第83話 先輩のボロアパート
Hさんは埼玉県で活動しているアマチュア劇団の看板役者である。
スラリとした背の高いナイスミドルで、落ち着いた紳士から卑屈で意地汚い役まで演技の幅は広く、お客さんの中には彼が出演しているから観に来るというファンも一定数いる。
おまけに本職は医者で多忙なはずなのだが、それをおくびにも出さず三ヶ月ごとに行われる劇団の公演に皆勤賞で出演し、他への客演まで果たしているのだから恐れ入る。
そんなHさんにも「この人にはかなわない」という相手がいるらしい。
観劇の帰りに寄った居酒屋で、Hさんはその人物について話をしてくれた。
二十年ほど前、Hさんは東京は葛飾区にある、とある劇団に参加していた。
数人規模の極小劇団で今はもう解散してしまったが、当時、そこの古株で少々癖のある先輩がいたというのだ。
「とある地方で店長とかやってたんだけど、大量の借金かかえてそれ踏み倒して逃げたらしくってね。それで付き合いのあったウチの劇団の主宰の所に転がり込んだんだって。んで、下手に住民登録とかするとアシがついてマズいからって、主催の名義でぼろい安アパート借りて、そこ住んでたんだ」
バイトもできないので基本的に生活は主催が養っていたらしい。
話だけを聞けば完全に厄介な人物なのだが、役者としての演技はどっしりと味があり、作家としての発想力も高いなど、なかなかに稀有な人材でもあったようだ。
「主催はその才能に惚れこんだみたいだしね。太ってて髭面で、金がないからいっつも同じよれよれのスウェット着てるから、ホームレスだって言われれば信じちゃうくらいなんだけどさ。その外見も舞台の上じゃ持ち前の低音ボイスと相まってかなりの武器になるんだよ」
一たび舞台に出れば、どんな端役でも必ずアンケートには彼の名が書かれるほどだったという。
人柄にしても、話題と知識が豊富で、店長職を経験しているからか他人をよく見ていてよく気がつく。少々大雑把な面はあるが、基本的に穏やかな性格だったのだとか。
「しかも若い時はめちゃくちゃ有名な漫画家のところでアシスタントしてたった言うしさ。そんな設定盛り盛りの人、ホントにいるんだって思ったよ」
それくらいじゃないとあんな存在感は出せないのかもしれないけどさ、とHさんは笑った。
その先輩の名を仮に古田さんとする。
古田さんが住んでいたのは、都内で家賃一万円という激安のアパートだった。
だが安いなりの理由はあるもので、当時の時点で築六十年以上。木造、風呂なし。隙間風が当たり前の名実ともに正真正銘のボロアパートである。しかも二階建てで計四部屋の内、二階の奥にある古田さんの部屋以外はもう何年も入居がないらしい。
「ホントにボロい」
「さすがに中には入れなかった」
「家賃半分でもよくない?」
「あれ古田さんがいるから残されてるだけで、出てったらソッコー撤去されるよね」
「むしろ文化財で保護されるレベル」
とは彼の部屋を訪ねた人たちの言である。
反応は様々だったが、その中でたった一つ、誰にも共通している感想があった。
「あそこはヤバい」
建物の居住性や耐久性のことではない。
絶対に何かがいる、と皆が口をそろえるのである。
自分たち以外の気配を感じる。
どこからともなく物音がする。
女の人の声が聞こえた気がする。
隣部屋との壁に薄っすらと向こうが覗ける隙間ができているのだが、そこから誰かがこっちを見ていた。
などなど、出るわ出るわ心霊現象のオンパレードである。
Hさんはもともとそっち方面の関心はほとんど持っておらず、始めこそ話半分に聞いていたのだが、あまりに皆が口々に語るので次第に興味が湧いてきた。
ちょうど劇団の本公演にあたって、主催が古田さんの部屋に預けていた道具類を回収するというので、同行させてもらうことにしたのだった。
建物を見た第一印象は「これ本当にアパートか?」である。
外壁も扉も窓もすべて木造で、黒に近い焦げ茶色。目に見える金属部分といえば二階へ上がる外階段とそこから続く廊下だが、そちらも錆だらけで欠損がないのが不思議なくらいだ。
補修のつもりなのか、屋根の一部や外壁のところどころにトタン板が張られている。これのせいで古い倉庫のようだった。
予想以上の外観に圧倒されていると、二階奥の部屋の戸が開いて古田さんが顔を出した。
主催に続いて階段を上がる。幸い、見た目ほど老朽化はしていないようで、底が抜けることはなかった。
玄関に入ると、トンネルの中のような少し湿気のあるひんやりとした空気と蚊取り線香の匂いが鼻をかすめた。
