坂本梧朗

第1話


 幹夫と菜香の夫婦は七年間のアパート暮らしに終止符を打って、菜香の両親と同居することになった。両親の年齢が八十に近づいたからで、年寄り二人だけの暮らしは心配だという菜香の言葉に幹夫が従ったのだ。ベッドタウンとして開けてきたとは言え、依然として農村の面影を濃く残す地域にある菜香の実家の家は、木造二階建ての大きな家で、部屋数は十以上あった。子供のいない幹夫夫婦は、自分達の家を建てることには消極的だった。ことに菜香は親と同居することを早くから考えていた。それは実家の大きな家を活用しようとする合理的な考えだった。家の新築などという浪費をする必要はないのだ。幹夫は次男であり、実家には長男夫婦が母親と同居していた。幹夫の父親は既に亡くなっていた。菜香は二人姉妹の妹だったが、姉は県外に嫁ぎ、正月に顔を見せる程度だった。

 実は幹夫夫婦は以前にも菜香の両親の家に同居したことがあった。結婚した二人はアパート住まいを始めたが、五年ほどが過ぎると、幹夫の勤める市役所からは遠くなるが、菜香の両親と同居したほうが家計を節約できると考えるようになった。その頃はまた、うっかりして起こした追突事故の処理や職場の人間関係で悩んだ幹夫が、精神的なスランプに陥っていた時期だった。田舎に行こうという菜香の提案は、一種の気分転換、あるいは緊急避難の響きをもって幹夫には聞こえたのだ。しかし、親の家で五年あまりを過ごした後、夫婦は同居生活を切り上げ、再びアパート暮らしを始めた。

 アパートに移って六年ほど経った頃から、菜香は実家の両親についての気がかりを口にし始めた。幹夫は親を気遣う子としての自然な気持とそれを聞いていた。

 ある日、突然、菜香は犬を飼いたいと言い出した。アパートの大家は犬を飼うことを禁じていたが、その数日後、菜香は知人から子犬を一匹もらってきた。子供のいない菜香は淋しいのだろうと思い、家の中で飼うのだから構うまいと幹夫は是認した。幹夫もその子犬を可愛がった。子犬は成長し、散歩に連れて行かなければならなくなった。二人は大家への顧慮より、子犬の成長にとっての必要の方を優先した。子犬はすでに家族だった。毎日の散歩はやがて大家の知るところとなった。散歩を始めた時から二人はアパートを出なければならなくなることを覚悟していた。アパートに移って七年が過ぎていた。菜香の両親の年齢も八十に迫っていた。経費のかかるアパート暮らしを続けることの無駄も思われていた。

 幹夫が菜香の両親と再び同居生活を始めるに当って思ったことは、今度は腰を落ち着けなければいけないということだった。生活の拠点をあちこちと移してよい歳ではもうなかった。少々の不如意は我慢しなければなるまいと幹夫は腹を括った。

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