、それらは当時覚えたものだった。こんな料理を作れる女はこの近所にはいないよ、というのがミサエの自慢だった。叔父の家には世界文学全集なども揃っていた。ミサエはパールバックの「大地」を読んで感動したという。大杉栄虐殺で有名な甘粕正彦が、当時、満映(満洲映画協会)の幹部に納まっていたが、女学校の同級生の姉が甘粕の情人だったという話や、歌手の東海林太郎が隣人の知合いだったという話も出た。叔父の趣味はのろ撃ちだった。休日の前の晩は喜色満面で準備をしていたという。コニャックやウイスキーなど、貰い物の高級な洋酒が棚に並んでいたが、叔父は下戸だった。ゴルフ道具も一式持っており、網を張ったゴルフの練習場を家の中に作っていた。ミサエの口吻には日本にいる者よりも水準の高い生活をしていたということを誇示する気持が感じられた。事実上の植民地における日本人という特権に加えて、国策会社的な銀行の支店長という地位がもたらした裕福な生活だった。しかし、この叔父は敗戦後、朝鮮人の警備隊に連行され、消息不明となった。叔父を含む三人の日本人が連行され、二人は数日後に帰されたが、叔父は戻ってこなかった。トラックに乗せられて連行されたが、朝鮮人たちは途中銀行に寄って叔父に金庫を開けさせ、金を取ったらしい。叔父を連行する際、朝鮮人の一人はミサエのモンペから万年筆を奪ったという。

 初めの同居の時は三日に一度というぐらいに聞かされたミサエの満洲譚だったが、七年振りに向き合った食卓では、語り尽くしたというのか、めっきり少なくなっていた。と言っても、何かきっかけがあればすぐに火がつくのだったが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る