室内は二間に別れているようで、舞台用の道具類は奥の部屋にまとめているらしい。
古田さんが道具類を入り口まで運び出し、Hさんと主催が車まで往復するという段取りを組んだ。
「暑いからさっさと終わらせて引き上げるぞ」
主催がHさんの肩を叩く。
荷物の運び出しは五往復程度で完了した。
Hさんが最後の小道具が詰まった段ボールを受け取ると、主催が「それで終わり? もうない? じゃ、古田さんありがと。邪魔したね」とさっさと階段を下りていく。
あまりにあっさりとした挨拶に少々戸惑いつつ、Hさんも「お邪魔しました」と頭を下げ玄関を出る。
「……………………」
「え?!」
思わず振り返る。が、そこには古田さんだけである。
「どうしたの?」
怪訝な様子の古田さんにHさんは口ごもりつつ、
「いま、また来てねって、女の人の声が……」
「気のせい気のせい。下まで送るわ」
古田さんに促され、廊下を歩いていく。
じゃりじゃりと砂利のように散らばった錆を踏みしめる音に混じって、コッ、カン、と硬い足音が響く。
今まではまったく気にもならなかったのに、妙に耳に障ってしょうがない。
(あれ? この足音って、俺たちのと違うんじゃ――)
Hさんはスニーカーで古田さんはビニール製のサンダルだ。ここまで硬い音はしない。それが一行の一番後ろからついてくる。
思わず背筋が寒くなった瞬間、
「気のせい、気のせい」
古田さんに優しく背中を押され、Hさんはゆっくりと階段を下りる。
キィ――
二階のどこかで戸の開いた音がした。
古田さんの部屋の戸締りが甘かったのだろうか?
いや、音はもっと近かった。それこそすぐそばの空き部屋の戸が開いたような――
「古いからちゃんと閉まらないんだよねぇ。あとでやっとくから気にしないで」
それでも古田さんは動じない。
バタバタバタ!
ガタン!
一階についた瞬間、そばの部屋から何かが動き回っているような音が響いた。
危うく段ボールを獲り落としそうになりつつ、いよいよHさんは青ざめた顔で古田さんを見上げた。
「ネズミじゃない? 隙間だらけだからどっかから入ったんだろうねぇ」
「いや、もっとでっかい音でしたよ!?」
「気のせい気のせい」
にこやかに手を振る古田さんに、Hさんは唖然とする。
「基本的に気のせいだって。気にしすぎ。運動したから疲れたんじゃないかね」
帰ったらゆっくり休みなよ、と肩を押される。
アパートの二階から誰か――しかも複数――が見下ろしているような視線を感じつつ、そちらを決して見ないよう目を伏せたままHさんは車に乗ったのだった。
アパートを後にして、しばらく無言でいたHさんがポツリと口を開いた。
「あそこ、マジでヤバイ」
主催は「だよなぁ」と苦笑して続ける。
「でもな、もっとヤバいのは古田さんだよ。あの人、全部気のせいで片づけるんだもん。変な物音がするのも気のせい。気配がするのも気のせい。窓の外からおばあちゃんが手を振ってても気のせい」
窓、というのは二階の古田さんの部屋の、ということだろう。あの部屋は廊下に面した側に窓はなかった。それはつまり――
「あそこ、涼しかったろ?」
「はい。エアコンきいてましたね」
「ないよ」
「はい?」
「電気代節約するのにテレビすらおいてない人が、エアコンなんて置くわけないでしょ。あそこは真夏でもああなの」
湿った底冷えのする空気を思い出し、Hさんは背筋を震わせた。
ならば、あそこに蚊取り線香は置いているのだろうか。部屋に入った瞬間、かすかに匂ったあの香りははたして――
Hさんにはそこを追及する勇気はもてず、今度の公演について話題をずらしたのだった。
現在、古田さんは同じ劇団に所属していた女性と結婚し、介護職に就いているという。件のアパートからも引越し、都外のマンションで暮らしているそうだ。
「結婚にあたってほとんど絶縁状態だった親御さんとも和解したっていうし、いろいろとけじめつけたんだろうね。あんな状況から生活を立て直したっていうのも含めて本当にすごいと思うよ。尊敬する」
Hさんはビールをグラスに注ぎ、献杯するように掲げると「役者からすっかり離れちゃったのは残念だけどね」と少し名残惜しそうに飲み干す。
「………ただまあ一番ヤバいのは、あんな心霊アパートに何年も住み込んで、全部気のせいですませられてる強メンタルなんだけどね」
そう笑ってHさんは話を締めたのだった。
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