第82話 かえれ

 友人の高柳から聞いた話。


 とある週末、高柳は友人のMと自宅で酒を酌み交わしていた。

 会社の伝手で良い牛肉を頂いたとかで、ちょうど都合のあいていたMを誘ったのだそうだ。


 近年猛威を振るう流行病により外食を控えるようになった影響で友人同士でのこうした機会も著しく減っていたこともあり、つい興がのって気がつけば終電の時間である。


 しかしMは翌日の昼から用事があるにもかかわらず「始発で帰れば、ちょっと寝る時間くらいあるって」と持っていたチューハイの缶を振る。

 チャプチャプとかすかな音から察するに、もうほとんど中身は残っていないようだ。

 高柳の方は特に予定もないから徹夜でも問題はない。しかしもう飲み物のストックも尽きかけている。このまま一晩をあかすなら、一度近所のコンビニへ買い出しにいった方がいいだろう。


 そう告げると、Mが「なら駅のほうまで行かねぇ?」と言い出した。

 やはり帰るのかと思ったが、どうやら駅近くにある〇〇銀行のATMで翌日分も含めて金をおろしておきたいらしい。

 コンビニのATMでは手数料がかさむし、翌日にまわすと万一寝坊した時におろす余裕がないかもしれないと言う。

 高柳も最近の手数料の値上げは身に染みているし、久しぶりの機会をこれでお開きにするのももったいないというMの気持ちもわかる。

 調べればギリギリ営業時間内のようだし、酔いざましにはちょうどいいかと了承した。


 十分ほど歩いてたどり着いた〇〇銀行は正確には出張所で、小さな一階建ての建物だった。銀行のロゴが描かれた硝子窓の向こうには、節電のためか少々薄暗い十畳程度のスペースに二台のATMが間隔をあけて静かに佇んでいるのが見える。

 自動ドアを抜けて中に入ると、冷房の効いたひんやりとした空気が首筋を撫でた。

 MはさっそくATMの片方へとりつくと操作を始めた。


 高柳は待っている間、適当に建物の中を見渡す。

 契約している銀行ではないため中に入るのは初めてだったが、ポスターやパンフレットがいくつか置かれている程度で特に目新しいものはない。

 天井の隅にぶら下げられているスピーカーから、なにやらアナウンスが流れている。

 年配の男性の声で詐欺の注意を促している内容なのだが、スピーカーの質が悪いのかそれとも録音したマイクが原因か、どうにもガビガビと音割れしていて聴き取りにくい。


 これでは注意喚起の意味がないじゃないかと思っていると、音声のざらつきがさらに酷くなった。


……ぉぉおおお、あーあーぁーうーいー


 機材の不調を疑うほど、どんどん音の判別が困難になっていく。


……ぃぃんでぇぇー、ぁぁわぁーぃぃぃいー


 これではもうただの雑音である。

 まるで口や舌をまともに動かせない老人が大声でうめいているようでもあり、あまりの不気味さに高柳は顔をしかめた。


 酒が入っているせいで手間取っているのか、MはまだATMを操作している。

 外で待つには夜とはいえ夏の気温は高い。

 スマホを置いてきたため他に時間を潰す方法もなく、高柳は仕方なくアナウンスを流し聞いていたが、ふとあることに気がついた。

 いつの間にか音声の内容が変わっているのである。

 相変わらず聴き取りづらいが、よくよく耳をすませば別のことを――詐欺への注意喚起以外の、それももっと短い内容を何度も繰り返しているようなのだ。


 興味をひかれ、あらためて音声に意識を集中すると、一言だけ聴き取ることができた。


(うん? 帰れって言ってる?)


 そこではたと高柳は自分たちがATMの営業時間ギリギリに訪れていることを思い出した。

 おそらく閉店アナウンスがかかっているのだ。

 Mを急かすべく声をかけようとしたところ、悲鳴が狭い室内に響いた。


 驚く高柳の傍らを、血相を変えたMが出口へ駆けぬけていく。

 わけがわからないながらも、高柳も後を追って建物の外へ出る。


 Mは少し離れたところで高柳を待っていたが、たいした距離を走ったわけでもないのに酷く息を乱し顔は青ざめていた。

 何があったのかを訊ねてもMは何も語らず、一瞬だけATMのある建物に視線を送るとすぐに高柳の肩を掴んで歩き始めた。


「…………聞いたか?」


 ぼそりと呟いたMの言葉に、高柳は一瞬首を傾げた後に頷く。


「帰れってアナウンスかかってたな」

「え?」

帰ってくれいんでくれって閉店アナウンス流れてたろ。かなり音悪かったけどさ」


 言ってるうちに高柳は、Mのあの反応は危うくATMを操作中に時間切れになってしまうことに焦ったが故だったのかもしれないと気がついた。


「……そうそう! そうだよな。あーあ、焦った。さっさとコンビニで酒買って帰ろうぜ」


 Mは何かを振りはらうように言うと、高柳の肩を叩いたのだった。



   * * *



 後日、高柳のもとにMが入院したという連絡が入った。

 流行病でこそなかったが、宅飲みをした二日後、急に高熱を出して倒れたらしい。

 病院に運び込まれてしばらくは随分と危険な状態だったらしいが、高柳が見舞いに訪れた頃にはすっかり回復して翌日には退院できるとのことだった。


「あの時かかってたアナウンス、お前は帰ってくれいんでくれって聞こえたんだよな」


 ぽつぽつとしたMの言葉に、高柳は黙って頷く。


「俺には『死んでくれ』って聞こえた」


 高柳は自分の勘違いにハッとした。

『いね』は彼の地元で『帰れ』という意味の方言である。それ故に聞き取りの困難な音声の内容を状況から踏まえて、退店を促すアナウンスだと判断したのだ。

 しかしは東京である。一地方の方言が使用されることなどありえない。


 Mが言うには、ATMから金を取り出し振り返ったタイミングで例のアナウンスに気がついたらしい。

 高柳にはほとんど雑音と変わりがなかったが、彼にはその内容がはっきりと聞きとれた。


――死んでくれ、死んでくれ、お願いだから、俺の代わりに死んでくれ。


 かすれた老人の声で、ろれつの回らない言の葉が念仏のように何度も何度も繰り返される。

 聞いたことのない異様な音声に唖然としていると、背後から――本来ならATMがあって人など立てるはずのない位置から――何者かに肩を叩かれた。

 シャツを通して感じる骨ばったミイラのようなその感触に、たまらずMは悲鳴をあげて逃げ出したのだった。


「外に出たら、中でガラス越しに爺さんが手伸ばしたままこっち見ててよぉ……」


 そう語るMの顔色は、病がぶり返したように蒼白になっていた。


 その後、Mは何事もなく退院し、現在も健康に過ごしている。

 しかし倒れた原因はわからず、医者からは寝不足化過労のせいではないかと言われたらしい。


 彼らが訪れた銀行の出張所は、今も営業している。

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